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2011/09/25  青年教学1級 御義口伝「第十一自我得仏来の事」

 無作三身の仏と悟る自我得仏来の行者。

「第十一自我得仏来の事」
 御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。
 (寿量品の自我偈の冒頭の「我れは仏を得て自り来」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
 この経文は、この(「自我得仏来」の)一句で三身のことを習得する文である。といわれている。
 すなわち「自」とは九界、「我」とは仏界である。この十界の衆生は本有無作の三身にして来る仏であるというのである。
 この経文は、「自」(九界)も「我」(仏界)も本然的にそなえた仏が来たという意味で、十界本有の明文である。
 「我」は法身、「仏」は報身、「来」は応身である。この三身は無始無終の古仏であり、自ら得たものである。信解品に「無上の宝聚は求めざるに自ら得たり」とある経文を思うべきである。
 したがって、(このような仏を説く)顕本遠寿の説は諸教には絶えて説かれなかったのである。
 今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るのは自我得仏来の行者なのである。

 この「我れは仏を得て自り来」との自我偈冒頭の句を「一句三身の習いの文」と言うと述べられている。「一句三身の習いの文」とは、この一句に法報応の三身が示されているという意味である。
 仏も九界の衆生もともに「本有無作の三身」の現れなのである。

 「我仏来」の三文字をそれぞれ法報応の三身に配され、法報応の三身を一身に具えているのが久遠(無始無終)の仏であり、妙法を受持する者は、この三身即一身の古仏を自得するのであると仰せられている。
 「我」は「法身」。
 真理(法)を体とする仏であり、それがまさに仏の「我」だからである。
 「仏」は「報身」。
 菩薩が誓願と行の報いとして獲得した智慧の身を「報身」と言う。また悟り、智慧を得た人の意を「仏」でもある。
 「来」は「応身」。
 衆生を化導するために衆生の機縁に従って種々の形となって出現する仏身を「応身」と言う。また仏が衆生の機縁に応じて出現する(来る)ことを指すからである。

 「自得」とは他から与えられるのでなく、わが身に自ら得ること。
 妙法を信ずるとき、衆生がわが身に無作の三身如来を開き顕すのである。

 「無上宝聚」すなわち無作三身如来という最高の境涯を一切衆生は自らの生命にもともと具えている。
 それを妙法を自覚し、信受することによって享受できるのである。

 この項の結びとして「然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり」と仰せである。
 これは、以上に示された、我々が本来「無始の古仏」であるという法理は、この寿量品以前にはいかなる経にも説かれていない法門である、との意である。
 「顕本遠寿」とは、妙楽の『法華文句記』の言葉で「本の遠寿を顕す」と読む。
 「本の遠寿」とは、文底の義では久遠元初・無始無終の仏の寿命をいう。
 それ故に「今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり」と仰せられている。
 すなわち、文底独一本門である「南無妙法蓮華経」を唱える大聖人一門こそ、我が身が無作三身の仏と悟る「自我得仏来」の文を行じている者である。

2011/09/25  青年教学1級 御義口伝「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」

 十界本有の凡夫が無作三身の当体蓮華の仏。

「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の侭十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云
 (寿量品の「如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く」の経文について)御義口伝には、次のように仰せである。
 (経文に説かれている)「如来」とは、久遠実成の釈尊だけではなく、さらには三界の衆生である。
 寿量品の眼を開けて、この三界の衆生を見れば、そのまま十界本有の当体である、とありのままに知見できるのである。
 (また、経文にある、如来が知見している)「三界之相」とは、生老病死である。それを本有の生死と見れば、「無有生死(生死が有るということは無い)」なのである。(「無有生死、若退若出」と経文にあるが)生死が無ければ退出も無いのである。ただ生死が無いということではない。
 生死を見て、厭い離れようとすることを迷いといい、始覚というのである。そのままで本有の生死と知見することを悟りといい、本覚というのである。
 今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉る時、本有の生死、本有の退出と開覚するのである。
 (また「無有生死、若退若出、亦無在世及滅度者〈生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く〉」の文は、次のようにも読むことができるのである)
 「無」も「有」も、「生」も「死」も、「若退」も「若出」も、「在世」も「減後」も、ことごとく皆、本有常住の妙法の振る舞いである、と。
 「無」とは法界同時に妙法蓮華経の振る舞いよりほかには「無い」ということである。「有」とは、地獄ならば地獄の「有りのまま」が十界本有の妙法の全体であるということなのである。
 「生」とは妙法の生であるから随縁である。
 「死」とは寿量の死であるから法界同時に真如である。
 「若退」の故に「滅後」である。
 「若出」の故に「在世」である。
 したがって、(これらを空仮中の三諦に約せば)「無」「死」「退(若退)」「減(減度)」は空諦である。「有」「生」「出(若出)」「在(在世)」は仮諦である。「如来如実」は中道である。
 (また、法報応の三身に約せば)「無」「死」「退(若退)」「減(減度)」は無作の報身である。「有」「生」「出(若出)」「在(在世)」は無作の応身である。「如来如実」は無作の法身である。
 この三身は我が一身である。「一身即三身なるを名づけて秘と為す」とはこのことである。「三身即一身なるを名づけて密と為す」もこの意味である。
 ゆえに無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮の弟子檀那等である。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故である。


 「如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり」と仰せである。
 大聖人は、この「如来」とは釈尊に限定されるものではなく、一切衆生のことであると最初に強調されている。
 「寿量品の眼」とは、生と死をくり返して永遠の生命を生きる久遠の仏の悟りの眼である。この眼から見るとき、一切衆生は十界の生命すべてを、もともと具足している「十界本有」の存在であり、一切衆生が一念三千の妙法の当体であることが明瞭になるのである。

 「三界之相とは生老病死なり」と、三界すなわち凡夫が現実に生きる世界の相とは、衆生が生老病死の諸相を現す世界であることが示されている。現実の存在は、すべて生老病死を免れない「無常の存在」だからである。
 しかし、この「三界の衆生」を、「寿量品の眼開けて」妙法の当体であると如実に知見すれば、「生」も「死」も、「本有の生死」すなわち生命に本然的にそなわった現象である。つまり、「生死」とは、「本有」の体である妙法が現す変化の相にほかならない。
 また「生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり」とは、悟りの眼から如実知見すれば、「生」と「死」だけでなく、現実世界から去っていく「退」も現実世界に出現してくる「出」もないということである。しかし、「生死」が無いということでもない。

 したがって、「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり」と仰せである。

 生死を厭い(嫌い)、恐れるのは生命の真実に暗い「迷い」の姿である。反対に、自己の生死、一切の生死を「本有の生死」すなわち妙法の生死と知見しているのが仏の「悟り」の境涯なのである。
 寿量品の久遠実成の仏は、成仏してから五百塵点劫という計り知れない長遠の期間、衆生を救済するために裟婆世界で生死をくり返す仏であり、生死を厭わないばかりか、裟婆世界で生死をくり返しながら、戦っていくなかに、仏の本来の在り方があることを示している。

 続いて、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり」と仰せである。
 「退」と「出」は、死と生である。

 「又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり」以下の御文は、「有無」「生死」「退出」「在世滅後」がすべて本有常住の当体である妙法のあらわす「振舞」であることを示されている。

 次に「生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり」の御文は、生と死を随縁と真如に立て分けて示されている。
 「寿量の死なれば」と仰せのように、あくまでも本有常住十界三千の当体である生命が現ずる生死の変化相としての死であるから法界(三千諸法)同時に真如となるのである。

 続いて「若退の故に滅後なり若出の故に在世なり」と仰せである。

 そして「有無」「生死」「退出」「在世滅後」を、空仮中の三締、法報応の三身の視点から位置づけられる。
 「無・死・退・滅」は「空」で「無作の報身」
 「有・生・出・在」は「仮」で「無作の応身」
 「如来如実」は「中諦」で「無作の法身」

 ここで大事なのは、「此の三身は我が一身なり」との仰せである。生死の本体である私たちの一身は、本来、妙法の当体であり、この一身に無作の三身を開くことができるのである。
 大聖人は、「此の三身は我が一身なり」と、「三身」といってもどこまでも私たちの「一身」のことであると強調されている。そして、天台の「一身即三身名為秘」「三身即一身名為密」も、「是なり」「此の意なり」と仰せられているように、あくまで凡夫の「我が一身」の秘密を述べているものとして開示されているのである。
 この秘密を開くのが大聖人の仏法なのである。

 最後に大聖人は、「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子樋那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」と仰せられている。
 この項の冒頭に「如来とは三界の衆生なり」と仰せのように、生死生死とくり返す凡夫自身が、十界本有の生命を持ち、「本有の生死」の当体である。

2011/09/24  青年教学1級 御義口伝「第三我実成仏已来無量無辺等の事」

 寿量品は「末法の一切衆生」が本主。

「第三我実成仏已来無量無辺等の事」
 御義口伝に云く我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり成とは能成所成なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり、百界千如一念三千と説かれたり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、惣じては迹化の菩薩此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり、彼は迹表本裏・此れは本面迹裏・然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す云云。
  (寿量品の「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
 「我実」とは、釈尊が久遠に実に成道した(五百塵点劫の昔に成道した)ということを説かれているのである。
 しかし、この寿量品の意は、この「我」とは法界の一切衆生のことである。すなわち、十界の衆生それぞれを指して「我」といったのである。
 「実」とは、それら十界の衆生が無作三身の仏であると定めたのである。このことを「実」というのである。
 「成」とは、能成・所成の二面がある。
 「成」とは開くという意味であり、法界(十界の衆生)が無作の三身の仏であると開いたのである。「仏」とはこのことを覚知することをいうのである。
 (「已来」の)「已」とは過去であり、「来」とは未来である。この「已来」の言葉の中に現在はあるのである。
 (以上のことから「我実成仏已来無量無辺」の文は)我実と成けた仏にして已も来も無量であり無辺である(と読むのである)。
 このことを百界千如・一念三千と説かれている。すなわち、「百千」の二字は、「百」とは百界であり、「千」とは千如を意味している。これが即ち事の一念三千である。
 今、日蓮及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主である。
 総じていえば迹化の菩薩はこの寿量品に手をつけ関与する資格を持っていない。それゆえ、迹化の菩薩は「迹表本裏(迹を表とし本を裏とする)」である。これに対して本化の菩薩は「本面迹裏(本を面とし迹を裏とする)」で弘めるのである。
 しかしながら、(本化の菩薩が本門を表にするからといって)寿量品は末法の要法とはならない。
 なぜならば寿量品は釈尊在世の衆生のための脱益であり、ただ題目の五字のみが末法の衆生の下種となるからである。
 そうであるから、釈尊の在世は脱益、滅後は下種であり、下種の妙法をもって末法弘通の究極の法と為すのである、と。

 寿量品の真の主役は、一切衆生、なかんずく末法の人々であることを明かした「御義口伝」である。
 寿量品の真意を日蓮大聖人の仏法の立場から説明されていく。
 まず、「我実成仏已来」の「我」とは、釈尊一人をいうのではなく、「法界の衆生」「十界己己」、つまり法界すべての衆生を指すと釈されている。
 また「実」については、「実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり」と仰せられている。ここで「実」とは「まこと」「本当」の意味である。
 大聖人は「成仏」の「成」とは「成る」ではなく、「開く」という意味であるとされている。
 どこまでも衆生が、自らの生命の本質に目覚め、自身が無作三身如来であると開き顕すことが成仏にほかならないとの仰せである。凡夫の身のままで、究竟の仏の生命の境涯を顕す。
 「仏とは此れを覚知するを云うなり」とは、「我が身が無作三身即妙法の当体である」と覚知した衆生こそが「仏」なのであるとの教えである。
 続いて「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり」と仰せである。

 以上の「我」「実」「成仏」「已来」についての釈をふまえて、大聖人は「我実成仏已来無量無辺」の文を「我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」と読むように教えられている。

 「百千万億那由他劫なり」については、「百界千如一念三千と説かれたいり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり」と仰せである。
 「御義口伝」では、「百」「千」とは時間的長遠を示しているだけでなく、「百界千如一念三千」を示していると明かされている。
 無始無終の十界互具・一念三千の生命を示しているのである。
 そして、この「事の一念三千」の生命を、末法の凡夫も開き顕していけることを次に説かれていくのである。

 「寿量品の本主」とは寿量品の主役の意である。大聖人は、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者」が「寿量品の本主」であると仰せられている。
 寿量品の法体である南無妙法蓮華経を末法で弘通するのは本化の菩薩の役割。

 「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか」と仰せのように、寿量品も文上にとどまっている限りは末法の衆生救済の要法とはならない。
 その理由について、文上寿量品はあくまでもすでに下種・調熟されてきた在世の衆生を得脱せしめる「脱益」の法である。
 そして、「題目の五字」だけが末法の下種の法体であると断じられている。
 ここで「文上寿量品=在世の脱益」「妙法蓮華経の五字=末法の下種」と種脱相対の立場から、それぞれの法体の得益の相違を明確に示されている。
 そのうえで「在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す」と仰せである。
 釈尊の在世は、脱益の法でよかった。
 それに対して、滅後末法は、すでにそのような上根の衆生はいないので、永遠の妙法の無限の力を凡夫の生命に直接、呼びあらわす働きをもった下種益の法(妙法蓮華経の五字)でなければならないことを示されている。

2011/09/24  青年教学1級 御義口伝「第二如来秘密神通之力の事」

 「如来秘密神通之力」とは無作三身の凡夫成仏。

「第二如来秘密神通之力の事」
 御義口伝に云く無作三身の依文なり、此の文に於て重重の相伝之有り、神通之力とは我等衆生の作作発発と振舞う処を神通と云うなり獄卒の罪人を苛責する音も皆神通之力なり、生住異滅の森羅三千の当体悉く神通之力の体なり、今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり、此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり、仍つて経に云く「我等当信受仏語」と信受の二字に意を留む可きなり。
 (寿量品の「如来秘密神通之力」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
 「如来秘密神通之力」の文は、無作三身の根拠となる文証である。この文においてさまざまな相伝がある。
 「神通之力」とは、私たち衆生が一瞬一瞬活動しているところを「神通」と言うのである。例えば獄卒が罪人を苛責する声もみな「神通之力」である。
 生・住・異・減する森羅三千(森羅万象)の現象の当体は、ことごとく「神通之力」の本体である。
 今、日蓮及びその門下の意においては、我が身が凡夫の身そのままの姿で成仏するのである(即身成仏)と開覚し、その境地を開くことを「如来秘密神通之力」というのである。
 成仏すること以外に「神通」も「秘密」もあいりえないのである。
 この無作の三身をば一字をもって得るのである。いわゆる「信」の一字である。ゆえに経には「我らは仏語を信受します」とある。この「信受」の二字に心を留めるべきである。

 釈尊が3回にわたって「汝等は当に如来の誠諦の語(真実の言葉)を信解すべし」と誡め、弥勒菩薩が会座の人々を代表して「我れ等は当に仏の語を信受したてまつるべし」と4度にわたって仏の説法を要請すること(三誡四請)が示されている。
 釈尊は「如来秘密神通之力」の、信受すべき寿量品の説法の肝要を一言に述べて久遠実成の法門を明かしていく。

 「御義口伝」では、まず、この「如来秘密神通之力」の文が「無作三身の依文」であると仰せられている。
 「無作三身」とは、三身を一身に具えた本来ありのままの仏の生命をいう。
 そして、この無作の三身を我が身に開き顕した根源の本仏が久遠元初の自受用身如来である。

 久遠実成の釈尊の一身に三身が具わっている。
 この三身具足の仏の存在は、これまでの爾前迹門では明かさなかったところなので「如来秘密」という。
 また、さまざまな国土で種々に姿を現じ、法を説いて衆生を救ってきたという働きを「神通之力」という。
 寿量品を文底からみれば、あらゆる衆生の生命が、本来、三身を具足するのである。
 この文底の意から「如来秘密神通之力」が無作三身の依文になるのである。

 「神通之力」とは何か特異な力を指すのではなくて、十界すべての衆生の生命活動そのもの。
 その例として「獄卒の罪人を呵責する音も皆神通之力なり」と、地獄界の衆生への振る舞いを挙げられている。
 また、森羅万象が妙法の当体であり、その変化相はすべて「神通之力」にほかならない。

 凡夫の身のままで成仏することこそ真実の「如来秘密神通之力」である。
 これは衆生自身が本来妙法の当体であって、その生命を開き顕すことが成仏ということだからである。
 日蓮大聖人は、その文底深秘の法門を「三大秘法」として具体的に明かされたのである。

 「此の無作の三身をば一字以て得たり所謂信の一字なり」とは、「信」こそが成仏の要諦であることを示された御文である。

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