2011/09/25  青年教学1級 御義口伝「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」

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 十界本有の凡夫が無作三身の当体蓮華の仏。

「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の侭十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云
 (寿量品の「如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く」の経文について)御義口伝には、次のように仰せである。
 (経文に説かれている)「如来」とは、久遠実成の釈尊だけではなく、さらには三界の衆生である。
 寿量品の眼を開けて、この三界の衆生を見れば、そのまま十界本有の当体である、とありのままに知見できるのである。
 (また、経文にある、如来が知見している)「三界之相」とは、生老病死である。それを本有の生死と見れば、「無有生死(生死が有るということは無い)」なのである。(「無有生死、若退若出」と経文にあるが)生死が無ければ退出も無いのである。ただ生死が無いということではない。
 生死を見て、厭い離れようとすることを迷いといい、始覚というのである。そのままで本有の生死と知見することを悟りといい、本覚というのである。
 今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉る時、本有の生死、本有の退出と開覚するのである。
 (また「無有生死、若退若出、亦無在世及滅度者〈生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く〉」の文は、次のようにも読むことができるのである)
 「無」も「有」も、「生」も「死」も、「若退」も「若出」も、「在世」も「減後」も、ことごとく皆、本有常住の妙法の振る舞いである、と。
 「無」とは法界同時に妙法蓮華経の振る舞いよりほかには「無い」ということである。「有」とは、地獄ならば地獄の「有りのまま」が十界本有の妙法の全体であるということなのである。
 「生」とは妙法の生であるから随縁である。
 「死」とは寿量の死であるから法界同時に真如である。
 「若退」の故に「滅後」である。
 「若出」の故に「在世」である。
 したがって、(これらを空仮中の三諦に約せば)「無」「死」「退(若退)」「減(減度)」は空諦である。「有」「生」「出(若出)」「在(在世)」は仮諦である。「如来如実」は中道である。
 (また、法報応の三身に約せば)「無」「死」「退(若退)」「減(減度)」は無作の報身である。「有」「生」「出(若出)」「在(在世)」は無作の応身である。「如来如実」は無作の法身である。
 この三身は我が一身である。「一身即三身なるを名づけて秘と為す」とはこのことである。「三身即一身なるを名づけて密と為す」もこの意味である。
 ゆえに無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮の弟子檀那等である。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故である。


 「如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり」と仰せである。
 大聖人は、この「如来」とは釈尊に限定されるものではなく、一切衆生のことであると最初に強調されている。
 「寿量品の眼」とは、生と死をくり返して永遠の生命を生きる久遠の仏の悟りの眼である。この眼から見るとき、一切衆生は十界の生命すべてを、もともと具足している「十界本有」の存在であり、一切衆生が一念三千の妙法の当体であることが明瞭になるのである。

 「三界之相とは生老病死なり」と、三界すなわち凡夫が現実に生きる世界の相とは、衆生が生老病死の諸相を現す世界であることが示されている。現実の存在は、すべて生老病死を免れない「無常の存在」だからである。
 しかし、この「三界の衆生」を、「寿量品の眼開けて」妙法の当体であると如実に知見すれば、「生」も「死」も、「本有の生死」すなわち生命に本然的にそなわった現象である。つまり、「生死」とは、「本有」の体である妙法が現す変化の相にほかならない。
 また「生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり」とは、悟りの眼から如実知見すれば、「生」と「死」だけでなく、現実世界から去っていく「退」も現実世界に出現してくる「出」もないということである。しかし、「生死」が無いということでもない。

 したがって、「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり」と仰せである。

 生死を厭い(嫌い)、恐れるのは生命の真実に暗い「迷い」の姿である。反対に、自己の生死、一切の生死を「本有の生死」すなわち妙法の生死と知見しているのが仏の「悟り」の境涯なのである。
 寿量品の久遠実成の仏は、成仏してから五百塵点劫という計り知れない長遠の期間、衆生を救済するために裟婆世界で生死をくり返す仏であり、生死を厭わないばかりか、裟婆世界で生死をくり返しながら、戦っていくなかに、仏の本来の在り方があることを示している。

 続いて、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり」と仰せである。
 「退」と「出」は、死と生である。

 「又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり」以下の御文は、「有無」「生死」「退出」「在世滅後」がすべて本有常住の当体である妙法のあらわす「振舞」であることを示されている。

 次に「生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり」の御文は、生と死を随縁と真如に立て分けて示されている。
 「寿量の死なれば」と仰せのように、あくまでも本有常住十界三千の当体である生命が現ずる生死の変化相としての死であるから法界(三千諸法)同時に真如となるのである。

 続いて「若退の故に滅後なり若出の故に在世なり」と仰せである。

 そして「有無」「生死」「退出」「在世滅後」を、空仮中の三締、法報応の三身の視点から位置づけられる。
 「無・死・退・滅」は「空」で「無作の報身」
 「有・生・出・在」は「仮」で「無作の応身」
 「如来如実」は「中諦」で「無作の法身」

 ここで大事なのは、「此の三身は我が一身なり」との仰せである。生死の本体である私たちの一身は、本来、妙法の当体であり、この一身に無作の三身を開くことができるのである。
 大聖人は、「此の三身は我が一身なり」と、「三身」といってもどこまでも私たちの「一身」のことであると強調されている。そして、天台の「一身即三身名為秘」「三身即一身名為密」も、「是なり」「此の意なり」と仰せられているように、あくまで凡夫の「我が一身」の秘密を述べているものとして開示されているのである。
 この秘密を開くのが大聖人の仏法なのである。

 最後に大聖人は、「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子樋那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」と仰せられている。
 この項の冒頭に「如来とは三界の衆生なり」と仰せのように、生死生死とくり返す凡夫自身が、十界本有の生命を持ち、「本有の生死」の当体である。


12:00:00

コメント

Posted on 2011/09/25 17:55:06 by JunkDark

予想問題

如来とは三界の(  )なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く(  )せり、三界之相とは(    )なり本有の生死とみれば(    )なり生死無ければ(  )も無し唯生死無きに非ざるなり

無死退滅は( )なり有生出在は( )なり如来如実は(  )なり、無死退滅は無作の(  )なり有生出在は無作の(  )なり如来如実は無作の(  )なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり

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