初級・3級教学試験 教学入門 その5
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5.地涌の使命と実践
御書
五老僧たちのなかには、仮名交じりの御書は大聖人の恥であるとして、御書をすきかえして(水に溶かして再び紙にすること)しまったり、焼いたりする者もいました。これは、五老僧たちが、大聖人を末法の御本仏と拝することができなかったからです。
これに対して日興上人は、大聖人の著作をすべて「御書」と呼んで尊重し、散在していた御書の収集を図られ、後世に残すため書写に努められました。
この日興上人の精神を継いで、創価学会では、戸田城聖第2代会長の発願により、昭和27年(1952年)4月28日に『日蓮大聖人御書全集』を発刊しました。
堀日亨上人の研究成果を踏まえ、正しい法理に基づいて御書を集大成したことは、700年間誰人も成し得なかった快挙であり、御書を信仰の根本とする創価学会の信心を示した大事業でした。
これに比べて日蓮正宗宗門は、戦時中、国家神道と結びついていた軍部権力の弾圧を恐れて、時勢に照らして支障のある御書の御文を削除するという、大聖人門下としてあってはならない誤りを犯したのです。
昭和16年(1941年)8月に、御書の刊行を禁止する院達を出し、さらに同年9月には、宗務院教学部長名で計14カ所に及ぶ御文の削除を通達したのです。
「御書根本」を貫く創価学会と、御書を軽視し続けてきた宗門と、その相違は明確です。
信心と生活
御書には「御みやつかいを法華経とをぼしめせ」(1295ページ)と仰せです。
「御みやつかい」とは、今日の私たちの立場にあてはめれば、職業・仕事・生活にあたります。
したがって、この御文は、日々の生活、現実の社会が、そのまま仏道修行の場、信心成長の場となることを教えられています。
さらに御書には「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(1169ページ)、「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(1165ページ)と仰せです。
”仏法は勝負”であり、信心こそが、時代・社会の相違を超えて、人生の根本的な勝利、真の幸福を勝ち取っていく源泉です。したがって、どのような状況にあっても、信心を根本として、勝利の実証を示していくことが大切です。
善知識と悪知識
「知識」とは元来、仏教用語では友人・知人を意味する言葉です。「知識」のなかでも正しく仏道に導いてくれる師匠や、仏道修行を励ましてくれる同志を「善知識」といい、その逆に、仏道修行を妨げ、人を迷わして悪道に導く者を「悪知識」といいます。
「種種御振舞御書」には「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(917ページ)と説かれ、「富木殿御返事」には「諸の悪人は又善知識なり」(962ページ)と述べられています。
諸天善神
この諸天善神は、私たちの生命と別に、それ自体の意思をもって存在しているものではありません。
私たちの生命の力、一念の働きが社会や環境などの依報のうえに反映し、それがさまざまな働きとして顕れてくるのです。
このことについて日蓮大聖人は「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997ページ)と仰せになっています。
すなわち、私たちの生命に具わる根本の悟りの生命(=元品の法性)が、諸天善神の守護の働きとして顕れ、逆に根本の迷いの生命(=元品の無明)が、第六天の魔王の働きとして顕れるのです。
謗法厳誡・随方毘尼
(1)謗法厳誡
謗法とは、「誹謗正法」すなわち正法を誹謗する(=謗る、悪口を言う)ことをいいます。
正法に背き、正法を信じようとしない不信は謗法となりますから、謗法は自ら厳しく戒めなければなりません。
それとともに、成仏のためには自ら謗法を犯さないようにするだけでなく、他の謗法を責めていく折伏の実践が、謗法厳誡の肝要となります。
大聖人は「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(1056ページ)と仰せです。
(2)随方毘尼
「随方」とは、地域の風習に随うこと、「毘尼」とは、戒律の意味です。
日蓮大聖人は「此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり」(1202ページ)と仰せです。
要するに、正法という根本基準を立てたうえで、成仏・不成仏という仏法の根本原理に関する事柄でなければ、一般の風俗、世間の普通の約束事を尊重し、用いていくことを説いているのが大聖人の仏法です。