2011/09/22  青年教学1級 御義口伝「南無妙法蓮華経」

 「南無妙法蓮華経」の肝要深義。

「南無妙法蓮華経」
 御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。
 (「南無妙法蓮華経」について)御義口伝に次のように仰せである。
 「南無」とは梵語(古代インドの言語。サンスクリットのこと)である。漢語では「帰命」という。(帰命には)「人」への帰命と、「法」への帰命がある。「人」への帰命とは釈尊に帰命し奉ることである。「法」への帰命とは法華経に帰命し奉ることである。
 また、(帰命の)「帰」とは、迹門不変真如の理に帰することである。(帰命の)「命」とは、本門随縁真如の智に命くことである。帰命とは南無妙法蓮華経そのものである。ある釈には「随縁不変・一念寂照」とある。
 また、「帰」とは、私たちの色法であり、「命」とは、私たちの心法である。これらの色心が一体不二であることを一極というのである。妙楽の釈には「一極に帰せしめる故に仏乗という」(「玄義釈籤」)とある。
 また、次のように仰せである。南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語、「妙法蓮華経」は漢語である。梵語と漢語が一体となって南無妙法蓮華経というのである。
 また、次のように仰せである。梵語では薩達摩・芬陀梨伽・蘇多覧という。漢語では妙法蓮華経というのである。薩は「妙」である。達磨は「法」である。芬陀梨伽は「蓮華」である。蘇多覧は「経」である。これらの九字は九尊の仏体である。九界即仏界を表している。
 「妙」とは法性である。「法」とは無明である。無明と法性とが一体であることを「妙法」というのである。「蓮華」とは因果の二法である。これもまた因果が一体である。「経」とは一切衆生の言語音声を「経」というのである。章安の釈には「声が仏事を為す、これを名づけて経という」と。あるいは三世にわたって常恒であることを「経」というのである。
 法界は妙法である。法界は蓮華である。法界は経である。蓮華とは八葉九尊の仏体である。よくよくこのことを思うべきである。以上。

 南無妙法蓮華経が御義口伝の冒頭にきているのは、南無妙法蓮華経こそ一切経の根本であり、法華経の肝要であるからであるから。

 「帰命」
 「帰」=「迹門不変真如の理」=「色法」
 「命」=「本門随縁真如の智」=「心法」
 色心不二であることを「一極」という。
 色心不二で帰命する事こそ、究極の帰命になる。

 「南無」は梵語、「妙法蓮華経」は漢語。
 梵漢共時であることは、広宣流布の大法であることを示している。

 「九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり」
 「妙法蓮華経」は、梵語の「薩達摩・芬陀梨伽・蘇多覧」を漢訳したものとされる(翻訳者は鳩摩羅什)。
 漢字では、十文字となるが、天台の『法華玄義』には「薩達磨芬陀梨修多羅」の九字が示されていることや、あるいは梵語の音節が九つになり、九つの梵語で表されることからか、日蓮大聖人は「妙法蓮華経」=「九字」と仰せである。
 「九字」=「九尊の仏体」=「九界即仏界」

 「妙」=「薩」=「法性」
 「法」=「達摩」=「無明」
 「蓮華」=「芬陀梨伽」=「因果の二法」=「因果一体」
 「経」=「蘇多覧」=「一切衆生の言語音声」

2011/09/22  青年教学1級 御義口伝はじめに

 御義口伝とは?
 「御義口伝」は、身延において日蓮大聖人が法華経の要文を識義された内容を日興上人が筆録され、大聖人の御允可を得て完成したものと伝えられている。
 「御義」とは大聖人の法門を指す。それを「口伝」すなわち口頭で講義された内容を記録したのが「御義口伝」である。
 構成は上下2巻から成り、初めに「南無妙法蓮華経」について論じられた後、巻上では法華経序品第1から従地涌出品第15まで、巻下では如来寿量品第16から普賢菩薩勧発品第28までと開結二経(無量義経、普賢経)の要文講義が収められている。また巻下では別伝として「廿八品に一文充の大事」と「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」が収録されている。
 それぞれの項目では、初めに法華経あるいは開結二経の文を挙げ、それに関する天台・妙楽の釈を引用された後、「御義口伝に云く」として文底下秘法門の立場からの法華経解釈を展開されている。すなわち「御義口伝」では、種脱相対、三大秘法、人法体一など、大聖人の秘要の法門が法華経の要文を通して縦横に示されており、そこに日蓮仏法の法華経観を拝することができる。
 ここで日蓮大聖人と釈尊の法華経との関係について確認すれば、大聖人は釈尊の法華経そのものを弘通されたのではなく、法華経の文底に秘沈された下種の妙法を自ら悟られ、それを三大秘法の南無妙法蓮華経として顕し、末法に弘通されたのである。法華経は、末法における大聖人の妙法弘通を予言した経典であり、大聖人は御自身の弘通の序分・流通分として法華経を用いられたのである。
 したがって、「御義口伝」において示されているのは法華経の語義に縛られた解釈ではなく、御本仏の御境涯のうえから法華経の文を文底下種法門の説明として自在に用いられ、活用されていく「活釈」といえる。