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2011/09/02  青年教学1級 開目抄第6段「文底真実を判ず」

 三重秘伝。
 法華経-本門寿量品-文の底

第6段「文底真実を判ず」
 但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり、一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。
 ただし、この法華経に二つの大事な法門(迹門理の一念三千と本門事の一念三千)がある。
 倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗などは、一念三千の名さえ知らない。華厳宗と真言宗との二宗は、一念三千の法門をひそかに盗んで自宗の教義の骨格とし、眼目としている。
 この一念三千の法門は釈尊の一代仏教の中でもただ法華経、法華経の中でもただ本門寿量品、本門寿量品の中でもただその文底に秘し沈められたのである。
 正法時代の竜樹や天親は、一念三千の法門が法華経に秘められていることは知っていたが、それを拾い出して説くことはせず、ただ像法時代の正師であった中国の我が天台智者だけがこれを心の中に懐いていたのである。

 仏法の究極である一念三千の法門は、法華経の、本門の寿量品の、文の底に沈めてある。
 ※「但」の字は三重に冠して読む。
  但法華経…………権実相対
  但本門寿量品……本迹相対
  但文の底…………種脱相対


2011/09/02  青年教学1級 開目抄第5段「権実相対して判ず」

 仏説はいろいろあるが、法華経が一番です。

第5段「権実相対して判ず」
 但し仏教に入て五十余年の経経・八万法蔵を勘たるに小乗あり大乗あり権経あり実経あり顕教・密教・ナン語・ソ語実語・妄語・正見・邪見等の種種の差別あり、但し法華経計り教主釈尊の正言なり三世・十方の諸仏の真言なり、大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す、分身の諸仏・来集して長舌を梵天に付く此の言赫赫たり明明たり晴天の日よりも・あきらかに夜中の満月のごとし仰いで信ぜよ伏して懐うべし。
 ただし、仏教の中に入って、50年余りの間に説かれた経々、すなわち八万法蔵といわれる数多くの経について考えてみると、そのなかに小乗経もあり、大乗経もある。
 大乗経の中でも、真実の教えを説くための方便として仮に説かれた権経もあり、真実を明かした実経もある。
 衆生の機根に応じて真意をはっきりと言葉で説いた顕教と仏の真意を秘密にして説かれた密教、あるいは意を尽くした語(ナン語)と粗雑で意を尽くさない語(ソ語)、また、真実の言葉(実語).と偽りの言葉(妄語)、正しい見方(正見)と誤った見方(邪見)等々、種々の差別がある。
 こうしたなかで法華経だけが教主釈尊の正しい真実の言葉であり、三世十方、すなわち全宇宙の一切の仏のまことの言説である。
 釈尊は法華経以前の40年余りという年限を指して、その期間に説かれた数多く、の経々を無量義経で「いまだ真実を顕さず」と述べられ、最後の8年間に説いた法華経において「要ず当に真実を説くべし」(方便品)と定めたところ、多宝仏は大地から出現して「釈尊の説法は皆これ真実である」(宝塔品)と証明した。
 さらに分身の諸仏は十方の世界から集まりきたって、長舌を梵天につけ、法華経が真実であることを証明した。
 この「法華経が真実である」等の言葉は光り輝いて、晴天の太陽よりも明らかであり、夜中の満月のように明るくはっきりしている。仰いで信じ、伏して思うべきである。

 でも仏の教えはたくさんあって、いろいろな種類がある。
 その中でも、「法華経」だけが 真実の言葉だ。
 なぜなら法華経を説く前に釈尊は、それまでの教えを.「未顕真実」(未だ真実を顕さず)と言い、法華経では『要当説真実」(これから真実を説きます)と言った。

2011/09/01  青年教学1級 開目抄第4段「内外相対して判ず」

 儒教・外道に対して釈尊はすごい。

第4段「内外相対して判ず」
 三には大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり況や見思枝葉のソ惑をや、此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文一偈・妄語にあらず外典・外道の中の聖賢の言すらいうこと・あやまりなし事と心と相符へり況や仏陀は無量曠劫よりの不妄語の人・されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし、初成道の始より泥オンの夕にいたるまで説くところの所説・皆真実なり。
 第3に大覚世尊(釈尊)は一切衆生の偉大な導師・偉大な眼目・偉大な橋・偉大な舵取り・偉大な福徳の田等である。
 儒教の四聖(尹寿、務成、太公望、老子)や、外道の三仙(迦毘羅・ウ楼僧ギャ・勒裟婆)は、その名は聖人といっても、実際には見思惑・塵沙惑・無明惑という三惑のうち一つさえ断ち切っていない迷いの凡夫である。また、賢人といっても、実は因果の道理を知らないことは、まるで赤子のようなものである。
 そのような聖人、賢人を船と頼んで、この苦悩と迷いの生死の大海を渡ることができようか。彼らを橋として六道の悪路をこえることは難しい。
 それに対して、我が釈迦仏は、変易の生死(二乗や菩薩等の迷いの生死)を超えられた方である。まして分段の生死(六道を輪廻する凡夫の生死)を超えているのはもちろんである。
 生命に本来そなわっている元品の無明(=根本の迷い)をも断ち切られている。まして見惑・思惑など枝葉の迷いを断たれているのは言うまでもない。
 この釈迦仏は、30歳で成道されてから80歳で入滅されるまで、50年間に一代聖教を説かれた。その一字一句は皆真実の言葉であり、一文一偈として偽りの語はない。
 外典や外道のなかの聖人・賢人の言葉ですら、その言っていることに誤りはなく、事(言動)と心が相一致している。ましてや仏陀は無量曠劫というはるか遠い昔から、ウソ偽りの言葉を言われなかった方である。
 故に、その一代50余年の説教は、外典や外道に対すれば、すべて大乗であり、偉大な人(大人)の真実の言葉なのである。
 30歳での成道の初めから、釈尊最後の説法の時に至るまで、説くところの法は皆、真実なのである。

 因果を弁えない外道では、生死の大海も六道の巷も渡り超えることはできない。
 内道(仏法)に比べれば、それは「赤子」のようなもので、釈尊の説く法は「大人の実語」なのです。

2011/09/01  青年教学1級 開目抄第3段「外道の三徳」

 外道の教えとは?

第3段「外道の三徳」
 二には月氏の外道・三目八臂の摩醯首羅天・毘紐天・此の二天をば一切衆生の慈父・悲母・又天尊・主君と号す、迦毘羅・ウ楼僧ギャ・勒娑婆・此の三人をば三仙となづく、此等は仏前八百年・已前已後の仙人なり、此の三仙の所説を四韋陀と号す六万蔵あり、乃至・仏・出世に当って六師外道・此の外経を習伝して五天竺の王の師となる支流・九十五六等にもなれり、一一に流流多くして我慢の幢・高きこと非想天にもすぎ執心の心の堅きこと金石にも超えたり、其の見の深きこと巧みなるさま儒家には・にるべくもなし、或は過去・二生・三生・乃至七生・八万劫を照見し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云、此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より返つて三悪道に堕つ一人として天に留るものなし而れども天を極むる者は永くかへらずと・をもえり、各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに或は冬寒に一日に三度・恒河に浴し或は髪をぬき或は巌に身をなげ或は身を火にあぶり或は五処をやく或は裸形或は馬を多く殺せば福をう或は草木をやき或は一切の木を礼す、此等の邪義其の数をしらず師を恭敬する事・諸天の帝釈をうやまい諸臣の皇帝を拝するがごとし、しかれども外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず善師につかへては二生・三生等に悪道に堕ち悪師につかへては順次生に悪道に堕つ、外道の所詮は内道に入る即最要なり或外道云く「千年已後・仏出世す」等云云、或外道云く「百年已後・仏出世す」等云云、大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等云云、法華経に云く「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」等云云。
 第2に、インドの外道(仏教以外のバラモン教などの諸教)においては三つの目と8本の臂をもつ摩醯首羅天と毘紐天とを二天といい、この二天を一切衆生の慈父であり、悲母であり、また天尊であり、主君であると称えている。
 また迦毘羅、ウ楼僧ギャ、勒裟婆の3人を三仙と呼んでいる。
 これら3人は釈尊が生まれる前800年前後の仙人である。
 この三仙の説いた教えを四章陀(ヴェーダ)といい、その所説は6万蔵あると言われる。
 釈尊が出現したころには、六師外道(6人の外道の論師)が、この外道の経を習い伝えて、5天竺(全インド)の王の師となり、その支流は95、96派にもなっていた。
 一つ一つの流派にまた種々の流派が多くあって、それぞれが自分の流派が最高であるとし、その慢心の幢が高いことは三界の最頂である非想天より高く、執着心の固いことは金属や岩石をも超えていた。
 その見解が深く、巧みなさまは儒教等の遠く及ぶところではない。
 過去に遡ること二生、三生、七生、さらに8万劫まで照見することができ、またあわせて未来8万劫も知ることができると称していた。
 その所説の法門の極理は、あるいは「因の中に果あり」という決定論、あるいは「因の中に果なし」という偶然論、あるいは「因の中にまたは果あり、または果なし」という折衷論などである。これがインド諸教における究極の理論である。
 なかでも、いわゆる模範的な善い外道の修行者は、五戒や十善戒などの戒律をたもち、煩悩を断ずることができない不完全な瞑想を修行して、色界無色界を極め、その最上界(非想天)を涅槃(悟りの安穏の境地)と立てて、尺取り虫のように一歩一歩修行して登っていくけれども、非想天から、かえって三悪道に堕ちてしまい、一人として天界にとどまる者はいない。
 しかし外道を信じる者は、一度、非想天を極めた者は永久にかえらないのだと思っていたのである。
 おのおの自派の師匠の立てた法義を受けてかたく執着するゆえに、あるいは寒い冬に1日3回、ガンジス川に沐浴し、あるいは髪の毛を抜き、あるいは巌に身を投げつけ、あるいは身を火にあぶり、あるいは両手両足と頭の5ヵ所を焼く。あるいは裸体になったり、あるいは馬を多く殺せば幸福になれると言ったり、あるいは草木を焼き払い、あるいは、一切の木を礼拝する等々、その邪義は数え当これないほどである。
 しかも、その師匠をつつしみ敬うさまは、あたかも諸天が帝釈天を敬い、諸臣が皇帝を拝するようであった。
 しかしながら、外道の法は95派あるが、それらの修行では、善い外道であっても、悪い外道であっても、一人として生と死をくり返す迷いと苦しみの流転から離れることはできない。
 善師につかえても、二生、三生等の後には悪道に堕ち、悪師に仕えては、次の生を受けるごとに悪道に堕ちていくのである。
 結局のところ、外道というものは仏教に入るための教えであり、このことが外道のもつ最重要な意義なのである。
 それ故、ある外道は「1000年以後に仏が世に出られる」と予言した。またある外道は「100年以後に仏が世に出られる」と予言した。
 涅槃経には「一切世間の外道の経書は、すべて仏説であって、外道の説ではない」とある。
 法華経の五百弟子受記品には「我が弟子たちは、自身の姿によって、衆生に貪・瞋・癡の三毒があることを示し、また邪見の相を現す。我が弟子は(実は菩薩であるが)このように方便で衆生を誘引し救済する」と説かれている。

 インドの外道の教えは、儒教よりも深くて、多少は過去・未来を知ることができる。
 しかし、因果の理法を中途半端にしか説いていない。
 だから結局、悟りに到ることはできない。

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