2011/09/15 青年教学1級 開目抄第50段「結勧」
日蓮大聖人こそ、末法の一切衆生にとっての主師親。
全ての仏が願うことは、成仏の法である法華経を永遠に存続させ、未来の全ての人間を救うこと。
苦しむ子どもを思う父母よりも、大きく深い慈悲なのである。
ところが、念仏を弘めた法然などは、その心がわからず、正法を破壊している。
ゆえに日蓮は厳しく責めざるを得ない。
日蓮こそ、日本の一切衆生の主師親である。
それが分からない愚か者に批判されようと何も思わない。
それどころか、愚か者にほめられるのは、第一の恥である。
日蓮は今、こうして流罪にあっているが、来世には大きな楽を受けるので、大いに喜ばしい。
『日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり』→日蓮大聖人こそ、一切衆生の主師親であることを明かされた文。(結論)
第1段の冒頭の文「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」に対応している。
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第50段「結勧」夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住・故来至此」等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを法然いたはしとも・おもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。そもそも法華経の宝塔品を拝見すると、釈迦・多宝・十方分身の諸仏が集まられたのは、何のためであろうか。
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云、無道心の者生死をはなるる事はなきなり、教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、日蓮が御勘気を・かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざんなり・かつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法は骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし。
「法を久しく存続させるために、ここにやって来た」とある。
この三仏が未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子たちに与えようとされた御心のうちを推察すると、わが子が大きな苦しみにあっているのを見る父母よりも、何としてでも救わずにはおかないとの思いが強く盛んであったと思われる。
それなのに、法然は、その切実な思いをいたわしいとも思わないで、末法には法華経の門をかたく閉じて、人を入れさせまいとせき止め、判断の狂った子をだまして宝を捨てさせるように、法華経をなげ捨てさせたのである。この法然の心こそ、恥知らずに思える。
自身の父母を人が殺そうとしているのに、そのことを父母に教えないでおられようか。悪にそまった子が、酔って狂って父母を殺そうとしているのを、制止しないでおられようか。悪人が寺塔に火を放とうとしているのに、制止しないでおられようか。わが子が重病にかかっているのに、お灸の治療をしないでおられようか。
日本の禅と念仏者とを見て制止しない者は、このようなものである。
「慈悲がなくて、いつわって親しくするのは、すなわち、その人にとって敵である」(『涅槃経疏』)と。
日蓮は日本国の諸の人にとって、主であり、師であり、父母である。
一切の天台宗の人達はかれらの大怨敵である。
「かれのために悪を除くのは、すなわち、かれの親である」(「涅槃経疏』)と。
仏道を求める心がない者は、生死の苦悩を離れることはできない。
教主釈尊は一切の外道から大悪人とののしられた。天台大師は南三北七の諸宗の人々にそしられ、さらに日本の徳一から「三寸の舌で五尺の仏身を破壊する」とののしられた。伝教大師は南都の人々に「最澄はまだ唐の都を見たことがない」と非難された。
このように悪口を言われたのは、皆、法華経の故なので、恥ではない。愚かな人に誉められることこそ、第一の恥である。
日蓮が権力者から処罰を受けたので、天台・真言の法師らは喜ばしく思っているようであるが、まことに恥知らずであり、常軌を逸したことでもある。
そもそも、法華経のために、釈尊はこの苦悩に満ちた裟婆世界に生まれ、羅什三蔵は中国に入り、伝教大師は中国に渡り、提婆菩薩・師子尊者は法のために身を捨て、薬王菩薩は臂を焼き、聖徳太子は手の皮をはいで経を写し、釈迦菩薩は自らの肉を売って供養し、楽法梵志はわが身の骨を筆としたのである。
天台大師がいうには、「時に適うのみ」(『法華文句』)と。
仏法は時によるのである。
日蓮の流罪は、今世での小さな苦であるから嘆くにあたらない。来世には大きな楽を受けることができるので、大いに喜ばしい。
全ての仏が願うことは、成仏の法である法華経を永遠に存続させ、未来の全ての人間を救うこと。
苦しむ子どもを思う父母よりも、大きく深い慈悲なのである。
ところが、念仏を弘めた法然などは、その心がわからず、正法を破壊している。
ゆえに日蓮は厳しく責めざるを得ない。
日蓮こそ、日本の一切衆生の主師親である。
それが分からない愚か者に批判されようと何も思わない。
それどころか、愚か者にほめられるのは、第一の恥である。
日蓮は今、こうして流罪にあっているが、来世には大きな楽を受けるので、大いに喜ばしい。
『日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり』→日蓮大聖人こそ、一切衆生の主師親であることを明かされた文。(結論)
第1段の冒頭の文「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」に対応している。
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