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2011/09/01  青年教学1級 開目抄第2段「儒家の三徳」

 儒教の教えとは?

第2段「儒家の三徳」
 儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す諸臣の頭目万民の橋梁なり、三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず五帝已後は父母を弁て孝をいたす、所謂重華はかたくなはしき父をうやまひ沛公は帝となつて大公を拝す、武王は西伯を木像に造り丁蘭は母の形をきざめり、此等は孝の手本なり、比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり、尹寿は尭王の師・務成は舜王の師・大公望は文王の師・老子は孔子の師なり此等を四聖とがうす、天尊・頭をかたぶけ万民・掌をあわす、此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり、其の所詮は三玄をいでず三玄とは一には有の玄・周公等此れを立つ、二には無の玄・老子等・三には亦有亦無等・荘子が玄これなり、玄とは黒なり父母・未生・已前をたづぬれば或は元気よりして生じ或は貴賎・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云。
 かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去をしらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云。
 儒教においては、三皇・五帝(中国古代の伝説上の理想的君主)、三王(夏の禹王、段の湯王、周の文王または武王)たちを天尊と名づけて崇敬し、臣下たちの統領、万民を導く橋と仰いでいる。
 三皇時代以前は、人々はみな自分の父を知らず、鳥や獣と同じであった。しかし、三皇・五帝の時代からは、父母をわきまえて孝行するようになった。
 その例として、重華(五帝の一人・舜王)は愚かな父を敬い、沛公(劉邦)は漢の高祖となって一国の王となったが、なお父の太公を深く敬った。
 また周の初代の王・武王は、父・西伯の姿を木像に刻んで、父の遺志を継いで殷の紂王の討伐に出陣し、丁蘭は母の死後、その姿を像に刻んで敬った。これらは孝行の手本である。
 段の忠臣であった比干は、紂王の暴虐な政治のために殷の世が滅びることを憂えて、紂王を諌めたが、かえって首をはねられ殺された。
 衛の公胤という人は、主君の懿公が殺され、はらわたが捨てられているのを見て、自分の腹をさいて主君の肝を隠し入れて死んだ。これらは忠の手本である。尹寿は堯王の師、務成は舜王の師、太公望は文王の師、老子は孔子の師である。
 これら4人の師を四聖と呼び、堯・舜ら天尊も頭をたれて敬い、すべての人々も手を合わせて尊敬した。
 これらの聖人が説いたものに、「三墳」「五典」「三史」など三千余巻の書物がある。しかし、その根本は「三玄」のいずれかである。
 三玄とは、1には「有の玄」であり、周公らがこれを立てた。2には「無の玄」であり、老子らが立てた。3には「亦有亦無」(あるいは有であり、あるいは無である)という説で、荘子の説く玄がこれである。玄とは黒色のことで、深遠さを意味する。
 これらの説で人間がこの世に生まれる以前はどう説いているかといえば、あるいは(有の玄では)元気(万物を育成する根源的な気)より生じたといい、あるいは(無の玄では)貴賎、苦楽、是非、得失などの現象はみな自ずからそうなったものであるなどといっている。
 このように巧みにその理論を立ててはいるが、まだ過去世・未来世については何も知らない。
 玄とは黒であり、幽かという意味であり、微妙であるがゆえに、玄といわれているのであるが、ただ現世のことだけを知っているにすぎないようである。
 現世において仁義等の道徳を制定し、これを実践することによって身を守り、国を安穏に治めることができる。もしこの仁義等の道に相違すれば一族一家をほろぼしてしまうなどと教えている。
 これらの賢人、聖人と仰がれている人々は、聖人であるとはいっても、過去世を知らないことは、あたかも凡夫が自分の背を見ることができないのと同じであり、未来世が分からないのは、目の不自由な人が目の前を見ることができないようなものである。
 ただ現世において、家をおさめ、孝行をつくし、かたく仁・義・礼・智・信の五常を行ずれば、周囲の人々はこの人を敬い、名声も国中に広まり、賢王もこの人を召し出して、あるいは臣下となし、あるいは師とたのみ、あるいは王位を譲り、諸天善神もやってきて守り仕えるというのである。
 いわゆる周の武王には五人の老師がきて仕え、後漢の光武帝には天の28宿が天下って28人の将軍となり、守り仕えたというのがこの例である。
 このように、儒教等の徳は高いといっても、過去世と未来世を知らないので、父母・主君・師匠が亡くなった後は助けることができず、結局は不知恩の者となる。したがって本当の賢人でも聖人でもない。
 孔子が「この中国に賢人・聖人はいない。西の方に仏図(仏陀)という者があり、その人が真の聖人である」といって、外典である儒教等を仏法へ入るための門としたのはこの意味である。
 すなわち儒教等においては礼儀や音楽などを教えて、後に仏教が伝来した時、戒・定・慧の三学を理解しやすくさせるためであった。王と臣下の区別を教えて尊卑を示し、父母を尊ぶべきことを教えて孝道を尽くすことの大切さを知らせ、師匠と弟子の立場を明らかにして、師に帰依することの重要性を教え知らせたのである。
 妙楽大師は『止観輔行伝弘決』に「仏教の流布・化導は実に儒教が先にひろまって人々を教化していたからである。儒教の礼楽が先に流布されて、真の道である仏法が後に弘通されたのである」と言っている。
 天台大師は『摩詞止観』に「『金光明経』には『一切世間のあらゆる善論はみなこの経によっているのである。もし深く世間の法を識れば、即ち仏法である』と説いている」と述べている。
 さらに、「釈尊は三人の聖人を遣わして中国の人々を教化した」とも言っている。
 この文について妙楽大師は『止観輔行伝弘決』で「清浄法行経に『月光菩薩はかの地に生まれて顔回と称し、光浄菩薩は、かの地で孔子と称し、迦葉菩薩は、かの地で老子と称した』と説かれる。インドからこの中国を指して、『かの地』・と言っているのである」と述べている。

 儒教は親孝行とか、君臣・師弟の道を説いているけど、過去・未来のことは全然知らない。
 「現在」だけに通用するモラルを説いているだけ。
 だから、人々を根本的に救うことができない。親孝行もできない。仏教の準備段階としての意味があった。

2011/09/01  青年教学1級 開目抄第1段「三徳の標示」

 開目抄の各段ずつ学んで行きます。

第1段「三徳の標示」
 夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり
 そもそも、あらゆる人々が尊敬すべきものが三つある。それは主と師と親である。
 また、習い学ぶべきものが三つある。それは儒教をはじめとする中国の諸教と、外道(仏教以外のインド諸教)と内道(仏教)である。

 すべての人々が尊敬すべき主師親の三徳を備えた「人」はだれか?──という問題設定から始まる。
 そのためにこれから、儒教・外道を含むすべての教えを検証し、「最も優れた法とは法華経(その底に沈められている事の一念三千)」であり、「その法を覚知し、所持し、弘めている法華経の行者こそ日蓮大聖人」であり、「大聖人こそ一切衆生にとって主師親の三徳を備えた人」という結論に到る。
 (結論→最後の第50段「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり」)

2011/08/23  青年教学1級 開目抄 はじめに。

 今回の出題範囲の殆どが「開目抄」です。
 試験まで約6週間ですので、ペース配分を考えて学習していきましょう。

 開目抄
 背景(上巻66紙1帖完・身延曾存 下巻日我本・日乾本・本満寺本)
 開目抄は、日蓮大聖人が佐渡流罪中の文永9年(1272年)2月、51歳の御時、四条中務三郎左衛門尉頼基、即ち四条金吾に与えられた書である。
 本抄は、日蓮大聖人こそが末法の御本仏、すなわち「人本尊」であることを明らかにされた「人本尊開顕の書」である(翌文永10年(1273年)4月に著された「観心本尊抄」は「法本尊開顕の書」とされる)。
 大聖人は、文永8年(1271年)9月12日に、竜の口の法難(第38段を参照)にあわれ、それに続いて佐渡に流罪された。
 佐渡は念仏者が多く、大聖人を阿弥陀の敵として、命をつけねらう者も少なくなかった。
 また、鎌倉等の大聖人門下の人たちも、所領没収、追放、罰金などの刑に処され、そのなかで、「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(1224ページ)、「御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(907ページ)とあるように、疑いを起こして退転する者が多く出るありさまであった。
 本抄は、こうした状況の中で、世間や門下からよせられた、「大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ諸天の加護がないのか」等との疑問に対し、法華経の経文通りに正しく実践すれば三類の強敵による迫害が起こるというのが仏説であり、その通りの難にあっている大聖人は真の法華経の行者であることを示されている。そして、そうした大難を覚悟で一切衆生を救うために不惜身命の実践をしている大聖人御自身こそ、主師親の三徳を具備した末法の御本仏であることを宣言されている。
 竜の口の法難の後、大聖人は佐渡に流罪され、門下は激しい弾圧にあっていた。
 門下は疑問に思い、諸宗の学者は言いがかりを付けてきていた。
 ・日蓮大聖人が法華経の行者ならば、なぜ諸天の加護がないのか?
 ・迫害者に、なぜ現罰が現れないのか?
 ・悪を責める折伏行は正しいのか?


 それらの疑問に答えて、経典に基づいて日蓮大聖人こそが「末法の法華経の行者」であり「主師親の三徳」を備えていることを証明しているのが「開目抄」です。

 題号の意義
「日本国の一切衆生は邪宗邪義に執着して、日蓮大聖人が末法の衆生を救う真実の三徳具備の仏であることを知らない。その盲目を開かせよう」との意(日寛上人)
 日蓮大聖人が主師親の三徳具備の御本仏であることを示し、疑い、迷える門下や人々の眼目を開かせる為に書かれた御書になります。

 大意
 開目抄は大きく「標」(第1段)「釈」(第2~49段)「結」(第50段)の3段に分けられる。すなわち、初めに一切衆生の尊敬すべき主師親がテーマであることを「標」し、次に儒家・外道・内道における主師親を「釈」し、最後に日蓮大聖人こそ末法の一切衆生を救う主師親であると「結」ばれている。
 初めに、人々が尊敬すべきものとして主師親の三徳を示され(第1段)、次いで、儒教(第2段)・外道(第3段)・内道(第4段)で三徳を具えた者として尊敬されている人の教えを釈し、諸思想および一代聖教の浅深を判じられ(第5段)、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている一念三千こそが成仏の法であることを示されている。(第6段)(第7段~14段では、一念三千を説く法華経が難信難解であることが述べられている。難信難解には2種類あって、まず二乗作仏の難信難解を説明され第15段からは久遠実成の難信難解を示される。)
 そして、当時の日本の諸宗が、この法華経に背いていることを明かし(第7~19段)、大聖人が一人、法華経の行者として立ち上がり、多くの大難を受けてこられたことを述べられる。(第20~22段)
 本抄の後半では、”大聖人が法華経の行者であれば、どうして諸天善神の加護がないのか“という世間や門下の疑問を取り上げ(第23段)、これに答えられていく。最初は、法華経の内容に即して二乗・菩薩・天人が法華経に大恩があることを示し(第24~34段)、”彼らが守護の働きを現さないのは日蓮が法華経の行者ではないからか“と疑いを強めていかれる。(第34段)そのうえで、宝塔品の六難九易(第36段)、提婆達多品の悪人成仏と女人成仏(第37段)、そして勧持品の三類の強敵等(第38段)を考察しながら、この法華経を末法に弘める法華経の行者が難を受けるのは経文通りであることを論証される。(第39~43段)そして、法華経の行者が難を受けるのは行者自身の宿業のゆえであることや、迫害者に現罰がない理由を明かされている。(第44段)
 そのうえで「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」「我日本の柱とならむ……」と、不惜身命の決意をもって末法の衆生を救済するとの、末法の御本仏としての大誓願を示される(第45段)とともに、末法の法華経の行者の実践に具わる功徳(転重軽受と一生成仏)(第46~47段)と折伏の意義(末法の時に適った慈悲の実践)を教えられて不退転を勧められている。(第48~49段)
 最後に、この慈悲の実践のゆえに、大聖人こそ末法の人々を救済する末法の主師親であると示して、本抄を結ばれている。(第50段)
 テキストの大意からも、開目抄の話の流れが判ります。
 どの段にどの様な趣意があるのかを把握しましょう。
 日蓮大聖人は、開目抄の中で、同じ話を繰り返されています。(例えば15段と31段は、ほぼ同じ内容)
 混乱しないように、じっくりと読み込みましょう。

 次回から、各段を研鑽していきます。


2011/08/18  青年教学1級 はじめに。

 各段で、疑問質問があれば、考察していきたいと思います。
 奮ってコメント欄に書いて下さい。(^^)


 こちら「御書自習会~経太郎のページ~」で、今回の予想問題を作られています。
 ふるって活用しましょう。(^^)
 2011/9/8追記

 10月2日に、青年教学の1級試験が行われます。
 私にとっては最初で最後の1級試験になります。(^^)
 前回2006年の時よりは、試験範囲(前回は観心本尊抄、生死一大事血脈抄、兄弟抄、諸法実相抄、日顕宗を破すだった。)は狭いかも知れませんが、その分深いと思います。

 【出題範囲】
 開目抄(全編、P186~P237)
 撰時抄(P258 18行目~P259 14行目、P287 8行目~P288 7行目)
 御義口伝
  「南無妙法蓮華経」(P708初め~11行目)
  「寿量品廿七箇の大事」の「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」~「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」(P752初め~P754 8行目)、「第十一自我得仏来の事」(P756 7行目~11行目)「第十九毎自作是念の事」(P758 14行目~18行目)、「第廿二自我偈始終の事」(P759 7行目~11行目)
 日顕宗を破す。
 になります。

 開目抄は全編との事ですが、大白蓮華の臨時増刊号を見ると全50段の内、第7~14段、第18~19段、第24~31段、第35段、第39段が飛ばされてますね。
 大白蓮華を編纂されている方と、出題者は当然に別人ですので、飛ばされた部分から出題する可能性はあるのかな?(笑)
 多分、出題される可能性が低い段(重要ではない、と言う意味ではありません。寧ろ難しすぎるので出ないと思う。)なので、紙面の関係もあって飛ばされてるんでしょうね?
 大白蓮華に載ってないからと言って、読み飛ばすのではなく御書で何度かは全編拝読しましょう。
 開目抄の全体の流れが把握できます。
 これは大事ですので、必ず拝読しましょう。(^^;

 私もこの休み期間に区長から講義を受け、まだまだ途中なのですが、なるべく早めに記事を纏めたいと思います。m(_ _)m
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