2011/09/15  青年教学1級 開目抄第48段「適時の弘教を明かす」

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 摂受と折伏を適切に使うべし。

第48段「適時の弘教を明かす」
 疑つて云く念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり修羅道にや堕つべかるらむ、又法華経の安楽行品に云く「楽つて人及び経典の過を説かざれ亦諸余の法師を軽慢せざれ」等云云、汝此の経文に相違するゆへに天にすてられたるか、答て云く止観に云く「夫れ仏に両説あり一には摂・二には折・安楽行に不称長短という如き是れ摂の義なり、大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪・途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云、弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし是くの如き等の文並びに是れ破法の人を折伏するなり一切の経論此の二を出でず」等云云、文句に云く「問う大経には国王に親付し弓を持ち箭を帯し悪人を摧伏せよと明す、此の経は豪勢を遠離し謙下慈善せよと剛柔碩いに乖く云何ぞ異ならざらん、答う大経には偏に折伏を論ずれども一子地に住す何ぞ曾て摂受無からん、此の経には偏に摂受を明せども頭破七分と云う折伏無きに非ず各一端を挙げて時に適う而已」等云云、涅槃経の疏に云く「出家在家法を護らんには其の元心の所為を取り事を棄て理を存して匡に大経を弘む故に護持正法と言うは小節に拘わらず故に不修威儀と言うなり、昔の時は平にして法弘まる応に戒を持つべし杖を持つこと勿れ今の時は嶮にして法翳る応に杖を持つべし戒を持つこと勿れ、今昔倶に嶮ならば倶に杖を持つべし今昔倶に平ならば倶に戒を持つべし、取捨宜きを得て一向にす可からず」等云云、汝が不審をば世間の学者・多分・道理とをもう、いかに諌暁すれども日蓮が弟子等も此のをもひをすてず一闡提人の・ごとくなるゆへに先づ天台・妙楽等の釈をいだして・かれが邪難をふせぐ、夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし。
 疑っていうには、念仏者と禅宗等に対して無間地獄に堕ちると言っているのは、争う心がある。修羅道に堕ちることになるであろう。
 また法華経の安楽行品には「好んで人や経典の欠点をあげつらってはいけない。また他の諸々の法師たちを軽んじたりしてはいけない」とあるが、あなたはこの経文に相違しているから諸天に見捨てられたのではないのか、と。
 答えていう。『摩訶止観』には「そもそも仏には二つの説がある。一つには摂受であり、二つには折伏である。法華経安楽行品に『長所・短所をあげつらってはいけない』というのは、摂受の義である。大般涅槃経に『刀杖を執って持ち、また首を斬れ』というのは、折伏の義である。一応、相手の意見に配慮する行き方と、相手の誤りを真っ向から打ち破る行き方ではまったく異なるが、ともにその人を救うためである」等とある。
 『弘決』にはこの文をさらに注釈して「『そもそも仏には二つの説がある』等といううちの『大般涅槃経に刀杖を執って持ち』というのは、涅槃経巻3の金剛身品第2に『正法を護る者は、五戒を受けず、威儀(作法にかなった立ち居振る舞い)を修することがない』等とあり、また以下の文に、大乗経典を誹謗した者を厳しく処断した仙予国王等の文がある。また『新しくきた優れた医師が、旧来の劣った医師の乳薬を禁じて、もしこれからも用いるようなことがあれば、その者の首をはねるべきである、と言った』とある。
 このような文は、すべて破法の人を折伏する行き方を示している。一切の経論は、この摂受・折伏の二つを出ることはない」と述べている。
 また『法華文句』にはこうある。
 「問う。大般涅槃経には、国王に直接に託して、弓を持ち、箭を帯し、悪人を打ち砕き伏させよ、と明かしている。法華経は、権力を用いる行き方を遠ざけ、へりくだって慈善の心をもってせよ、と述べている。この二つは、一方は剛、一方は柔と大いに反している。違いがないなどと、どうしていえよう。
 答える。大般涅槃経には偏に折伏を論じているようだけれども、その一方で一切衆生を我が子のように慈愛する一子地という境地に住すべきことを説いている。どうして摂受がまったくなかったということがあろうか。法華経には偏に摂受を明かしているようだが、陀羅尼品には『頭が七分に破れる』等とあり、折伏がないのではない。それぞれ一端を挙げているのであって、時にかなった行き方をとるよう教えているのである」等と。
 『涅槃経疏』にはこうある。
 「出家であれ在家であれ、法を護ろうとする者は、その根本の精神にかなった行いをすべきで、表面的な事(行動面)である五戒を受けず、本質的な理としての大乗の教えを守って、まさに大乗の教えを弘めるべきである。
 それゆえ、正法を護持するには、枝葉末節にこだわらないのであり、『形や儀式にとらわれない』と言うのである。
 昔の時代は、世の中が平穏で法が順調に広まっていた。それ故、戒を持つべきであり、棒などの武器を持ってはいけない。今の時代は、世の中が険悪であり正しい法が見失われている。まさしく棒などを持つべきである。
 今も昔もともに、険悪である場合は、同じように棒を持つのがよい。逆に、今も昔も。ともに、平穏であれば、同じく戒を持つのがよい。これらの取捨は適切に行って、一つに固執してはならない」と。
 あなたの不審を、世間の学者の多くは道理であると思うにちがいない。どのように諌め、真実を明らかにしても、日蓮の弟子らも、このような思いを捨てていない。あたかも一闡提人のようであるので、まず天台・妙楽等の釈を出して、そのような誤った非難を防いだのである。
 そもそも摂受・折伏・という二つの法門は、水と火のように相容れないものである。火は水を厭い、水は火を憎む。摂受の者は折伏を笑う。折伏の者は摂受を悲しむ。
 無智・悪人が国土に充満している時は、摂受を優先させるのがよい。安楽行品に説かれている通りである。邪智・謗法の者が多い時は、折伏を優先させるべきである。常不軽品に説かれている通りである。
 譬えば、熱い時に冷たい水を用い、寒い時に火を好むようなものである。草木は太陽の眷属で、寒い月に苦をなめる。水は月の所従で、熱い時には本来の性質を失ってしまう。
 末法において、摂受と折伏の両方がある。いわゆる悪国と破法の両方の国があるからである。しかしながら、日本国の今の時代は、悪国か破法の国かをわきまえなければならない。

 日蓮大聖人は邪宗を厳しく非難するけど、そのやり方がまずいんじゃないか、との疑問に答える。
 そもそも仏の教えを弘めるのに、「摂受」と「折伏」の二つの方法がある。
 『摂受』とは、相手の見解を認めつつ、寛容な姿勢で次第に正法に誘引する方法。
 『折伏』とは、邪義や悪心を折り、成仏の直道たる正法に伏せしめていく方法。

 仏法に対し無智悪国の場合は『摂受』であり、邪智謗法の場合は「折伏」である。
 (平たく言えば、摂受とは、善悪を知らないで(無智)、悪い事をしている子どもに、やさしく教えて非をさとらせること。
 折伏とは、悪いと知っていながら、悪いことをしている子どもを、厳しく叱って正しいことを教えてあげること)

 ・大聖人の時代は、邪智謗法であるから、『折伏』が正しい。


12:30:00

コメント

Posted on 2011/09/15 17:18:10 by JunkDark

予想問題

夫れ摂受・(  )と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は(  )をわらう(  )の者は摂受をかなしむ、(  )・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす(   )品のごとし、邪智・(  )の者の多き時は折伏を前とす(   )品のごとし

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