6.日顕宗を破す




悪と戦う
 日蓮大聖人は、「立正安国論」のなかで「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(24ページ)、「須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし」(25ページ)と仰せです。仏法を正しく実践していくうえで一番大事なことは、人々の心を惑わす根本の悪縁である「一凶」と戦い抜くことです。
 「信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし」(1494ページ)
 どんなに善根を作って、仏法の修行を重ねても、「法華経の敵」を責めなければ成仏は叶わないと仰せです。
 「法華経の敵」とは、人々に法華経を捨てさせ、万人の成仏の道を塞ぐ者をいいます。法華経は誰人の生命にも仏性があると説く、究極の「人間尊敬」の思想です。この法華経の考えを否定し、「生命尊厳」「万人平等」「民衆根本」の思想に逆行し、法華経の行者を迫害する者が「法華経の敵」にあたります。
 日蓮大聖人御在世当時であれば、権力と結託して、弾圧を企て日蓮大聖人を迫害した僭聖増上慢・極楽寺良観が「法華経の敵」となります。
 そして、現代であれば、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を担う仏意仏勅の団体を破門し、破壊しようと企てた日顕が「法華経の敵」に当たります。
 日顕が犯した最大の罪は、この「破和合僧」の罪です。広布を推進してきた創価学会の組織破壊の謀略を企てたことは、日蓮大聖人の御遺命に違背した最大の謗法であるといえます。

日顕宗の主な邪義

(1)日顕宗の中心教義「法主信仰」
 現宗門を、なぜ「日顕宗」と呼ぶのか。それは、日顕宗の教義が、法主を信仰の対象としているからです。
 「日興遺誡置文」には、次のようにあります。
 「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(1618ページ)
 この遺誡は、たとえ法主であろうとも仏法から逸脱して、白分勝手な主張をする場合は、それを用いてはならないと断言されているものです。また、この仰せからうかがえるように、日興上人は、後代の法主が誤りを犯すこともありうると想定されていたのです。
 この「遺誡置文」に照らしても、法主を絶対視することは、日蓮大聖人・日興上人に完全に違背した邪義であることは明白です。

(2)神秘的血脈の嘘
 もともと「血脈」とは、真言密教や日本天台宗で盛んに用いられた言葉で、師匠から弟子へ法門が受け継がれることを、血管に血が流れていることに譬えたものです。
 それに対して日蓮大聖人は、「生死一大事血脈抄」に「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとする」(1337ページ)と仰せになり、成仏の血脈は特定の人間のみが所持するものではなく、万人に開かれるものであることを明確に示されています。
 そして、日蓮大聖人の仏法においては、「血脈」といっても、結論は「信心の血脈」という表現にあるように「信心」のことです。

(3)「僧俗差別義」の時代錯誤
 日顕および日顕宗の僧侶に共通しているのは、”僧が上で信者は下”という、信徒に対する抜きがたい「差別思想」です。
 日蓮大聖人は「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」(1134ページ)、「僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(1448ページ)と、明確に僧俗の平等を説かれています。
 日顕宗がこうした平等観を真っ向から否定する背景には、江戸時代を中心に日本の仏教が葬式仏教化し、檀家制度が普及したことがあげられます。
 その檀家制度の弊害を体質として深く残している時代錯誤の集団が日顕宗です。僧俗差別義はその象徴といえるのです。