無作三身の仏と悟る自我得仏来の行者。
「第十一自我得仏来の事」 御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。
(寿量品の自我偈の冒頭の「我れは仏を得て自り来」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
この経文は、この(「自我得仏来」の)一句で三身のことを習得する文である。といわれている。
すなわち「自」とは九界、「我」とは仏界である。この十界の衆生は本有無作の三身にして来る仏であるというのである。
この経文は、「自」(九界)も「我」(仏界)も本然的にそなえた仏が来たという意味で、十界本有の明文である。
「我」は法身、「仏」は報身、「来」は応身である。この三身は無始無終の古仏であり、自ら得たものである。信解品に「無上の宝聚は求めざるに自ら得たり」とある経文を思うべきである。
したがって、(このような仏を説く)顕本遠寿の説は諸教には絶えて説かれなかったのである。
今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るのは自我得仏来の行者なのである。
この「我れは仏を得て自り来」との自我偈冒頭の句を「一句三身の習いの文」と言うと述べられている。「一句三身の習いの文」とは、この一句に法報応の三身が示されているという意味である。
仏も九界の衆生もともに「本有無作の三身」の現れなのである。
「我仏来」の三文字をそれぞれ法報応の三身に配され、法報応の三身を一身に具えているのが久遠(無始無終)の仏であり、妙法を受持する者は、この三身即一身の古仏を自得するのであると仰せられている。
「我」は「法身」。
真理(法)を体とする仏であり、それがまさに仏の「我」だからである。
「仏」は「報身」。
菩薩が誓願と行の報いとして獲得した智慧の身を「報身」と言う。また悟り、智慧を得た人の意を「仏」でもある。
「来」は「応身」。
衆生を化導するために衆生の機縁に従って種々の形となって出現する仏身を「応身」と言う。また仏が衆生の機縁に応じて出現する(来る)ことを指すからである。
「自得」とは他から与えられるのでなく、わが身に自ら得ること。
妙法を信ずるとき、衆生がわが身に無作の三身如来を開き顕すのである。
「無上宝聚」すなわち無作三身如来という最高の境涯を一切衆生は自らの生命にもともと具えている。
それを妙法を自覚し、信受することによって享受できるのである。
この項の結びとして「然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり」と仰せである。
これは、以上に示された、我々が本来「無始の古仏」であるという法理は、この寿量品以前にはいかなる経にも説かれていない法門である、との意である。
「顕本遠寿」とは、妙楽の『法華文句記』の言葉で「本の遠寿を顕す」と読む。
「本の遠寿」とは、文底の義では久遠元初・無始無終の仏の寿命をいう。
それ故に「今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり」と仰せられている。
すなわち、文底独一本門である「南無妙法蓮華経」を唱える大聖人一門こそ、我が身が無作三身の仏と悟る「自我得仏来」の文を行じている者である。