5.種脱相対
仏の生命が永遠であることは解りましたが、それでは、どうすれば、その常に存在しているという仏界を湧現させればよいのか? ということが大切です。
実は、釈尊の法華経では、どのように修行すれば仏と成れるかが、説かれていないのです。


それでは、どうして法華経によって、二乗も、悪人も、女人も成仏できたのでしょうか?
「種脱」(しゅだつ)とは「下種益」(げしゅえき)と「脱益」(だつえき)の事です。これについて、まず説明します。

例えば、ある土地に水をやり肥料を与えたとします。すると、やがて芽がでて、花が咲きます。釈尊の法華経は、この水や肥料にあたるのです。
「下種」とは、仏が衆生に初めて成仏の種子となる法を教えることをいい、その法を聞くことによって衆生の生命に成仏の種子が植えられる利益を「下種益」といいます。

しかし、ここで気を付けなければならないのは、花が咲いたのは、あくまでも、その土地に、その花の種が植わっていたからです。種も植えていないのに、どんなに一生懸命、水をやり肥料を与えても、花は咲きません。
仏に成るのも同じことなのです。已に成仏の種が生命に備わっている状態の衆生が、釈尊の法華経を聞くと、「ああ、そうだった。思い出した。」といって仏になれるのです。しかし、成仏の種が備わっていない衆生には、何の意味もありません。
仏は衆生を教化する際、下種、調熟(じょうじゅく)、得脱(とくだつ)という過程を経ます。
下種、つまり成仏の種が備わっている衆生は、調熟し、得脱することができます。

釈迦在世の衆生や、正法、像法時代の釈尊に縁している衆生(つまり、釈尊によって仏の植えられている衆生)は、釈尊の仏法(下種した衆生を調熟し得脱させるので、脱益仏法といいます)で成仏できたのですが、末法時代にはいると、下種された衆生がいないので、調熟し得脱させる前に下種しなければなりません。

このことが、釈尊の法華経には「どのように修行すれば仏と成れるか?」という成仏する為の修行方法が説かれていない理由です。末法では釈尊の仏法は意味がないのです。

寿量品に、「我本行菩薩道」(我もと菩薩の道を行じ)とあるのは、釈尊も、仏に成るための修行をしたということであり、釈尊も数多くの仏の一人であり、釈尊を仏にした根源的な法があることを示しています。

日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。
その法が、釈尊を成仏せしめ、またあらゆる仏を成仏させた仏種です。
日蓮大聖人はこの根源の仏種を南無妙法蓮華経として顕し、弘められました。
末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し唱えることにより、自身の生命に仏種が下され、初めて成仏することができるのです。

このことを日蓮大聖人は
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(P249)
と述べられています。
「彼」とは法華経文上の本門、「此れ」とは文底独一本門のことです(なお、「一品二半」とは法華経本門の中心となる部分で、寿量品の一品とその前後の半品ずつのことです)。
百六箇抄
「下種三種法華の本迹 二種は迹なり一種は本なり、迹門は隠密法華・本門は根本法華・迹本文底の南無妙法蓮華経は顕説法華なり」(P865)

本因妙抄
「問うて云く寿量品・文底の大事と云う秘法如何、答えて云く唯密の正法なり秘す可し秘す可し一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり、権実は理今日本迹理なり本迹は事久遠本迹事なり、亦権実は約智約教一代応仏本迹本迹は約身約位久遠本迹亦云く雖脱在現・具騰本種といへり、釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり理は造作に非ず故に天真と曰い証智円明の故に独朗と云うの行儀・本門立行の血脈之を注す秘す可し秘す可し」(P877)


大聖人の下種仏法によって、成仏の種子を衆生の生命に植えることが可能になり、すべての衆生が一生のうちに種熟脱を具えて仏界の生命を現し、成仏していける道が開かれたのです。
これこそが、「南無妙法蓮華経」なのです。ですから、法華経の文の底、つまり、文章の中に南無妙法蓮華経の存在を示唆しているということを、文底秘沈というのです。

末法においては「下種仏法」である、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経だけが、成仏の根源の法なのです。