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2011/09/15  青年教学1級 開目抄第48段「適時の弘教を明かす」

 摂受と折伏を適切に使うべし。

第48段「適時の弘教を明かす」
 疑つて云く念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり修羅道にや堕つべかるらむ、又法華経の安楽行品に云く「楽つて人及び経典の過を説かざれ亦諸余の法師を軽慢せざれ」等云云、汝此の経文に相違するゆへに天にすてられたるか、答て云く止観に云く「夫れ仏に両説あり一には摂・二には折・安楽行に不称長短という如き是れ摂の義なり、大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪・途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云、弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし是くの如き等の文並びに是れ破法の人を折伏するなり一切の経論此の二を出でず」等云云、文句に云く「問う大経には国王に親付し弓を持ち箭を帯し悪人を摧伏せよと明す、此の経は豪勢を遠離し謙下慈善せよと剛柔碩いに乖く云何ぞ異ならざらん、答う大経には偏に折伏を論ずれども一子地に住す何ぞ曾て摂受無からん、此の経には偏に摂受を明せども頭破七分と云う折伏無きに非ず各一端を挙げて時に適う而已」等云云、涅槃経の疏に云く「出家在家法を護らんには其の元心の所為を取り事を棄て理を存して匡に大経を弘む故に護持正法と言うは小節に拘わらず故に不修威儀と言うなり、昔の時は平にして法弘まる応に戒を持つべし杖を持つこと勿れ今の時は嶮にして法翳る応に杖を持つべし戒を持つこと勿れ、今昔倶に嶮ならば倶に杖を持つべし今昔倶に平ならば倶に戒を持つべし、取捨宜きを得て一向にす可からず」等云云、汝が不審をば世間の学者・多分・道理とをもう、いかに諌暁すれども日蓮が弟子等も此のをもひをすてず一闡提人の・ごとくなるゆへに先づ天台・妙楽等の釈をいだして・かれが邪難をふせぐ、夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし。
 疑っていうには、念仏者と禅宗等に対して無間地獄に堕ちると言っているのは、争う心がある。修羅道に堕ちることになるであろう。
 また法華経の安楽行品には「好んで人や経典の欠点をあげつらってはいけない。また他の諸々の法師たちを軽んじたりしてはいけない」とあるが、あなたはこの経文に相違しているから諸天に見捨てられたのではないのか、と。
 答えていう。『摩訶止観』には「そもそも仏には二つの説がある。一つには摂受であり、二つには折伏である。法華経安楽行品に『長所・短所をあげつらってはいけない』というのは、摂受の義である。大般涅槃経に『刀杖を執って持ち、また首を斬れ』というのは、折伏の義である。一応、相手の意見に配慮する行き方と、相手の誤りを真っ向から打ち破る行き方ではまったく異なるが、ともにその人を救うためである」等とある。
 『弘決』にはこの文をさらに注釈して「『そもそも仏には二つの説がある』等といううちの『大般涅槃経に刀杖を執って持ち』というのは、涅槃経巻3の金剛身品第2に『正法を護る者は、五戒を受けず、威儀(作法にかなった立ち居振る舞い)を修することがない』等とあり、また以下の文に、大乗経典を誹謗した者を厳しく処断した仙予国王等の文がある。また『新しくきた優れた医師が、旧来の劣った医師の乳薬を禁じて、もしこれからも用いるようなことがあれば、その者の首をはねるべきである、と言った』とある。
 このような文は、すべて破法の人を折伏する行き方を示している。一切の経論は、この摂受・折伏の二つを出ることはない」と述べている。
 また『法華文句』にはこうある。
 「問う。大般涅槃経には、国王に直接に託して、弓を持ち、箭を帯し、悪人を打ち砕き伏させよ、と明かしている。法華経は、権力を用いる行き方を遠ざけ、へりくだって慈善の心をもってせよ、と述べている。この二つは、一方は剛、一方は柔と大いに反している。違いがないなどと、どうしていえよう。
 答える。大般涅槃経には偏に折伏を論じているようだけれども、その一方で一切衆生を我が子のように慈愛する一子地という境地に住すべきことを説いている。どうして摂受がまったくなかったということがあろうか。法華経には偏に摂受を明かしているようだが、陀羅尼品には『頭が七分に破れる』等とあり、折伏がないのではない。それぞれ一端を挙げているのであって、時にかなった行き方をとるよう教えているのである」等と。
 『涅槃経疏』にはこうある。
 「出家であれ在家であれ、法を護ろうとする者は、その根本の精神にかなった行いをすべきで、表面的な事(行動面)である五戒を受けず、本質的な理としての大乗の教えを守って、まさに大乗の教えを弘めるべきである。
 それゆえ、正法を護持するには、枝葉末節にこだわらないのであり、『形や儀式にとらわれない』と言うのである。
 昔の時代は、世の中が平穏で法が順調に広まっていた。それ故、戒を持つべきであり、棒などの武器を持ってはいけない。今の時代は、世の中が険悪であり正しい法が見失われている。まさしく棒などを持つべきである。
 今も昔もともに、険悪である場合は、同じように棒を持つのがよい。逆に、今も昔も。ともに、平穏であれば、同じく戒を持つのがよい。これらの取捨は適切に行って、一つに固執してはならない」と。
 あなたの不審を、世間の学者の多くは道理であると思うにちがいない。どのように諌め、真実を明らかにしても、日蓮の弟子らも、このような思いを捨てていない。あたかも一闡提人のようであるので、まず天台・妙楽等の釈を出して、そのような誤った非難を防いだのである。
 そもそも摂受・折伏・という二つの法門は、水と火のように相容れないものである。火は水を厭い、水は火を憎む。摂受の者は折伏を笑う。折伏の者は摂受を悲しむ。
 無智・悪人が国土に充満している時は、摂受を優先させるのがよい。安楽行品に説かれている通りである。邪智・謗法の者が多い時は、折伏を優先させるべきである。常不軽品に説かれている通りである。
 譬えば、熱い時に冷たい水を用い、寒い時に火を好むようなものである。草木は太陽の眷属で、寒い月に苦をなめる。水は月の所従で、熱い時には本来の性質を失ってしまう。
 末法において、摂受と折伏の両方がある。いわゆる悪国と破法の両方の国があるからである。しかしながら、日本国の今の時代は、悪国か破法の国かをわきまえなければならない。

 日蓮大聖人は邪宗を厳しく非難するけど、そのやり方がまずいんじゃないか、との疑問に答える。
 そもそも仏の教えを弘めるのに、「摂受」と「折伏」の二つの方法がある。
 『摂受』とは、相手の見解を認めつつ、寛容な姿勢で次第に正法に誘引する方法。
 『折伏』とは、邪義や悪心を折り、成仏の直道たる正法に伏せしめていく方法。

 仏法に対し無智悪国の場合は『摂受』であり、邪智謗法の場合は「折伏」である。
 (平たく言えば、摂受とは、善悪を知らないで(無智)、悪い事をしている子どもに、やさしく教えて非をさとらせること。
 折伏とは、悪いと知っていながら、悪いことをしている子どもを、厳しく叱って正しいことを教えてあげること)

 ・大聖人の時代は、邪智謗法であるから、『折伏』が正しい。

2011/09/15  青年教学1級 開目抄第47段「不求自得の大利益」

 諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし。

第47段「不求自得の大利益」
 涅槃経に曰く「譬えば貧女の如し居家救護の者有ること無く加うるに復病苦飢渇に逼められて遊行乞丐す、他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐して去らしむ、其の産して未だ久しからず是の児をケイ抱して他国に至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫毒虫のスい食う所となる、恒河に逕由し児を抱いて渡る其の水漂疾なれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず、文殊師利若し善男子有つて正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ、善男子護法の菩薩も亦是くの如くなるべし、寧ろ身命を捨てよ是くの如きの人解脱を求めずと雖も解脱自ら至ること彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」等云云、此の経文は章安大師・三障をもつて釈し給へり、それをみるべし、貧人とは法財のなきなり女人とは一分の慈ある者なり、客舎とは穢土なり一子とは法華経の信心・了因の子なり舎主駈逐とは流罪せらる其の産して未だ久しからずとはいまだ信じて・ひさしからず、悪風とは流罪の勅宣なり蚊虻等とは諸の無智の人有り悪口罵詈等なり母子共に没すとは終に法華経の信心をやぶらずして頚を刎らるるなり、梵天とは仏界に生るるをいうなり引業と申すは仏界までかはらず、日本・漢土の万国の諸人を殺すとも五逆・謗法なければ無間地獄には堕ちず、余の悪道にして多歳をふべし、色天に生るること万戒を持てども万善を修すれども散善にては生れず、又梵天王となる事・有漏の引業の上に慈悲を加えて生ずべし、今此の貧女が子を念うゆへに梵天に生る常の性相には相違せり、章安の二はあれども詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし、念を一境にする、定に似たり専子を思う又慈悲にも・にたり、かるがゆへに他事なけれども天に生るるか、又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ、此の一念三千も我等一分の慧解もなし、而ども一代経経の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり、余経の理は玉に・にたる黄石なり沙をしぼるに油なし石女に子のなきがごとし、諸経は智者・猶仏にならず此の経は愚人も仏因を種べし不求解脱・解脱自至等と云云、我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。
 涅槃経には次のように説かれている。
 「誓えば、一人の貧しい女性がいる。その人は居るべき家もなく、助けてくれる者もいない。それに加えて病苦や飢え、のどの渇きにせめられながら、さまよい、ものごいをしていた。
 ある時、ゆかりもない宿にとどまって、子どもを産んだが、この宿の主人は、この女性を追い出してしまった。
 出産してまだ日もたっていないこの子を抱いて、他の国に行こうとした。
 ところが、その途中でひどい風雨にあって寒さや苦しみにせめられ、多くの蚊や虻や蜂や刺す虫や毒虫などにくわれた。
 ガンジス川にさしかかって、子を抱いて渡り始めた。その水は急流であったが、子どもを放さなかったため、ついに母子ともに沈んでしまった。
 この女性は、子を慈しみ念った功徳によって、亡くなった後、梵天に生まれた。
 文殊師利よ、もし善男子がいて正法を護ろうとするなら、この貧しい女性がガンジス川で子どもを愛し思うゆえに自らの命を捨てたようにせよ。
 善男子よ、法を護ろうとする菩薩もまた、まさにこの例のようになるであろう。
 むしろ正法を護るためには命を捨てよ。このような人が、悟りの境涯を求めなくても、悟りの境涯が自然と訪れることは、この貧しい女性が梵天に生まれることなどは求めなかったのに、梵天に自然と至ったようなものである」等と。
 この経文については、章安大師が三障に当てはめながら解釈している。それを参照するがよい。
 ここで「貧しい人」というのは、法の宝がないことである。「女人」というのは、一分の慈悲がある人のことである。「宿」というのは、穢土のことである。
 「一人の子」というのは、法華経の信心であり、正了縁の三因仏性のうちの了因仏性という子である。
 「宿の主人が追い出す」というのは、流罪にされることである。
 「子どもを産んで日がたっていない」というのは、まだ信じて日が浅いことである。
 「悪風」というのは、流罪の命令である。「蚊・虻」等というのは「もろもろの無智の人が悪口をいい、ののしる」等のことである。
 「母子もろとも沈んだ」というのは、最後まで法華経の信心を破ることなくして、首をはねられることである。
 「梵天に生ずる」というのは、仏界に生まれることをいうのである。
 次の生の境涯を決める引業というのは、(六道や九界だけでなく)仏界にも当てはまる。
 日本・中国の万国の人々を殺したとしても、五逆罪や謗法がなければ、無間地獄には堕ちない。それ以外の悪道で、多くの歳月を過ごすのである。
 色界の天に生まれることだが、多くの戒を持ち、多くの善業を修めても、散乱した心で行えば、生まれることはできない。また、梵天の王となることは、煩悩のなごりが残っている有漏の禅定の修行を引業として、これに慈悲の行を加えて生まれることができる。
 今、この貧しい女性が子を思う慈悲の心のゆえに梵天に生まれたのは、通常の因果の様相とは違っている。
 それについては、章安大師が二つの理由をあげて解釈しているが、結局は、子を思う慈悲心よりほかに梵天に生じた因はない。
 思いを一つの対象に定めているのは、禅定と同じである。もっぱら子どものことを思うのは、また慈悲に似ている。このような理由で、他に何の善根もないけれども天に生まれたと言えよう。
 また仏に成る道について、華厳宗は唯心法界、三論宗は八不中道、法相宗は唯識、真言宗は五輪観などを立てているが、これらは実際にはかなうとは思えない。
 ただ天台宗の一念三千こそ、仏に成ることができる道であると思われる。
 この一念三千についても、私たちには智慧による理解が一分もない。しかし、釈尊一代の諸経の中で、この法華経だけが一念三千の宝珠をいだいている。
 他の経の法理は、宝玉に似ているがただの黄色い石である。
 涅槃経に「砂をしぼっても油は出ない」「石女に子どもはいない」とあるようなものである。
 諸経は智者ですら仏に成らない。この経は愚かな人でも仏と成る因をうえることができる。
 「解脱(苦しみからの根源的解放)を求めなくても、解脱が自然に訪れる」等とあるのは、このことである。
 私ならびに私の弟子は、諸難があっても、疑う心がなければ、自然に仏界に至ることができる。
 諸天の加護がないからといって、疑ってはいけない。現世が安穏でないことを、嘆いてはいけない。
 私の弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆、信心を捨ててしまったようである。
 つたない者の習性として、約束したことをいざという時には忘れてしまうものである。
 妻子をふびんと思うため、この現世の別れを嘆くのであろう。
 しかし、これまでのきわめて多くの生死流転の中で、なれ親しんだ妻子には、自分から願って離れたであろうか。それとも仏道を成就するために離れたであろうか。いずれにしても必ず別れが待っているのである。
 まず、自分が法華経の信心を破らずに成仏して、霊山浄土へ赴き、そのうえで妻子を導くがよい。

 涅槃経に説かれる「貧女のたとえ」を通して、どれほどの苦難があっても、信心を貫いていけば、自ら求めてもいないのに、想像以上の境涯──すなわち仏界を得ることができることを述べている。

2011/09/14  青年教学1級 開目抄第46段「転重軽受を明かす」

 転重軽受とはなにか?

第46段「転重軽受を明かす」
 疑つて云くいかにとして汝が流罪・死罪等を過去の宿習としらむ、答えて云く銅鏡は色形を顕わす秦王・験偽の鏡は現在の罪を顕わす仏法の鏡は過去の業因を現ず、般泥オン経に云く「善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業を作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ・或は形状醜陋・衣服足らず・飲食ソ疎・財を求むるに利あらず・貧賎の家邪見の家に生れ・或は王難に遭い・及び余の種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり」云云、此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん、或被軽易等云云、法華経に云く「軽賎憎嫉」等云云・二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋・又云く衣服不足は予が身なり飲食ソ疎は予が身なり求財不利は予が身なり生貧賎家は予が身なり、或遭王難等・此の経文疑うべしや、法華経に云く「数数擯出せられん」此の経文に云く「種種」等云云、斯由護法功徳力故等とは摩訶止観の第五に云く「散善微弱なるは動せしむること能わず今止観を修して健病虧ざれば生死の輪を動ず」等云云、又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云云我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を刎こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもつて急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ。
 疑って言うには、どうしてあなたの流罪や死罪などが、過去世からの宿業によると分かるのか、と。
 答えて言うには、銅の鏡は、姿や形をはっきりと映し出す。
 中国・秦の始皇帝の用いたという験偽の鏡は、今世の罪を映し出したという。
 仏法の鏡は、過去世の業因を映し出す。
 般泥オン経には、「善男子よ。過去世に数え切れないほどの諸罪、種々の悪業を作った場合、この諸々の罪の報いとして、人に軽んじられ、あるいは姿や顔かたちが醜く、衣服が不足したり、飲食物が粗末で不自由したり、財宝をいくら求めても利益がなく、貧しく賎しい身分の家や邪教を信じる家に生まれたり、あるいは権力者による難にあったり、その他の種々の人間としての苦しみの報いを受けるであろう。これらの報いを現世で軽く受けるのは、仏法を護る功徳の力による故である」と説かれている。
 この経文は、日蓮の身にあたかも割り符を合わすように一致している。これによって、なぜ難にあうのかという疑いがとけた。千万の疑難も、もはや、何でもないことである。一々の句を我が身に引き合わせてみよう。
 「あるいは人に軽んじられ」等、また、法華経譬喩品にも「軽んじられ、賎しまれ、憎まれ、ねたまれる」等と説かれているように、私は20年余りの間、軽んじられ、あなどられてきた。
 「あるいは姿や顔かたちが醜い」、また「衣服が不足する」というのは、私の身の上である。
 「飲食物が粗末で不自由する」とは、私の身の上である。
 「財宝をいくら求めても利益がない」というのは、私の身の上である。
 「貧しく、賎しい家に生まれる」というのは、私の身の上である。
 「あるいは国主による難にあう」等というのも、今まさにその通りで、この経文を疑うことができようか。
 法華経勧持品には、「しばしば所を追われるだろう」とあり、般泥オン経には「そのほか種々の苦の報いを受ける」等と説かれている。
 「これは仏法を護る功徳の力によるのである」とあるのは、『摩訶止観』第5巻に「散乱した心で行う微弱な善の修行では、宿業を揺り動かすことはできないが、今、止観を修行すれば、健康と病の状態の両方の状態を欠けずに観察し把握するので、生死を繰り返す輪廻の輪が動くのである」と。
 また、『摩訶止観』に「(修行に励み仏法を理解しようと努力を重ねたなら)三障四魔が紛然と競い起こる」と説かれている。
 私は無始の昔から今に至るまで、悪王と生まれて、法華経の行者の衣服や食べ物、田畑などを奪い取ってきたことは数知れない。それは、今の世の日本国の諸々の人が、法華経の寺々を破壊しているのと同じである。また、法華経の行者の首をはねたことは、数知れないほどである。
 これらの重罪の中には、すでに報いを受けて終わったものもあれば、まだ終わっていないものもあるだろう。
 一応、報いは受けたけれども、その残滓がまだ尽きていないものもある。
 生死の迷苦を離れて成仏する時には、必ずこの重罪を消し切って、苦しみの境涯から離れていくのである。
 これまで積んできた功徳は浅く軽い。これらの罪は深く重い。権経を修行していた時には、この重罪の報いは起こってこなかった。
 たとえば、鉄を焼く時、強く鍛えないと、その中の傷は隠れたままで見えない。たびたび強く責めて鍛えると、傷が現れてくるようなものである。
 また、麻の種子をしぼる時、強く責めてしぼらないと、取れる油が少ないようなものである。
 今、日蓮は、強盛に日本国中の謗法を責めたので、この大難が起こってきたのであり、これは過去世につくった重罪が、今世の護法の実践で招きだされてきたものであろう。
 鉄は火にあわなければ黒いままである。火とあえば赤くなる。木をもって急流をかけば、波が山のようにおこる。眠っている獅子に手をつければ、大いに吠える。これらと同じ原理なのである。

 法華経弘通のゆえに難にあえば、自分自身の無始以来の罪障を消滅することができる。
 受けなければならない『重い』宿業を『軽く』受けることができる。
 それが『転重軽受』。

2011/09/12  青年教学1級 開目抄第45段「法華経の行者を顕す文を結す」

 諸天の加護なんていらない!3つの誓い。

第45段「法華経の行者を顕す文を結す」
 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。
 結局のところは、天も私を捨てるがよい。いかなる難にもあおう。身命をなげうつ覚悟である。
 舎利弗が過去世に60劫という長い間、修行してきた菩薩行を途中で退転したのは、舎利弗の眼を求めた婆羅門の責め苦に堪えられなかったからである。
 久遠五百塵点劫、および三千塵点劫の昔に、法華経の下種を受けながら、退転して悪道に堕ち、五百塵点劫や三千塵点劫を経たのは悪知識にあって惑されたからである。
 善につけ悪につけ、法華経を捨てることは地獄に堕ちる業となる。
 「私は、大願を立てよう。たとえ、『日本国の王の位を譲るから、法華経を捨てて観無量寿経等に付き従って、後生の浄土への往生を目指せ』と誘惑されたり、『念仏を称えなければ父母の首をはねる』と脅されるなどの種々の大難が出てきても、私の正義が智者に破られることがない限り、彼らの要求を決して受け入れることはない。
 それ以外の大難は、私にとっては風の前の塵のような、とるに足りないものである。
 私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」等と誓った大願は、決して破ることはない。

 この段は、殆どが重文ですので、暗記しましょう。
 諸天の加護は大聖人にとって、重要ではないのです。
 退転することの恐ろしさを仰せになっている。
 「王位を譲ろう」との誘惑や「父母の首を刎ねる」との脅迫にも従わない不退転の覚悟を述べられる。

 また、「我日本の柱とならむ」「我日本の眼目とならむ」「我日本の大船とならむ」の3つの誓願をどんな事があっても破ることはないと仰せになっている。

 「柱」は主徳、「眼目」は師徳、「大船」は親徳に当たる。
 この一切衆生救済の大願の主師親の三徳は、法華経の行者であることの根本条件です。

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