異体同心
大切なのは異体同心の団結である。リーダーが師弟不二の精神に立って、互いに団結していくことだ。皆が一つになって戦えれば、これほど楽しいことはない。(中略)同志の間に不和があり、異体同心でなかったら、何をやってもうまくいかない。広宣流布は進まない。それどころか、かえって広宣流布を妨げる存在となってしまう。(2006/9/6付 各部代表研修会)
人間の団体なのだから同志の不和や、どうしてもリーダーに馴染めない時はあるだろう。
その時は指導を受けよう、そのままでは愚癡の温床になるしすっきりとは戦えない。
人にやらせよう、だれかがやってくれるだろう---そういう心があれば本当の力は出ない。すべては長の一念で決まる。まず自分自身を革命する以外ない。そして、大事なのは、異体同心の団結である。心がバラバラでは、何をやっても、だめだ。青年のために。未来のために。同じ目的観に立った深き結束のあるところ、必ず、爆発的な前進が生まれる。(2006/3/23付 アメリカ創価大学代表協議会)
まずは率先垂範だ、一人立つ精神だ。自ら行動しなければ誰も付いては来ない。
団結か分断か---あらゆる団体や組織にとって重要な問題だ。戦いである。「団結の力」こそが最も強い。創価学会が勝利していく道は「団結」しかない。御書には「異体同心」(1337㌻)等と仰せである。学会は永遠に、信心を根本にした「異体同心の団結」で進むのだ。万が一にも、身勝手な派閥などができれば、「異体異心」になってしまう。大切な広宣流布の組織は崩されてしまう。それでは、成仏への道は閉ざされてしまう。(2004/8/11付 各部合同研修会)
「私はこの打ちだしには従わない」「この戦いは不得手なのでやらない」「そのやり方では時代に合わない」など好き嫌いで信心したのでは修行ではない。
今日の新・人間革命にも
「大聖人は『佐渡御書』で、弾圧を恐れた弟子たちの言い分を、 『日蓮御房は師匠にておはせども余にこは(剛)し我等はやは(柔)らかに法華経を弘むぺし』 (御書九六一㌻)と記されている。つまり、彼らは、"大聖は自分たちの師匠ではあるが、その折伏の方法は、あまりにも強引すぎる。だから、迫害も起こる。自分たちは、もっと柔軟に法を弘めよう"と言うわけです。
一応、言い分としては、弘教の方法諭への批判というかたちをとっているが、その本質には"大聖人の生き方はこうだ。しかし、われわれは別の生き方をしよう"という、師匠への"離反の心"がある。それは、無自覚ではあっても臆病な心から起こっている。
五老僧の場合も同じだ。 "あれは日輿の生き方だ。われわれとは生き方が違う"という姿勢だ。実はこの"心"こそが、退転の元凶ではないだろうか」
とある。
自分勝手な戦いは離反の証しだと思う。
縁深き同志の皆さんと「苦楽をともにしていく」リーダーであっていただきたい。たとえば、皆がお腹を空かせてないか、また暑くはないか、寒くはないか、そして何かで悩んでいないか---こう絶えず心を砕いていく。喜びも苦しみも共にしていく。その指導者の真心から、異体同心の団結がつくられていくのである。(2003/8/4付 全国最高協議会)
「苦楽」を共に、苦だけでもなく、楽だけでもない。全てを共に戦う。楽だけ一緒で苦から逃げたら団結は出来ない。
同苦しながらの楽しき組織を作れなかったら、勝利も人間革命も出来やしない。