«Prev || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |...| 64 | 65 | 66 || Next»

2011/09/24  青年教学1級 御義口伝「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」

 「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく「『南無』妙法蓮華経如来寿量品」が重要。

「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」
 文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。
 御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。
 『法華文句』の巻9には「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別しては本地三仏の別号である。寿量とは詮量すなわち、詳しく量ることである。十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量する故に寿量品というのである」とある。
 (寿量品の題名について)御義口伝には次のように仰せである。
 この品(寿量品)の題目は日蓮の身に当たる大事である。神力品の付嘱がまさにこれである。
 如来寿量品の「如来」とは、釈尊のことであり、総じては十方三世の諸仏のことであり、別しては本地無作の三身のことである。
 今、日蓮及びその門下の意においては、総じては如来とは一切衆生である。別しては日蓮の弟子檀那のことである。
 ゆえに「無作の三身」とは、末法の法華経の行者のことである。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経というのである。寿量品の事の三大事とはこのことである。
 六即に配立すれば、寿量品の如来は「理即の凡夫」にあたる。
 頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時が「名字即」である。なぜならば、その時に南無妙法蓮華経の題目を初めて聞くからである。
 その題目を聞いて修行するのが「観行即」である。この観行即とは事の一念三千の本尊を観ずることである。
 そして惑障を伏することを「相似即」というのである。
 化他の実践に踏み出した境涯を「分真即」というのである。
 自身を無作の三身の仏であると究竟することを「究竟即」の仏というのである。
 総じて伏惑という在り方を寿量品の究極とはせず、ただ凡夫の当体の本来ありのままを、この寿量品の極理であると心得るべきである。
 無作の三身の所作とは何物かといえば、それは南無妙法蓮華経そのものなのである。

 「御義口伝」においては、寿量品に関して27項目を取り上げて論じられている。その冒頭が「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」である。
 ここで「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく、「南無妙法蓮華経如来寿量品」とされていることが重要である。
 これは本文において「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」と示されているように、あらゆる仏、衆生を成仏させた「根源の本仏」たる無作三身如来の名前を南無妙法蓮華経ともいうのである。
 寿量品の「如来」とは別して「本地三仏」であると言っている。これは五百塵点劫の久遠に成仏して以来、衆生救済のために種々の姿をもって出現している久遠実成の釈尊である。この仏は始成正覚の釈尊に対しては本地仏であり、しかも、その一身に法・報・応の三身を具えているので本地三仏という。
 「始成正覚の釈尊」対して「久遠実成の釈尊」は本地仏(本地三仏)

 以上の天台の『文句』の説明を踏まえて、日蓮仏法における深義を以下のように講義された。
 「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり」と仰せの「此の品の題目」とは、文上の「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく、この項の冒頭に掲げられている「南無妙法蓮華経如来寿量品」という題目である。
 「南無妙法蓮華経如来」とは、「人法体一の仏」(「日蓮が身に当る大事なり」)

無作三身とは末法の法華経の行者
 次に大聖人は、「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり」と仰せられている。これは先に引かれた天台の『文句』の釈をふまえつつ、寿量品の意をより明確に示されているのである。
 まず「如来とは釈尊」と、釈尊の名を明示されている。寿量品では、久遠に成道した釈尊が、一切の仏の本地であることが明かされた。その意味で、寿量品の如来とは、まず久遠実成の釈尊のことであり、この久遠の釈尊が、「惣じては十方三世の諸仏」と開かれるのである。
 これに対して、「御義口伝」では如来の意義について、「別しては本地無作の三身」と、「無作」の語を加えてさらに掘り下げていかれるのである。
 「無作」とは、作為を加えない、真実ありのままとの意味。
 「無作の三身」は「凡夫の当体に開かれる仏身」(総じては「一切衆生」、別して妙法を受持した「日蓮の弟子檀那」)
 さまざまな経典に説かれるような姿をした仏がそのまま現実に現れるものではない。
 現実の仏は「妙法を所持し実践する人間」

 したがって「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」とあるように、無作三身とは末法の法華経の行者であり、その無作三身の宝号を南無妙法蓮華経如来というのであると仰せられている。
 永遠の妙法である南無妙法蓮華経を受持し(法身)、妙法の功徳を信によって一身に受け(報身)、妙法をもって他の人々を救済する人生を歩む(応身)という、「法華経の行者」こそが無作三身の仏なのである。
 そして、この無作の三身の特質は、南無妙法蓮華経を受持していることにあるので、南無妙法蓮華経をもってその名(宝号)とするのである。
 また、この「南無妙法蓮華経」を受けて「寿量品の事の三大事とは是なり」と仰せである。
 大聖人は寿量品の文底の妙法を南無妙法蓮華経として顕し、末法の法華経の行者即無作の三身としてのお振る舞いを貫くなかで、南無妙法蓮華経を本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目という三つの次元に開いて末法の衆生に残されたのである。ゆえに寿量品の事の三大事とは三大秘法のことである。

 寿量品の「如来」を「六即」の配立の視点から。
 六即とは、天台が立てた修行の位のことで、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六つをいう。
 ここでは「御義口伝」の御文に沿って日蓮仏法での六即でたてる。
 ①理即は、「此の品の如来は理即の凡夫なり」と仰せられている。
 「惣じては如来とは一切衆生なり」とされているのと同じ意味で、一切衆生に等しく仏性が存在することを明かしたのが寿量品の根本趣旨であることを示されている。
 ②名字即は、「頭に南無妙法蓮華経を頂戴」した時、つまり、妙法を信受した時が名字即となるのである。
 ③観行即は、受持即観心であり、御本尊を受持して「唱題に励むこと」が観心(修行)、となる。
 だから、「観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり」と仰せられているのである。
 ④相似即は、煩悩(惑)を断じることで成仏するとは説かないので、「惑障を伏する」と仰せられている。
 これは、見思惑・塵沙惑を断ずるという意味ではなく、仏道修行にともなって起きる三障四魔や、さまざまな迷いを克服していく境涯という趣旨である。
 ⑤分真即は、「化他に出づるを分真即と云うないり」とされているのは、折伏・弘教の化他行に励む強い信心において、すでに妙法への無明を断じて、仏の生命の一分が現れているからである。
 ⑥究竟即は、凡夫の我が身が「無作の三身の仏なり」と確信して揺るがぬ境涯が究竟即となる。

 以上のように天台の六即は断惑の段階に基づく位であるが、大聖人が立てられている六即は、理即の凡夫の当体を改めることなく、名字即の「信」によって成仏することを基本にするものであり、全体として「信の深化」を示したものといえる。
 決して断惑による段階を用いられてはいないのである。
 更にまた、「唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり」とあるように、寿量品の根本義は、凡夫がそのままの姿で直ちに仏と開覚する即身成仏にある。

 「無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」とは、南無妙法蓮華経の唱題が無作三身の仏の振る舞いにほかならないということである。
 日蓮仏法では、現実生活のなかで自行化他にわたり南無妙法蓮華経と唱えるという具体的実践法が、凡夫も差別なく成仏のための道。

2011/09/22  青年教学1級 御義口伝「南無妙法蓮華経」

 「南無妙法蓮華経」の肝要深義。

「南無妙法蓮華経」
 御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。
 (「南無妙法蓮華経」について)御義口伝に次のように仰せである。
 「南無」とは梵語(古代インドの言語。サンスクリットのこと)である。漢語では「帰命」という。(帰命には)「人」への帰命と、「法」への帰命がある。「人」への帰命とは釈尊に帰命し奉ることである。「法」への帰命とは法華経に帰命し奉ることである。
 また、(帰命の)「帰」とは、迹門不変真如の理に帰することである。(帰命の)「命」とは、本門随縁真如の智に命くことである。帰命とは南無妙法蓮華経そのものである。ある釈には「随縁不変・一念寂照」とある。
 また、「帰」とは、私たちの色法であり、「命」とは、私たちの心法である。これらの色心が一体不二であることを一極というのである。妙楽の釈には「一極に帰せしめる故に仏乗という」(「玄義釈籤」)とある。
 また、次のように仰せである。南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語、「妙法蓮華経」は漢語である。梵語と漢語が一体となって南無妙法蓮華経というのである。
 また、次のように仰せである。梵語では薩達摩・芬陀梨伽・蘇多覧という。漢語では妙法蓮華経というのである。薩は「妙」である。達磨は「法」である。芬陀梨伽は「蓮華」である。蘇多覧は「経」である。これらの九字は九尊の仏体である。九界即仏界を表している。
 「妙」とは法性である。「法」とは無明である。無明と法性とが一体であることを「妙法」というのである。「蓮華」とは因果の二法である。これもまた因果が一体である。「経」とは一切衆生の言語音声を「経」というのである。章安の釈には「声が仏事を為す、これを名づけて経という」と。あるいは三世にわたって常恒であることを「経」というのである。
 法界は妙法である。法界は蓮華である。法界は経である。蓮華とは八葉九尊の仏体である。よくよくこのことを思うべきである。以上。

 南無妙法蓮華経が御義口伝の冒頭にきているのは、南無妙法蓮華経こそ一切経の根本であり、法華経の肝要であるからであるから。

 「帰命」
 「帰」=「迹門不変真如の理」=「色法」
 「命」=「本門随縁真如の智」=「心法」
 色心不二であることを「一極」という。
 色心不二で帰命する事こそ、究極の帰命になる。

 「南無」は梵語、「妙法蓮華経」は漢語。
 梵漢共時であることは、広宣流布の大法であることを示している。

 「九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり」
 「妙法蓮華経」は、梵語の「薩達摩・芬陀梨伽・蘇多覧」を漢訳したものとされる(翻訳者は鳩摩羅什)。
 漢字では、十文字となるが、天台の『法華玄義』には「薩達磨芬陀梨修多羅」の九字が示されていることや、あるいは梵語の音節が九つになり、九つの梵語で表されることからか、日蓮大聖人は「妙法蓮華経」=「九字」と仰せである。
 「九字」=「九尊の仏体」=「九界即仏界」

 「妙」=「薩」=「法性」
 「法」=「達摩」=「無明」
 「蓮華」=「芬陀梨伽」=「因果の二法」=「因果一体」
 「経」=「蘇多覧」=「一切衆生の言語音声」

2011/09/22  青年教学1級 御義口伝はじめに

 御義口伝とは?
 「御義口伝」は、身延において日蓮大聖人が法華経の要文を識義された内容を日興上人が筆録され、大聖人の御允可を得て完成したものと伝えられている。
 「御義」とは大聖人の法門を指す。それを「口伝」すなわち口頭で講義された内容を記録したのが「御義口伝」である。
 構成は上下2巻から成り、初めに「南無妙法蓮華経」について論じられた後、巻上では法華経序品第1から従地涌出品第15まで、巻下では如来寿量品第16から普賢菩薩勧発品第28までと開結二経(無量義経、普賢経)の要文講義が収められている。また巻下では別伝として「廿八品に一文充の大事」と「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」が収録されている。
 それぞれの項目では、初めに法華経あるいは開結二経の文を挙げ、それに関する天台・妙楽の釈を引用された後、「御義口伝に云く」として文底下秘法門の立場からの法華経解釈を展開されている。すなわち「御義口伝」では、種脱相対、三大秘法、人法体一など、大聖人の秘要の法門が法華経の要文を通して縦横に示されており、そこに日蓮仏法の法華経観を拝することができる。
 ここで日蓮大聖人と釈尊の法華経との関係について確認すれば、大聖人は釈尊の法華経そのものを弘通されたのではなく、法華経の文底に秘沈された下種の妙法を自ら悟られ、それを三大秘法の南無妙法蓮華経として顕し、末法に弘通されたのである。法華経は、末法における大聖人の妙法弘通を予言した経典であり、大聖人は御自身の弘通の序分・流通分として法華経を用いられたのである。
 したがって、「御義口伝」において示されているのは法華経の語義に縛られた解釈ではなく、御本仏の御境涯のうえから法華経の文を文底下種法門の説明として自在に用いられ、活用されていく「活釈」といえる。

2011/09/19  青年教学1級 撰時抄第32段「一閻浮提第一の聖人」

 日蓮こそ聖人。

第32段「一閻浮提第一の聖人」
 外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり一には去し文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじと語りたりき、此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり、経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う、智人は起をしる蛇みづから蛇をしるとはこれなり、衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一タイ・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ
 外典には、「いまだ萠していない事柄を前もって知る人を聖人という」と説かれている。内典には、「過去、現在、未来の三世を見通している人を聖人という」と説かれている。
 私には三度の高名(手柄、功績)がある。
 一つには、去る文応元年7日16日に、「立正安国論」を最明寺入道殿(北条時頼)にたてまつった時に、宿谷入道光則に向かって「禅宗と念仏宗を捨てるよう、最明寺殿に忠告しなさい。この意見を用いないならば、この北条の一門から内乱が起き、ついには他国から攻められるであろう」と言ったことである。
 二つには、去る文永8年9月12日の夕刻、平左衛門尉頼綱に向かって「日蓮は日本国の棟梁である。私を亡き者にすることは日本国の柱を倒すことになる。たちまちに自界叛逆難といって、一族の同士打ちが始まり、さらに他国侵逼難といって、この国の人々が他国から殺されるだけではなく、多く生け捕りにされるであろう。建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺などの一切の念仏者や、禅僧などの寺院を焼き払って、彼らの首を由比が浜で斬らなければ、日本の国は必ず滅びるであろう」 と言ったことである。
 そして第3には、去年の文永11年4月8日に、平左衛門尉に「国主が支配している国に生まれ合わせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心まで随えられはしない。念仏は無間地獄、禅は天魔の所為であることは疑いがない。ことに真言宗がこの日本の国土の大きな禍いである。大蒙古の調伏(祈祷によって怨敵・障魔を降伏させること)を真言師に仰せつけてはならない。もしこのような国家の大事を真言師が調伏するならば、いよいよ急いでこの国は滅びるであろう」と申したところ、頼綱は「いつごろ寄せてくるであろうか」と聞いた。そこで私は、「経文には、いつとは書かれていないが、天の様子から、諸天の怒りのありさまが激しいように思う。襲来の時は迫っていて、おそらく今年を越すことはないであろう」と答えたのである。
 この三つの大事は、日蓮が述べたのではない。ただひとえに、釈迦如来の御魂が、わが身に入り替わられたのであろうか。わが身ながらも悦びが身にあまる。
 法華経の一念三千という大事の法門は、このことである。
 法華経方便品の「いわゆる諸法の是の如き相」というのは、いかなる意味か。十如是の初めの「相如是」が第一の大事であるから、仏は世に出現されるのである。
 「智人はものごとの起こりを知り、蛇は自ら蛇を知る」というのがこのことである。
 多くの川の流れが集まって大海となり、小さな塵が積もって須弥山となったのである。
 日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本の国にとっては一滴の水、一粒の塵のようなものである。やがて、二人、三人、十人、百千万億人と、人々が法華経の題目を唱え伝えていくならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるであろう。
 仏になる道は、これより即ほかに求めてはならない。

 日蓮の予言された「自界叛逆難」「他国侵逼難」は、幕府は無視しかえって大聖人を迫害した。
 文永9年の「二月騒動」、文永11年の「文永の役」と二難とも的中する。

 建長5年の立宗宣言より、ただお一人立ち上がれたのが日蓮大聖人。
 大海でも須弥山でも始めは、たった一滴の水、一塵から出来ている。
 広宣流布も、始めの一人から二人、三人と広がって成し行く。
«Prev || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |...| 64 | 65 | 66 || Next»