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2011/09/25  青年教学1級 御義口伝「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」

 十界本有の凡夫が無作三身の当体蓮華の仏。

「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の侭十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云
 (寿量品の「如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く」の経文について)御義口伝には、次のように仰せである。
 (経文に説かれている)「如来」とは、久遠実成の釈尊だけではなく、さらには三界の衆生である。
 寿量品の眼を開けて、この三界の衆生を見れば、そのまま十界本有の当体である、とありのままに知見できるのである。
 (また、経文にある、如来が知見している)「三界之相」とは、生老病死である。それを本有の生死と見れば、「無有生死(生死が有るということは無い)」なのである。(「無有生死、若退若出」と経文にあるが)生死が無ければ退出も無いのである。ただ生死が無いということではない。
 生死を見て、厭い離れようとすることを迷いといい、始覚というのである。そのままで本有の生死と知見することを悟りといい、本覚というのである。
 今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉る時、本有の生死、本有の退出と開覚するのである。
 (また「無有生死、若退若出、亦無在世及滅度者〈生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く〉」の文は、次のようにも読むことができるのである)
 「無」も「有」も、「生」も「死」も、「若退」も「若出」も、「在世」も「減後」も、ことごとく皆、本有常住の妙法の振る舞いである、と。
 「無」とは法界同時に妙法蓮華経の振る舞いよりほかには「無い」ということである。「有」とは、地獄ならば地獄の「有りのまま」が十界本有の妙法の全体であるということなのである。
 「生」とは妙法の生であるから随縁である。
 「死」とは寿量の死であるから法界同時に真如である。
 「若退」の故に「滅後」である。
 「若出」の故に「在世」である。
 したがって、(これらを空仮中の三諦に約せば)「無」「死」「退(若退)」「減(減度)」は空諦である。「有」「生」「出(若出)」「在(在世)」は仮諦である。「如来如実」は中道である。
 (また、法報応の三身に約せば)「無」「死」「退(若退)」「減(減度)」は無作の報身である。「有」「生」「出(若出)」「在(在世)」は無作の応身である。「如来如実」は無作の法身である。
 この三身は我が一身である。「一身即三身なるを名づけて秘と為す」とはこのことである。「三身即一身なるを名づけて密と為す」もこの意味である。
 ゆえに無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮の弟子檀那等である。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故である。


 「如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり」と仰せである。
 大聖人は、この「如来」とは釈尊に限定されるものではなく、一切衆生のことであると最初に強調されている。
 「寿量品の眼」とは、生と死をくり返して永遠の生命を生きる久遠の仏の悟りの眼である。この眼から見るとき、一切衆生は十界の生命すべてを、もともと具足している「十界本有」の存在であり、一切衆生が一念三千の妙法の当体であることが明瞭になるのである。

 「三界之相とは生老病死なり」と、三界すなわち凡夫が現実に生きる世界の相とは、衆生が生老病死の諸相を現す世界であることが示されている。現実の存在は、すべて生老病死を免れない「無常の存在」だからである。
 しかし、この「三界の衆生」を、「寿量品の眼開けて」妙法の当体であると如実に知見すれば、「生」も「死」も、「本有の生死」すなわち生命に本然的にそなわった現象である。つまり、「生死」とは、「本有」の体である妙法が現す変化の相にほかならない。
 また「生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり」とは、悟りの眼から如実知見すれば、「生」と「死」だけでなく、現実世界から去っていく「退」も現実世界に出現してくる「出」もないということである。しかし、「生死」が無いということでもない。

 したがって、「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり」と仰せである。

 生死を厭い(嫌い)、恐れるのは生命の真実に暗い「迷い」の姿である。反対に、自己の生死、一切の生死を「本有の生死」すなわち妙法の生死と知見しているのが仏の「悟り」の境涯なのである。
 寿量品の久遠実成の仏は、成仏してから五百塵点劫という計り知れない長遠の期間、衆生を救済するために裟婆世界で生死をくり返す仏であり、生死を厭わないばかりか、裟婆世界で生死をくり返しながら、戦っていくなかに、仏の本来の在り方があることを示している。

 続いて、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり」と仰せである。
 「退」と「出」は、死と生である。

 「又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり」以下の御文は、「有無」「生死」「退出」「在世滅後」がすべて本有常住の当体である妙法のあらわす「振舞」であることを示されている。

 次に「生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり」の御文は、生と死を随縁と真如に立て分けて示されている。
 「寿量の死なれば」と仰せのように、あくまでも本有常住十界三千の当体である生命が現ずる生死の変化相としての死であるから法界(三千諸法)同時に真如となるのである。

 続いて「若退の故に滅後なり若出の故に在世なり」と仰せである。

 そして「有無」「生死」「退出」「在世滅後」を、空仮中の三締、法報応の三身の視点から位置づけられる。
 「無・死・退・滅」は「空」で「無作の報身」
 「有・生・出・在」は「仮」で「無作の応身」
 「如来如実」は「中諦」で「無作の法身」

 ここで大事なのは、「此の三身は我が一身なり」との仰せである。生死の本体である私たちの一身は、本来、妙法の当体であり、この一身に無作の三身を開くことができるのである。
 大聖人は、「此の三身は我が一身なり」と、「三身」といってもどこまでも私たちの「一身」のことであると強調されている。そして、天台の「一身即三身名為秘」「三身即一身名為密」も、「是なり」「此の意なり」と仰せられているように、あくまで凡夫の「我が一身」の秘密を述べているものとして開示されているのである。
 この秘密を開くのが大聖人の仏法なのである。

 最後に大聖人は、「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子樋那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」と仰せられている。
 この項の冒頭に「如来とは三界の衆生なり」と仰せのように、生死生死とくり返す凡夫自身が、十界本有の生命を持ち、「本有の生死」の当体である。

2011/09/24  青年教学1級 御義口伝「第三我実成仏已来無量無辺等の事」

 寿量品は「末法の一切衆生」が本主。

「第三我実成仏已来無量無辺等の事」
 御義口伝に云く我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり成とは能成所成なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり、百界千如一念三千と説かれたり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、惣じては迹化の菩薩此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり、彼は迹表本裏・此れは本面迹裏・然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す云云。
  (寿量品の「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
 「我実」とは、釈尊が久遠に実に成道した(五百塵点劫の昔に成道した)ということを説かれているのである。
 しかし、この寿量品の意は、この「我」とは法界の一切衆生のことである。すなわち、十界の衆生それぞれを指して「我」といったのである。
 「実」とは、それら十界の衆生が無作三身の仏であると定めたのである。このことを「実」というのである。
 「成」とは、能成・所成の二面がある。
 「成」とは開くという意味であり、法界(十界の衆生)が無作の三身の仏であると開いたのである。「仏」とはこのことを覚知することをいうのである。
 (「已来」の)「已」とは過去であり、「来」とは未来である。この「已来」の言葉の中に現在はあるのである。
 (以上のことから「我実成仏已来無量無辺」の文は)我実と成けた仏にして已も来も無量であり無辺である(と読むのである)。
 このことを百界千如・一念三千と説かれている。すなわち、「百千」の二字は、「百」とは百界であり、「千」とは千如を意味している。これが即ち事の一念三千である。
 今、日蓮及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主である。
 総じていえば迹化の菩薩はこの寿量品に手をつけ関与する資格を持っていない。それゆえ、迹化の菩薩は「迹表本裏(迹を表とし本を裏とする)」である。これに対して本化の菩薩は「本面迹裏(本を面とし迹を裏とする)」で弘めるのである。
 しかしながら、(本化の菩薩が本門を表にするからといって)寿量品は末法の要法とはならない。
 なぜならば寿量品は釈尊在世の衆生のための脱益であり、ただ題目の五字のみが末法の衆生の下種となるからである。
 そうであるから、釈尊の在世は脱益、滅後は下種であり、下種の妙法をもって末法弘通の究極の法と為すのである、と。

 寿量品の真の主役は、一切衆生、なかんずく末法の人々であることを明かした「御義口伝」である。
 寿量品の真意を日蓮大聖人の仏法の立場から説明されていく。
 まず、「我実成仏已来」の「我」とは、釈尊一人をいうのではなく、「法界の衆生」「十界己己」、つまり法界すべての衆生を指すと釈されている。
 また「実」については、「実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり」と仰せられている。ここで「実」とは「まこと」「本当」の意味である。
 大聖人は「成仏」の「成」とは「成る」ではなく、「開く」という意味であるとされている。
 どこまでも衆生が、自らの生命の本質に目覚め、自身が無作三身如来であると開き顕すことが成仏にほかならないとの仰せである。凡夫の身のままで、究竟の仏の生命の境涯を顕す。
 「仏とは此れを覚知するを云うなり」とは、「我が身が無作三身即妙法の当体である」と覚知した衆生こそが「仏」なのであるとの教えである。
 続いて「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり」と仰せである。

 以上の「我」「実」「成仏」「已来」についての釈をふまえて、大聖人は「我実成仏已来無量無辺」の文を「我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」と読むように教えられている。

 「百千万億那由他劫なり」については、「百界千如一念三千と説かれたいり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり」と仰せである。
 「御義口伝」では、「百」「千」とは時間的長遠を示しているだけでなく、「百界千如一念三千」を示していると明かされている。
 無始無終の十界互具・一念三千の生命を示しているのである。
 そして、この「事の一念三千」の生命を、末法の凡夫も開き顕していけることを次に説かれていくのである。

 「寿量品の本主」とは寿量品の主役の意である。大聖人は、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者」が「寿量品の本主」であると仰せられている。
 寿量品の法体である南無妙法蓮華経を末法で弘通するのは本化の菩薩の役割。

 「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか」と仰せのように、寿量品も文上にとどまっている限りは末法の衆生救済の要法とはならない。
 その理由について、文上寿量品はあくまでもすでに下種・調熟されてきた在世の衆生を得脱せしめる「脱益」の法である。
 そして、「題目の五字」だけが末法の下種の法体であると断じられている。
 ここで「文上寿量品=在世の脱益」「妙法蓮華経の五字=末法の下種」と種脱相対の立場から、それぞれの法体の得益の相違を明確に示されている。
 そのうえで「在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」と仰せである。
 釈尊の在世は、脱益の法でよかった。
 それに対して、滅後末法は、すでにそのような上根の衆生はいないので、永遠の妙法の無限の力を凡夫の生命に直接、呼びあらわす働きをもった下種益の法(妙法蓮華経の五字)でなければならないことを示されている。

2011/09/24  青年教学1級 御義口伝「第二如来秘密神通之力の事」

 「如来秘密神通之力」とは無作三身の凡夫成仏。

「第二如来秘密神通之力の事」
 御義口伝に云く無作三身の依文なり、此の文に於て重重の相伝之有り、神通之力とは我等衆生の作作発発と振舞う処を神通と云うなり獄卒の罪人を苛責する音も皆神通之力なり、生住異滅の森羅三千の当体悉く神通之力の体なり、今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり、此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり、仍つて経に云く「我等当信受仏語」と信受の二字に意を留む可きなり。
 (寿量品の「如来秘密神通之力」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
 「如来秘密神通之力」の文は、無作三身の根拠となる文証である。この文においてさまざまな相伝がある。
 「神通之力」とは、私たち衆生が一瞬一瞬活動しているところを「神通」と言うのである。例えば獄卒が罪人を苛責する声もみな「神通之力」である。
 生・住・異・減する森羅三千(森羅万象)の現象の当体は、ことごとく「神通之力」の本体である。
 今、日蓮及びその門下の意においては、我が身が凡夫の身そのままの姿で成仏するのである(即身成仏)と開覚し、その境地を開くことを「如来秘密神通之力」というのである。
 成仏すること以外に「神通」も「秘密」もあいりえないのである。
 この無作の三身をば一字をもって得るのである。いわゆる「信」の一字である。ゆえに経には「我らは仏語を信受します」とある。この「信受」の二字に心を留めるべきである。

 釈尊が3回にわたって「汝等は当に如来の誠諦の語(真実の言葉)を信解すべし」と誡め、弥勒菩薩が会座の人々を代表して「我れ等は当に仏の語を信受したてまつるべし」と4度にわたって仏の説法を要請すること(三誡四請)が示されている。
 釈尊は「如来秘密神通之力」の、信受すべき寿量品の説法の肝要を一言に述べて久遠実成の法門を明かしていく。

 「御義口伝」では、まず、この「如来秘密神通之力」の文が「無作三身の依文」であると仰せられている。
 「無作三身」とは、三身を一身に具えた本来ありのままの仏の生命をいう。
 そして、この無作の三身を我が身に開き顕した根源の本仏が久遠元初の自受用身如来である。

 久遠実成の釈尊の一身に三身が具わっている。
 この三身具足の仏の存在は、これまでの爾前迹門では明かさなかったところなので「如来秘密」という。
 また、さまざまな国土で種々に姿を現じ、法を説いて衆生を救ってきたという働きを「神通之力」という。
 寿量品を文底からみれば、あらゆる衆生の生命が、本来、三身を具足するのである。
 この文底の意から「如来秘密神通之力」が無作三身の依文になるのである。

 「神通之力」とは何か特異な力を指すのではなくて、十界すべての衆生の生命活動そのもの。
 その例として「獄卒の罪人を呵責する音も皆神通之力なり」と、地獄界の衆生への振る舞いを挙げられている。
 また、森羅万象が妙法の当体であり、その変化相はすべて「神通之力」にほかならない。

 凡夫の身のままで成仏することこそ真実の「如来秘密神通之力」である。
 これは衆生自身が本来妙法の当体であって、その生命を開き顕すことが成仏ということだからである。
 日蓮大聖人は、その文底深秘の法門を「三大秘法」として具体的に明かされたのである。

 「此の無作の三身をば一字以て得たり所謂信の一字なり」とは、「信」こそが成仏の要諦であることを示された御文である。

2011/09/24  青年教学1級 御義口伝「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」

 「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく「『南無』妙法蓮華経如来寿量品」が重要。

「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」
 文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。
 御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。
 『法華文句』の巻9には「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別しては本地三仏の別号である。寿量とは詮量すなわち、詳しく量ることである。十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量する故に寿量品というのである」とある。
 (寿量品の題名について)御義口伝には次のように仰せである。
 この品(寿量品)の題目は日蓮の身に当たる大事である。神力品の付嘱がまさにこれである。
 如来寿量品の「如来」とは、釈尊のことであり、総じては十方三世の諸仏のことであり、別しては本地無作の三身のことである。
 今、日蓮及びその門下の意においては、総じては如来とは一切衆生である。別しては日蓮の弟子檀那のことである。
 ゆえに「無作の三身」とは、末法の法華経の行者のことである。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経というのである。寿量品の事の三大事とはこのことである。
 六即に配立すれば、寿量品の如来は「理即の凡夫」にあたる。
 頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時が「名字即」である。なぜならば、その時に南無妙法蓮華経の題目を初めて聞くからである。
 その題目を聞いて修行するのが「観行即」である。この観行即とは事の一念三千の本尊を観ずることである。
 そして惑障を伏することを「相似即」というのである。
 化他の実践に踏み出した境涯を「分真即」というのである。
 自身を無作の三身の仏であると究竟することを「究竟即」の仏というのである。
 総じて伏惑という在り方を寿量品の究極とはせず、ただ凡夫の当体の本来ありのままを、この寿量品の極理であると心得るべきである。
 無作の三身の所作とは何物かといえば、それは南無妙法蓮華経そのものなのである。

 「御義口伝」においては、寿量品に関して27項目を取り上げて論じられている。その冒頭が「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」である。
 ここで「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく、「南無妙法蓮華経如来寿量品」とされていることが重要である。
 これは本文において「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」と示されているように、あらゆる仏、衆生を成仏させた「根源の本仏」たる無作三身如来の名前を南無妙法蓮華経ともいうのである。
 寿量品の「如来」とは別して「本地三仏」であると言っている。これは五百塵点劫の久遠に成仏して以来、衆生救済のために種々の姿をもって出現している久遠実成の釈尊である。この仏は始成正覚の釈尊に対しては本地仏であり、しかも、その一身に法・報・応の三身を具えているので本地三仏という。
 「始成正覚の釈尊」対して「久遠実成の釈尊」は本地仏(本地三仏)

 以上の天台の『文句』の説明を踏まえて、日蓮仏法における深義を以下のように講義された。
 「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり」と仰せの「此の品の題目」とは、文上の「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく、この項の冒頭に掲げられている「南無妙法蓮華経如来寿量品」という題目である。
 「南無妙法蓮華経如来」とは、「人法体一の仏」(「日蓮が身に当る大事なり」)

無作三身とは末法の法華経の行者
 次に大聖人は、「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり」と仰せられている。これは先に引かれた天台の『文句』の釈をふまえつつ、寿量品の意をより明確に示されているのである。
 まず「如来とは釈尊」と、釈尊の名を明示されている。寿量品では、久遠に成道した釈尊が、一切の仏の本地であることが明かされた。その意味で、寿量品の如来とは、まず久遠実成の釈尊のことであり、この久遠の釈尊が、「惣じては十方三世の諸仏」と開かれるのである。
 これに対して、「御義口伝」では如来の意義について、「別しては本地無作の三身」と、「無作」の語を加えてさらに掘り下げていかれるのである。
 「無作」とは、作為を加えない、真実ありのままとの意味。
 「無作の三身」は「凡夫の当体に開かれる仏身」(総じては「一切衆生」、別して妙法を受持した「日蓮の弟子檀那」)
 さまざまな経典に説かれるような姿をした仏がそのまま現実に現れるものではない。
 現実の仏は「妙法を所持し実践する人間」

 したがって「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」とあるように、無作三身とは末法の法華経の行者であり、その無作三身の宝号を南無妙法蓮華経如来というのであると仰せられている。
 永遠の妙法である南無妙法蓮華経を受持し(法身)、妙法の功徳を信によって一身に受け(報身)、妙法をもって他の人々を救済する人生を歩む(応身)という、「法華経の行者」こそが無作三身の仏なのである。
 そして、この無作の三身の特質は、南無妙法蓮華経を受持していることにあるので、南無妙法蓮華経をもってその名(宝号)とするのである。
 また、この「南無妙法蓮華経」を受けて「寿量品の事の三大事とは是なり」と仰せである。
 大聖人は寿量品の文底の妙法を南無妙法蓮華経として顕し、末法の法華経の行者即無作の三身としてのお振る舞いを貫くなかで、南無妙法蓮華経を本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目という三つの次元に開いて末法の衆生に残されたのである。ゆえに寿量品の事の三大事とは三大秘法のことである。

 寿量品の「如来」を「六即」の配立の視点から。
 六即とは、天台が立てた修行の位のことで、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六つをいう。
 ここでは「御義口伝」の御文に沿って日蓮仏法での六即でたてる。
 ①理即は、「此の品の如来は理即の凡夫なり」と仰せられている。
 「惣じては如来とは一切衆生なり」とされているのと同じ意味で、一切衆生に等しく仏性が存在することを明かしたのが寿量品の根本趣旨であることを示されている。
 ②名字即は、「頭に南無妙法蓮華経を頂戴」した時、つまり、妙法を信受した時が名字即となるのである。
 ③観行即は、受持即観心であり、御本尊を受持して「唱題に励むこと」が観心(修行)、となる。
 だから、「観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり」と仰せられているのである。
 ④相似即は、煩悩(惑)を断じることで成仏するとは説かないので、「惑障を伏する」と仰せられている。
 これは、見思惑・塵沙惑を断ずるという意味ではなく、仏道修行にともなって起きる三障四魔や、さまざまな迷いを克服していく境涯という趣旨である。
 ⑤分真即は、「化他に出づるを分真即と云うないり」とされているのは、折伏・弘教の化他行に励む強い信心において、すでに妙法への無明を断じて、仏の生命の一分が現れているからである。
 ⑥究竟即は、凡夫の我が身が「無作の三身の仏なり」と確信して揺るがぬ境涯が究竟即となる。

 以上のように天台の六即は断惑の段階に基づく位であるが、大聖人が立てられている六即は、理即の凡夫の当体を改めることなく、名字即の「信」によって成仏することを基本にするものであり、全体として「信の深化」を示したものといえる。
 決して断惑による段階を用いられてはいないのである。
 更にまた、「唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり」とあるように、寿量品の根本義は、凡夫がそのままの姿で直ちに仏と開覚する即身成仏にある。

 「無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」とは、南無妙法蓮華経の唱題が無作三身の仏の振る舞いにほかならないということである。
 日蓮仏法では、現実生活のなかで自行化他にわたり南無妙法蓮華経と唱えるという具体的実践法が、凡夫も差別なく成仏のための道。

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