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2011/09/17  青年教学1級 撰時抄第5段「経文を引いて末法広宣流布を証す」

 広宣流布の瑞相。

第5段「経文を引いて末法広宣流布を証す」
 問うて云く其の証文如何、答えて云く法華経の第七に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云、経文は大集経の白法隠没の次の時をとかせ給うに広宣流布と云云、同第六の巻に云く「悪世末法の時能く是の経を持つ者」等云云又第五の巻に云く「後の末世の法滅せんとする時」等・又第四の巻に云く「而も此経は如来現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」又第七の巻に第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云く「悪魔魔民諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便を得ん」大集経に云く「我が法の中に於て闘諍言訟せん」等云云、法華経の第五に云く「悪世の中の比丘」又云く「或は阿蘭若に有り」等云云又云く「悪鬼其身に入る」等云云、文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に入る大僧等・国中に充満せん其時に智人一人出現せん彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣・万民等を語て悪口罵詈・杖木瓦礫・流罪死罪に行はん時釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし、例せば神力品の十神力の時・十方世界の一切衆生一人もなく娑婆世界に向つて大音声をはなちて南無釈迦牟尼仏南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。
 問う。大集経の白法隠没の次に、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法が一閻浮提に広宣流布していく、との証文はどこにあるか。
 答う。法華経の第7巻には「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して、この閻浮提に於いて断絶させてはならない」(薬王品第23)と。
 このように経文には、大集経の白法隠没の次の時を説き示して広宣流布と言っている。
 また同第6巻には「悪世末法の時、能く是の経を持つ者」(分別功徳品第17)とあり、また第5巻には「後の末世の法が滅しようとする時」(安楽行品第14)とあり、また第4巻には「而も此の法華経は如来の現在にすらなお怨嫉が多い。まして滅度の後にはさらに多い」(法師品第10)とある。
 また第5巻には「一切世間には怨が多くして信じがたい」(安楽行品)とあり、また第7巻に第五の五百歳・闘諍堅固の時代相を説いていうには「悪魔や魔民や諸の天、竜、夜叉、鳩槃荼等の悪鬼、悪魔が其の便りを得るであろう」(薬王品)とある。
 また大集経には「我が仏法の中に於いて互いに闘諍言訟するであろう」とある。
 さらに法華経の第5巻には「悪世の中の比丘」(勧持品第13)とか「或は閑静な処に居て」(同)とか、「悪鬼が其の身に入る」(同)等とある。
 さて、これら経文の意は、次のようなものである。
 すなわち、第五の五百歳・白法隠没の時、悪鬼がその身に入った高僧が国中に充満する。
 その時に智人が一人出現する。
 かの悪鬼が身に入った高僧等が、時の王臣、万民等をかたらって、その一人の智人を悪口罵詈し、杖木瓦礫を加え、流罪、死罪に処するであろう。
 その時に釈迦・多宝・十方の諸仏が地涌の大菩薩らに命令し、大菩薩はまた梵天・帝釈、日天・月天、四天王等に申し下して、彼らの謗法を責めるから、天変地異が盛んに起こるであろう。それでも国主等がその諌めを用いないで謗法を続けるならば、隣国に仰せつけてそれらの国々の悪王、悪比丘等を責めるだろう。もしそうなれば、「前代未聞の大闘諍」が一閻浮提に起こるであろう。
 その時に日月によって照らされている全ての世界の一切衆生は、あるいは国を惜しみ、あるいはわが身を惜しむゆえに、一切の仏菩薩に祈りをかけるが叶う兆候が見られないので、ついに、あの迫害を加えていた一人の小僧(智人)を信じて、無量の高僧、8万の大王、一切の万民がことごとく頭を地につけ、掌を合わせて一同に南無妙法蓮華経と唱えるであろう。
 例えば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生が、一人も残らず裟婆世界に向かって大音声を放ち、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同に叫んだようなものである。

 末法広宣流布、5つの根拠
 1.薬王品の「我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」の文。この文は、白法すなわち釈尊の仏法が、失われた末法は、法華経の肝心である南無妙法蓮華経こそがあらわされて、一閻浮提に広宣流布することを予言している。
 2.「悪世末法の時能く是の経を持つ者」(分別功徳品第17)、「後の末世の法滅せんとする時」(安楽行品第14)の経文。この悪世末法の始めに、この法華経を持つ者が出現することが予言されている。
 3.「而も此経は如来現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」(法師品第10)、「一切世間怨多くして信じ難し」(安楽行品)、「悪魔魔民諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便を得ん」(薬王品)の経文。
 この末法の始めに正法を弘通すれば、必ず怨嫉が多いことが示されている。
 4.「我が法の中に於て闘諍言訟せん」(大集経)の一節。悪世末法には闘諍言訟の様相が激しい様を確認されている。
 5.「悪世の中の比丘」、「或は阿練若に有り」、「悪鬼其身に入る」の法華経の勧持品の二十行の偈を引いて、仏法の中で闘諍言訟の様相を引き起こす働きの根源は、悪鬼入其身の大僧であることが示されている。

 末法の初めにおける大白法流布の姿
 1.大集経の五箇の五百歳の五番目である「闘諍言訟・白法隠没」の時とは、悪鬼入其身の大僧が国に充満する時である。「僣聖増上慢」の姿そのもので大聖人の時代で言えば、極楽寺良観などが相当する。
 2.分別功徳品の経文に、こうした悪世末法の時に法華経を持つ「智人」が一人出現する。この「智人」は、いうまでもなく大聖人御自身のこと。
 3.こうした「悪鬼の入る大僧」が、時の権力者・民衆をだまして智人に対して悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪・死罪などの迫害を実行する。
 4.また、悪鬼入其身の悪僧と悪王が結託して智人を迫害する時は地涌の大菩薩や諸天善神の働きでこれらの悪王・悪仙が隣国から攻められ、「前代未聞の大闘諍」が一閻浮提に起こる。
 5.そうなったときには、人々は「国を惜しみ」「身を惜しむ」がゆえに、帰依し、法華経神力品のように、万民が一同に「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と唱える閻浮提広宣流布の時が到来すると仰せられている。


 三類の強敵の部分でも勉強しましたが、参考までに「法華経勧持品第十三の二十行の偈」を載せます。

唯願不為慮 於仏滅度後 恐怖悪世中 我等当広説。
 (唯だ願わくは慮(うらおも)いを為したまわざれ 仏の滅度の後 恐怖(くふ)悪世の中に於いて 我れ等は当に広く説くべし。)
有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者 我等皆当忍。
 (諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん 我れ等は皆な当に忍ぶべし。)
悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満。
 (悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲(てんごく)に 未だ得ざるを謂(おも)いて得たりと為し 我慢の心は充満せん。)
或有阿練若 納衣在空閑 自謂行真道 軽賎人間者。
 (或は阿練若に 納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って 自ら真の道を行ずと謂(おも)いて 人間を軽賤する者有らん。)
貪著利養故 与白衣説法 為世所恭敬 如六通羅漢。
 (利養に貪著(とんじゃく)するが故に 白衣の与(た)めに法を説いて 世の恭敬(くぎょう)する所と為ること 六通の羅漢の如くならん。)
是人懐悪心 常念世俗事 仮名阿練若 好出我等過。
 (是の人は悪心を懐き 常に世俗の事を念(おも)い 名を阿練若に仮(か)つて 好んで我れ等が過(とが)を出さん。)
而作如是言 此諸比丘等 為貪利養故 説外道論議。
 (而も是の如き言(ことば)を作(な)さん 此の諸の比丘等は 利養を貪(むさぼ)らんが為めの故に 外道の論議を説く。)
自作此経典 誑惑世間人 為求名聞故 分別説是経。
 (自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑(おうわく)す 名聞を求めんが為めの故に 分別して是の経を説くと。)
常在大衆中 欲毀我等故 向国王大臣 婆羅門居士
 (常に大衆の中に在って 我れ等を毀(そし)らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士)
及余比丘衆 誹謗説我悪 謂是邪見人 説外道論議。
 (及び余の比丘衆に向かって 誹謗して我が悪を説いて 是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん。)
我等敬仏故 悉忍是諸悪 為斯所軽言 汝等皆是仏。
 (我れ等は仏を敬うが故に 悉く是の諸悪を忍ばん 斯れの軽んじて 汝等は皆な是れ仏なりと言う所と為らん。)
如此軽慢言 皆当忍受之 濁劫悪世中 多有諸恐怖。
 (此の如き軽慢(きょうまん)の言を 皆な当(まさ)に忍んで之れを受くべし 濁劫悪世(じょくこうあくせ)の中には 多く諸の恐怖(くふ)有らん。)
悪鬼入其身 罵詈毀辱我 我等敬信仏 当著忍辱鎧。
 (悪鬼は其の身に入って 我れを罵詈毀辱(めりきにく)せん 我れ等は仏を敬信(きょうしん)して 当に忍辱(にんにく)の鎧を著(き)るべし。)
為説是経故 忍此諸難事 我不愛身命 但惜無上道。
 (是の経を説かんが為めの故に 此の諸の難事を忍ばん 我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ。)
我等於来世 護持仏所嘱 世尊自当知 濁世悪比丘
 (我れ等は来世に於いて 仏の嘱(ぞく)する所を護持せん 世尊は自ら当に知(しろ)しめすべし 濁世の悪比丘は)
不知仏方便 随宜所説法 悪口而顰蹙 数数見擯出。
 (仏の方便 宜しきに随って説きたまう所の法を知らず 悪口してびん蹙(しゅく)し 数数(しばしば)擯出(ひんすい)せられ。)
遠離於塔寺 如是等衆悪 念仏告勅故 皆当忍是事。
 (塔寺を遠離(おんり)せん 是の如き等の衆悪(しゅあく)をも 仏の告勅(ごうちょく)を念(おも)うが故に 皆な当に是の事を忍ぶべし。)
諸聚落城邑 其有求法者 我皆到其所 説仏所嘱法。
 (諸の聚落(じゅらく)城邑(じょうおう)に 其れ法を求むる者有らば 我れは皆な其の所に到って 仏の嘱する所の法を説かん。)
我是世尊使 処衆無所畏 我当善説法 願仏安穏住。
 (我れは是れ世尊の使なり 衆に処するに畏(おそ)るる所無し 我れは当に善く法を説くべし 願わくは仏よ安穏に住したまえ。)
我於世尊前 諸来十方仏 発如是誓言 仏自知我心。
 (我れは世尊の前 諸の来りたまえる十方の仏に於いて 是の如き誓言(せいごん)を発す 仏は自ら我が心を知(しろ)しめせ。)
聖教新聞社刊 「妙法蓮華経並開結」より

2011/09/17  青年教学1級 撰時抄 はじめに。

 続いて「撰時抄」です。

 撰時抄
 背景(5巻107紙・玉沢妙法華寺外4所散蔵)
 「撰時抄」は、建治元年(1275年)、日蓮大聖人が、駿河国(現在の静岡県中央部)の西山由比(由井)氏に与えられたとされる御書である。
 本抄御執筆の前年、文永11年(1274年)10月に蒙古が襲来して、壱岐・対馬と北九州の一部が襲われた(文永の役)。そして、この建治元年春には、蒙古の使者が再度来航した。蒙古の再びの襲来が想定される騒然としたなかで、大聖人は本抄を著されたのである。
 この前年(文永11年)4月、佐渡から鎌倉に戻られた大聖人は、鎌倉幕府の権力者である平左衛門尉と対面し、3度目の国主諫暁をなされました。(三度の高名)
 文永11年5月には、大聖人は身延に入られました。

 題号の意義
 撰時とは、「時を選ぶ」ことである。すなわち、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の大白法が広宣流布する時として、末法を選び取るということである。
 仏法は、どこまでも「時」を重視します。
 それは仏法が「今の時を生きている民衆」のためにあるからです。
 ゆえに本抄の題号の「撰時」が重要なのです。
 「時を撰ぶ」とは、「広宣流布の時として末法を選び取る」との意です。

 大意
 末法は、「闘諍言訟・白法隠没」といって、仏教の中で自説に執着する者が多く、争いが絶えず、正しい仏の教えが見失われていく時代である。大聖人は、この時代にあって、南無妙法蓮華経の大法こそが、末法の人々を根本的に救う大良薬であると示され、末法の今こそ、南無妙法蓮華経が広宣流布していくべき時であることを明かされたのである。
 本抄は、まず冒頭に「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(256ページ)と仰せられ、仏法の弘通にあっては、必ず「時」を根本基準としていかなければならないことを示されている。そのうえで、末法が南無妙法蓮華経の広宣流布の時であることを、経釈を引きながら示されている。
 そして、大集経の五箇の五百歳に沿って、釈尊滅後の仏教史を描かれる。その結論として、白法隠没の時に続いて、仏の真意を直ちに明かす最も勝れた肝要の法が、日本国並びに一閻浮提に広宣流布することは疑いようがないことを示されていく。
 続いて、広宣流布の法と時を把握された人は誰かを明かされていく。
 その最初に、大聖人が「閻浮第一の法華経の行者」(266ページ)であると一応の結論を示されたうえで、再び釈尊入滅後の正法・像法二千年の仏教史をたどられている。これは、正法時代の竜樹、天親も、像法時代の天台、伝教も、まだ明かしていない「最大の深密の正法」が、末法の始めに広宣流布することを確認するためである。
 続いて、この正法を弘めていく「法華経の行者」を明かすために、まず破邪顕正のうち、破邪を軸に、念仏、禅、真言の三宗を破折し、さらに法華宗であるべき天台宗を真言密教化させた慈覚らを師子身中の虫として糾弾されている。
 そして、この「大謗法の根源」をただした日蓮大聖人こそが、閻浮提第一の法華経の行者であり、智人であり、聖人であることを明らかにされていく。
 そして、最後に、弟子たちに不惜身命の修行を勧められて、本抄を結ばれている。

 戸田先生は叫ばれました。
 「大聖人の御出現の根本は『南無妙法蓮華経』という法門によって、日本中、いな東洋中、いな世界中の人々を幸せにするためである」と。
 今回、「撰時抄」を拝し、大聖人が御予言なされた世界広宣流布の「時」が到来している意義を学んで、この広宣流布の時を、不惜身命を生命に燃え上がらせていきましょう。

2011/09/15  青年教学1級 開目抄第50段「結勧」

 日蓮大聖人こそ、末法の一切衆生にとっての主師親。

第50段「結勧」
 夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住・故来至此」等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを法然いたはしとも・おもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。
 日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云、無道心の者生死をはなるる事はなきなり、教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、日蓮が御勘気を・かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざんなり・かつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法は骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし。
 そもそも法華経の宝塔品を拝見すると、釈迦・多宝・十方分身の諸仏が集まられたのは、何のためであろうか。
 「法を久しく存続させるために、ここにやって来た」とある。
 この三仏が未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子たちに与えようとされた御心のうちを推察すると、わが子が大きな苦しみにあっているのを見る父母よりも、何としてでも救わずにはおかないとの思いが強く盛んであったと思われる。
 それなのに、法然は、その切実な思いをいたわしいとも思わないで、末法には法華経の門をかたく閉じて、人を入れさせまいとせき止め、判断の狂った子をだまして宝を捨てさせるように、法華経をなげ捨てさせたのである。この法然の心こそ、恥知らずに思える。
 自身の父母を人が殺そうとしているのに、そのことを父母に教えないでおられようか。悪にそまった子が、酔って狂って父母を殺そうとしているのを、制止しないでおられようか。悪人が寺塔に火を放とうとしているのに、制止しないでおられようか。わが子が重病にかかっているのに、お灸の治療をしないでおられようか。
 日本の禅と念仏者とを見て制止しない者は、このようなものである。
 「慈悲がなくて、いつわって親しくするのは、すなわち、その人にとって敵である」(『涅槃経疏』)と。
 日蓮は日本国の諸の人にとって、主であり、師であり、父母である。
 一切の天台宗の人達はかれらの大怨敵である。
 「かれのために悪を除くのは、すなわち、かれの親である」(「涅槃経疏』)と。
 仏道を求める心がない者は、生死の苦悩を離れることはできない。
 教主釈尊は一切の外道から大悪人とののしられた。天台大師は南三北七の諸宗の人々にそしられ、さらに日本の徳一から「三寸の舌で五尺の仏身を破壊する」とののしられた。伝教大師は南都の人々に「最澄はまだ唐の都を見たことがない」と非難された。
 このように悪口を言われたのは、皆、法華経の故なので、恥ではない。愚かな人に誉められることこそ、第一の恥である。
 日蓮が権力者から処罰を受けたので、天台・真言の法師らは喜ばしく思っているようであるが、まことに恥知らずであり、常軌を逸したことでもある。
 そもそも、法華経のために、釈尊はこの苦悩に満ちた裟婆世界に生まれ、羅什三蔵は中国に入り、伝教大師は中国に渡り、提婆菩薩・師子尊者は法のために身を捨て、薬王菩薩は臂を焼き、聖徳太子は手の皮をはいで経を写し、釈迦菩薩は自らの肉を売って供養し、楽法梵志はわが身の骨を筆としたのである。
 天台大師がいうには、「時に適うのみ」(『法華文句』)と。
 仏法は時によるのである。
 日蓮の流罪は、今世での小さな苦であるから嘆くにあたらない。来世には大きな楽を受けることができるので、大いに喜ばしい。

 全ての仏が願うことは、成仏の法である法華経を永遠に存続させ、未来の全ての人間を救うこと。
 苦しむ子どもを思う父母よりも、大きく深い慈悲なのである。
 ところが、念仏を弘めた法然などは、その心がわからず、正法を破壊している。
 ゆえに日蓮は厳しく責めざるを得ない。
 日蓮こそ、日本の一切衆生の主師親である。
 それが分からない愚か者に批判されようと何も思わない。
 それどころか、愚か者にほめられるのは、第一の恥である。
 日蓮は今、こうして流罪にあっているが、来世には大きな楽を受けるので、大いに喜ばしい。

 『日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり』→日蓮大聖人こそ、一切衆生の主師親であることを明かされた文。(結論)
 第1段の冒頭の文「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」に対応している。

2011/09/15  青年教学1級 開目抄第49段「折伏を行ずる利益」

 摂受も折伏も、時を誤ってはならない。

第49段「折伏を行ずる利益」
 問うて云く摂受の時・折伏を行ずると折伏の時・摂受を行ずると利益あるべしや、答えて云く涅槃経に云く「迦葉菩薩仏に白して言く如来の法身は金剛不壊なり未だ所因を知ること能わず云何、仏の言く迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり、迦葉我護持正法の因縁にて今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり、善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣弓箭を持つべし、是くの如く種種に法を説くも然も故師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず、是くの如き比丘自利し及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩は懈怠懶惰なり能く戒を持ち浄行を守護すと雖も当に知るべし是の人は能く為す所無からん、乃至時に破戒の者有つて是の語を聞き已つて咸共に瞋恚して是の法師を害せん是の説法の者・設い復命終すとも故持戒自利利他と名く」等云云、章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず」等、天台云く「時に適う而已」等云云、譬へば秋の終りに種子を下し田畠をかえさんに稲米をうることかたし、建仁年中に法然・大日の二人・出来して念仏宗・禅宗を興行す、法然云く「法華経は末法に入つては未有一人得者・千中無一」等云云、大日云く「教外別伝」等云云、此の両義・国土に充満せり、天台真言の学者等・念仏・禅の檀那を・へつらいをづる事犬の主にををふり・ねづみの猫ををそるるがごとし、国王・将軍に・みやつかひ破仏法の因縁・破国の因縁を能く説き能くかたるなり、天台・真言の学者等・今生には餓鬼道に堕ち後生には阿鼻を招くべし、設い山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも空閑にして三密の油をこぼさずとも時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき。
問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に・あだまれたる・いかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。
 問うていうには、摂受をなすべき時に折伏を行じた場合や、折伏をなすべき時に摂受を行じる場合に、利益はあるのだろうか。
 答えていうには、涅槃経には、「迦葉菩薩が仏に申しあげて言うには、『如来の法身は金剛のように壊れないものである。しかし、まだそれを成就された因を知ることができません。その因はどのようなものでしょうか』、と。
 仏は答えた。「迦葉よ、よく正法を護持した因縁によって、この金剛の身を成就することができたのである。
 迦葉よ、私は正法を護持した因縁で今のこの常住で壊れない金剛の身を成就することができたのである。
 善男子よ、正法を護持する者は、五戒を受けず、行儀を修めず、刀剣や弓矢を持つべきである。
 このように種々に法を説いても、悪法を打ち破る獅子吼をなさず、法にそむく悪人を降伏させられないような出家僧は、自らを利益することも、衆生を利益することもできない。
 このような輩は、怠け者であると知るべきである。
 戒を持ち、清らかな実践を守っているといっても、この人は何もできていないと知るべきである。
 (中略)ある時、戒を破る者がいて、この人が折伏を行ずる言葉を聞き終わって、皆ともに怒って、この法師を害したとする。
 この説法の者は、たとえそのために死んだとしても、それでもなお戒を持ち、自身をも利益し、他をも利益するものであるというのである』」とある。
 章安が言うには、「(摂受・折伏の)取捨を適切に行い、一方に偏ってはいけない」(『涅槃経疏』)と。
 天台がいうには、「時にかなうのみである」(『法華文句』)と。
 譬えば、秋の終わりに種を蒔いて田畑を耕しても、米の収穂は難しいようなものである。
 建仁年間に、法然と大日能忍の二人が出現して、念仏宗と禅宗を隆盛させた。
 法然は「末法になれば、法華経によっては、いまだ一人として得道した者がなく、千人の中でも一人もいない」と言った。
 大日能忍は「仏の真実の悟りは言葉による教えとは別に伝えられた」と言って法華経を排斥した。
 この二つの教義が、今や日本の国土に充満している。
 天台・真言の学者らが、(これら法華経誹謗の念仏・禅を破折もせず、かえって)念仏や禅を信じている庇護者にへつらい、おそれるさまは、まるで犬が主人に尾をふり、ネズミが猫をおそれるようである。
 そして、彼らは国王・将軍に仕えて、仏法を破壊する因縁、国を破滅させる因縁となる間違った教えを、積極的に説き語っているのである。
 こうした天台・真言の学者らは、今世では餓鬼道に堕ち、来世には阿鼻地獄の苦を招くであろう。
 たとえ(権力者に媚びないで)山林に籠って、一念三千の観法に専心したとしても、人里離れた静かなところで、真言の三密の修行を油をこぼさぬように細心に行じたとしても、時と衆生の機根を知らず、摂受と折伏の二門を弁えなければ、どうして生死の苦しみから離れることができようか。
 問うていうには、念仏者・禅宗等を責めて、かれらに憎まれることに、どのような利益があるのか。
 答えていうには、涅槃経には「もし、善比丘が、法を破る者を見て捨て置いて、呵責(厳しく責めること)し、駈遣(追放)し、挙処(罪を挙げて処断すること)しなければ、この人は仏法の中の敵であると知るべきである。
 もし、よく追放し、厳しく責め、罪を挙げて処断すれば、仏の弟子であり、真の声聞である」等とある。
 また、「仏法を破壊し乱す者は仏法の中の敵である。慈悲がなくていつわって親しくするのは、その人にとって敵である。
 その悪を糾し、退治する人が、法を護る声聞であり、真のわが弟子である。
 その人のために悪を取り除く者は、その人にとっては親である。
 悪を厳しく責める者は私の弟子である。悪を追放しようとしない者は、仏法の中の敵である」(『涅槃経疏』)とある。

 摂受を行うべきときには摂受、折伏を行うべきときには、折伏。
 時と場合によって適切に使い分けるべきで、一方にかたよってはならない。

 <章安の云く「取捨宜きを得て一向にすべからず」等、天台云く「時に適うのみ」>

 ポイントはつまり、いずれも相手を救うための方法であり、その根本は慈悲だということ。
 一切衆生を幸福にする仏法を破壊している者を見たら、それを厳しく責めるべきだ。
 見ていながら悪を責めない人間は、かえって悪に加担しているのと同じ。
 相手に対して厳しい内容でも、それをきちんと言い切っていくことが正義であり、慈悲の振る舞いなのだ。

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