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2012/01/22  仏教ツウ史 その1 ブッダ

 はじめに
 鯖板で、まよゐさんのリクエストがありましたので、仏教の歴史を書きたいと思います。
 正直、何回連載になるかも判りません。(^^;
 なるべく正確に記述したいのですが、性格が性格なんで脱線するかと思いますし、クレームが付いて中止するかも知れません。
 なんで、仏教通史と言うより仏教ツウ(痛い書き手)史になります。(^^)
 また、内容も私JunkDarkが信仰者として書いてますので、都合の良い様に取捨選択します。
 「法華経が後世の創作だ」とか「漢訳が不完全だ」とかは、ここでは基本論議しません。
 御書にもあるように「真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」精神でいきます。

 ブッダ
 言わずと知れた仏教の始祖。(^^)
 まずは、ブッダから始めましょう。
 本名はゴータマ・シッダッタ
 インドの北、ネパールのルンビニ出身。
 カピラヴァストゥ国の王子として生まれた。
 別名はいっぱいあって。
 釈迦牟尼世尊、釈迦尊、釈尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼仏、釈迦仏、釈迦牟尼如来、釈迦如来、多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三仏陀と仏典によって名前が変る人なのでややこしい。
 他にも十号(如来十号)と言って、如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊の称号もある。

 生誕は紀元前5世紀から4世紀あたりが在世と言われているが、諸説あって確定していない。
 日蓮大聖人は
 1273(文永10)年の「波木井三郎殿御返事」にて
但し仏滅後今に二千二百二十二年なり
とあるし、
 1276(建治2)年の「報恩抄」では
此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず
とある。
 大聖人は伝教大師最澄の「末法灯明記」で書かれた紀元前949年に入滅した説を取られていると思われます。
 80才で入滅したいうので紀元前1029年に生誕した事になるね。
 説によって500年ぐらい差があるので、論争が多いのです。

 さて、ブッダは19才で出家して30才で悟りを得た(日蓮大聖人は30才成道説を取られている。諸説によって29才出家35才成道や36才成道もある)人なんですが、生まれた時から逸話があって生まれてすぐに歩いて右手で天を差し、左手で地を差し「天上天下唯我独尊」と言ったとか。
 これだけで十分に伝説の人なんですが、この王子様は幼い頃から世の中の「無常」に物憂げう人だったらしい。

 長阿含経に出家のきっかけとなった話(四門出遊)がある。
 ある日、王子が城の東門から馬車で出かけます。
 途中で、杖を突き、白髪、歯は抜け落ち、全身シワシワの痩せ衰えた息も絶え絶えの一人の老人を見た。
 王子は馬車の御者に聞いた。
 王子「この人はなにものか。どうしてこのような姿なのか?」
 御者「これは老人というものです」と答えた。
 王子「この人だけが老人になるのか」
 御者「人間は誰もが年をとれば、必ずこのような老人になります」
 王子は「誰もが老いる」と聞き、遊びに行く気持ちは消え失せ塞ぎ込んでしまった。
 王子は従者に言って予定を変え城に引き返す事にした。

 出かけたはずの王子が、帰ってきたの見た父王は従者に聞いた。
 父王「なぜ戻ってきた?」
 従者「なんでも道中に老人にあってから、落ち込んでしまわれたようです」
 父王は昔に師から言われた「この子は将来出家する」という言葉を思い出していた。
 父王は楽しい事があれば心配ないと、王子の為に女性と宴席を設けてみるが王子の心は晴れなかった。

 二度目の外出は南門から。
 今度は途中で、腹を押さえ身悶え顔が黒くなった病人の、苦しむ姿を見た。
 王子「あの男はどうしたのか?」
 御者「あの男は病気に罹っているです」
 王子「誰でも病気にかかるのか?」
 御者「誰でもです。貴族も貧乏人も病気にかかります」
 王子は「誰もが必ず病気になります」と聞き、遊びに行く気持ちは消え失せ塞ぎ込んでしまった。
 王子は今度も従者に言って予定を変え城に引き返す事にした。

 出かけたはずの王子が、また帰ってきたの見た父王は従者に聞いた。
 父王「なぜ戻ってきた?」
 従者「なんでも道中に病人にあってから、落ち込んでしまわれたようです」
 父王は昔に師から言われた「この子は将来出家する」という言葉を思い出していた。
 父王は楽しい…(ry

 三度目の外出は西門から
 今度は途中で、葬列の人々と出会った。
 王子「あれは何の行列なのか?」
 御者「あれは死者を送る行列です。」
 王子「誰にでも死はあるのか?」
 御者「すべての者が死んでいくのです」
 王子「死者とはなにものか」
 御者「この死者は、親兄弟とはもう二度と会えなくなってしまったのです」
 王子「それではわたしも死ななければならないのか。そして親兄弟とも二度と会えなくなるのか」
 御者「そうです。私も王子もいずれは死ぬべきものであり、避けることは出来ません」
 王子は「誰もが必ず死ぬ」と聞き、遊びに行く気持ちは消え失せ塞ぎ込んでしまった。
 王子は今度も従者に言って予定を変え城に引き返す事にした。

 出かけたはずの王子が、またまた帰ってきたの見た父王は従者に聞いた。
 父王「なぜ戻ってきた?」
 従者「なんでも道中に葬列にあってから…(ry

 最後の外出は北門から
 今度は途中で、托鉢中の沙門と出会った。
 王子「この人は何者なのか」
 御者「出家した修行僧であらゆる欲望を離れ、ひたすら心の平静を求め修行している人です」
 王子は、そう聞き心が晴れ渡る気持ちになりました。
 王子は沙門に質問します。
 王子「沙門になるにはどうしたら良いですか?」
 沙門「頭を剃り、袈裟を着て托鉢をするのです。あらゆる欲望を離れ、ひたすら心の平静を求め修行するのです。」
 王子は、自らも出家を決意したのです。

 と言う四門出遊(しもん-しゅつゆう)の話なんですが
 なにせ王子なんで、出家するなんて当然に周囲は大反対する。
 父王も父王で、女あてがって五欲満たせば出家しないだろうとするあたりが何ともはや・・・。(^^;
 こうして王子は19才の12月8日夜半に家出をして、出家してしまいます。
 妻子を捨てて出家してしまうんだから、穿って見る人なら「ひどい人だ」と批難するでしょうね。(^^)
 王子は以降11年間あまりに及ぶ修行をします。
 有名な仙人やバラモンの所に行ってみたりしましたが、真の悟りへの道ではないので辞めてしまいます。
 王子は有能であった為に、仙人やバラモンからは「後継者として残ってくれ」と請われますが辞退するんですね。
 「居ても居なくてでもどうでもいい人」ではなく、正に「居なくてはならない人」を地で行くお話しです。

 真の悟りへの模索で、王子は苦行も試みます。
 骨と皮だけになるような激しい断食行を行いますが、苦しいだけで根本的な人生の悩みの解決にはならないと思い断食行を辞めます。
 同僚の修行僧からは、「苦行から脱落した」と批難されますし、王子から離れて行きました。
 断食で衰えた体を癒した王子は、ガヤー村の菩提樹の下で瞑想に入ります。
 そして30才の12月8日未明に、真の悟りを得ます。
 出家したのも、悟りを得た(成道)も共に12月8日と言うのが、なんとも意義深いですね。
 さて、悟りを得たブッダは、成道の喜びに暫く、その喜びを楽しみます。
 悟りから49日目ブッダは、「この悟りを説いても廻っても、人々は理解できないだろう」と考えます。
 その時、ブッダの前にブラフマン(梵天)が現れます。
 その悟りを人々に説いて廻れと3度に渡って要請されます。
 「ブッダは、悟りを自分独りのものとして、喜びを満喫しているが、その悟りはいったい何のためであったのか? 教えを説くことは難しいが、人々の救済の為に、その法を説かねばなりません。」
 こうしてブッダは、法を説いて廻る事にしますが、この一旦説法を諦めてしまうエピソード(梵天勧請)は何なんでしょうね?
 法を説く難しさを示すのか?
 悟りを得て独り満足してしまう二乗を戒めてるのか?
 一切衆生の救済という目的の再確認なのか?
 まぁ、何にしてもブッダは以降約50年間、死の瞬間まで法を説き続けます。

 こうして諸国を説法に廻り、ブッダは次々と弟子を増やし教団が出来上がってきます。
 中でも有能な弟子を十大弟子といいます。
 ・舎利弗(しゃりほつ)智慧第一。
 ・摩訶目犍連(まかもっけんれん)一般に目連と呼ばれる。神通第一。
 ・摩訶迦葉(まかかしょう)大迦葉とも呼ばれる。頭陀第一。
 ・須菩提(しゅぼだい)解空第一。
 ・富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)富楼那とも呼ばれる。説法第一。
 ・摩訶迦旃延(まかかせんねん)論議第一。
 ・阿那律(あなりつ)天眼第一。
 ・優波離(うぱり)持律第一。
 ・羅睺羅(らごら)羅云とも書かれる。密行第一。
 ・阿難(あなん)多聞第一。
 彼ら十人については、追い追い書きましょう。

 ブッダの生涯を細かく書くと、それこそ本数冊になってしまうので、これ位にします。
 別項で書くこともあるでしょう。
 次回は「仏典の結集」の予定です。

2012/01/22  仏教ツウ史 年表

 判り易いように年表を作っていきます。
 子記事に伴い、年表を編集していきます。
 仏説や、書物によって誤差があります。
 基本的に、御書をベースにしますが、史実や文献考古学などで確定してる年代があれば、それを採用します。
 まずは

年代出来事備考
紀元前1029年ブッダ誕生 伝教大師の「末法灯明記」から想定
紀元前949年ブッダ入滅 釈迦入滅後、迦葉の呼びかけにより、マガダ国・ラジャグリハの七葉窟において直弟子500人が集合し、釈迦の説いた教えをまとめる(第1結集)。
 入滅から100年後、ヴェッサリーにおいて700人の比丘を集め、第2結集が行われた。 このとき、戒律を巡って見解の対立を生じ、教団は「上座部」と「大衆部」に分裂した(根本分裂)。 その後も分裂は続き、20部に分かれる(枝末分裂)。
紀元前544年仏滅紀元元年 スリランカやミャンマーでは、この年を仏滅としている。タイ・カンボジア・ラオスでは翌年が元年。
紀元前4世紀から紀元前1世紀阿含経成立
紀元前323年アレキサンダー大王の東征北西インドまで征服、ギリシャ文化がインドに流入する。
紀元前260年頃アショカ王上座部仏教を外護する。
紀元前3世紀セイロン島(スリランカ)に仏教が伝わる(スリランカの仏教は上座部仏教)
紀元前150年~50年『法華経』の成立。
西暦
1世紀頃ガンダーラで仏像が成立
65年中国に仏教が伝わる 迦葉摩騰と竺法蘭の二人の僧が、白馬に乗り都の洛陽を訪れた。
 二人に因んで洛陽郊外に建立された中国最初の仏教寺院は白馬寺。
2世紀中ごろから3世紀中頃竜樹が活躍 南インドのバラモンの出身。インド大乗仏教中観(ちゅうがん)派の祖、一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の注釈書を多数著して宣揚した。
3世紀頃サンスクリット仏典の漢訳が開始
4世紀頃仏典の漢訳が進む仏図澄(232-348年)や鳩摩羅什(344年-413年)が漢訳をする。
4世紀頃朝鮮半島に仏教が伝わる
5世紀頃大乗仏典が中国に伝来『華厳経』、『法華経』、『涅槃経』など。
538年(552年)日本に仏教が伝わる
7世紀前半チベットに仏教が伝わる チベット仏教は大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教として発展する
11世紀ビルマに仏教が伝わる
13世紀タイに仏教が伝わる
13~16世紀モンゴルに仏教が伝わる
17世紀カスピ海北岸に仏教が伝わる
18世紀南シベリアに仏教が伝わる

2012/01/14  遅ればせながら…。

 明けましておめでとうございます。
 「青年学会 拡大の年」と、意義深い年がスタートしました。

 年明け早々に、病気しまして寝込んでおりました。(^^;
 やっとこ復活です。

 地区では今年は例年にない事もしてみようと、未来部・青年部との共同活動を行います。
 普段は会合に来れないメンバーに、入場券のデザインを頼んだりと、少しでも参加出来る試みをしてみてます。
 未来部司会の座談会とかね。(^^)

 本年も、よろしくお願いいたします。m(_ _)m

2011/10/25  同じようで、同じじゃない。でも同じなんです。

 すでに1ヶ月前の出来事。
 青年教学1級のテキストを作る為に、妙法蓮華経並開結を読んでいた。
 勧持品や寿量品を、研鑽してみると判らない事だらけ…。(^^)
 「一度、ちゃんと全文読んでみないと駄目だな」と思いながら読んでいた。

 家にある書籍は殆どが、聖教新聞社刊の物ばかりです。
 亡父は、書籍好きで古い物も多い。
 書棚にあった「三国志」や「水滸伝」は旧仮名遣いの物であった為、中学生の時に読んで「読みにくい本だなぁ~」と思ってました。
 読み切ってから、本屋で文庫の三国志をめくって「げっ、もの凄く読みやすい…(゜゜)」と思った物です。(笑)

 そんなんもあって、近くの大型本屋で他社の法華経本を見てみる事にしたんです。
 パラパラと散見してみると、結構種類がありました。
 現代語訳の法華経本や、あらすじをマンガにした物もあったりとバラエティに富んでます。
 内容も様々で、「釈尊サイコー」から「日蓮がこう解釈した」まで千差万別。(^^;

 そんな中、鳩摩羅什三蔵訳「妙法蓮華経」の全文が載っている本も当然にあった。
 まぁ、解釈文は釈迦本尊の文上読みなのは仕方がないとして、漢文に目を通すとそこには。
 「隨所應可度 為説種種法 毎自作是意 以何令衆生 得入無上慧 速成就佛身。」
 とあった。
 えっ?
 「隨應所可度 為説種種法 毎自作是 以何令衆生 得入無上 速成就佛身。」
 じゃあないの???
 何冊か、寿量品が書いてある本を見たが、同じように違う自我偈があった。

 おおっ、なんだよ。軽い気持ちで他書を見ただけなのに、えらい疑問できちゃったよ。(^^;;;
 と、凹んで帰って来たんですが、試験も迫っているので、その疑問を取り敢えず置いといて勉強しました。(^^)

 試験も終わって、その疑問を調べてみると、どうやら底本の違いによるらしい。
 大正に編纂された「大正新脩大蔵経」が東アジアでは広く使われているようです。
 これは「高麗海印寺本」を底本として諸本と校合して編纂されました。
 大正大蔵経を底本にした書籍では「隨所應可度 為説種種法 毎自作是意 以何令衆生 得入無上慧 速成就佛身。」になっているようです。
 大正大蔵経は他部分にも異字だったり、語順が違ったりして誤謬、誤植が指摘されています。
 語順が変っても、レ点の位置が変わるぐらいなんで良いのですが、語が違うと意味が変っちゃうので困ったものですね。
 現在、敦煌やシルクロードで発掘された、未分類の漢訳断簡の研究がされているみたいですので、今後の発表が楽しみですね。

 御義口伝では「得入無上道」で講義されているから、日蓮大聖人は「宋版大蔵経」を基本にしているみたいです。
 日蓮大聖人が立正安国論をご執筆の為、訪れた岩本実相寺の宝蔵にあった一切経は、この「宋版大蔵経」だったようです。
 実相寺の一切経は、武田氏の侵攻で焼失してしまい、殆ど残っていないとの事です。

 日々読むお経本の中には異体字の漢字もあったりして、ややこしいです。
 一部の人が、自我偈の「諸天撃天鼓」の「鼓(つつみ)」の文字のつくりがお経本では「皮」で間違っている。と言う人がいます。
 パソコンで打てる漢字では出ないだけで、間違いでもなんでもありません。
 ただの異体字です。
 だって鼓って動物の「皮」を張って造るでしょ。(^^)

 現在、残っている漢訳の法華経は「正法華経」(竺法護訳、2世紀)、「妙法蓮華経」(鳩摩羅什訳、5世紀)、「添品妙法蓮華経」(闍那崛多・達磨笈多共訳、7世紀)の三つ。
 漢訳は幾度となくされていた様ですが、残っているのは三つだけ、他は残っていません。
 日本に一番始めに入って来たお経は「法華経」ですが、どの漢訳法華経かは判ってません。
 ちなみに、「妙法蓮華経」と「添品妙法蓮華経」は漢訳が似ています。
 と、言うか殆ど同じです。
 補足漢訳な感じですね。

 「正法華経」も「妙法蓮華経」も「添品妙法蓮華経」も寿量品を読むと、どれも「如何にして衆生を成仏させるか」を説いています。
 日蓮大聖人が、鳩摩羅什三蔵の「妙法蓮華経」を元に法華経を広められたのは、なぜでしょうか?
 訳の正確さなどではなく、仏の念願を叶えるのに最適な漢訳経典だったから、その真意が「慈悲」に溢れていたからではないでしょうか?

 どれだけ、衆生を救えるか? 成仏させるか? そこに一念を尽くしたいと思います。

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