2.大小相対
内道(仏教)というのは、自己の生命の変革を目指す宗教という事になりますが、人間の苦悩のことを煩悩といいます。
この煩悩をどのように解決するのかによって、修行方法は大きく異なります。
これを「小乗教」と「大乗教」に2つに分けます。
「乗」とは、乗り物の意味で、仏の教えが、人々を迷いと苦悩から悟りの境地へと運び、導くので、乗り物に譬えました。その大小を教相判釈するので「大小相対」といいます。


苦悩の原因は自分自身の煩悩にあると説き、苦悩を解決するには煩悩を滅する以外にないとして、厳しい戒律と修行による解脱(=悟りによる苦悩からの解放)を求めました。これを「小乗教」と言います。
これは、煩悩を解決する道(因果)を自分の生命の内に求める点では正しいと言えます。
しかし心身を滅すること(因)によって煩悩を完全になくした境地(果)を目指す(因が無ければ、果も無くなる)生き方は、結局、生命自体を否定することになり、真実の救いにはなりません。
またこの修行は灰身滅智(けしんめっち=身を焼いて灰にし、智慧を断滅していく)の教えであると批判されました。

灰身滅智は、誰でもできる修行ではなく、優れた人物でなければ、その修行に耐えられませんし、他の人にも同じような修行をするように勧めることもできません。
ですから、救える人が少ないので、小乗教(小さい乗り物の教え)なのです。

これに対して、大乗教は、自分も他人もともに幸福になろうとする菩薩のための教えです。
大乗教は、自分の救いを求めるだけでなく、他の多くの人々を救うことを目指すものです。
大乗教では、小乗教のように煩悩を排除するのではなく、煩悩のある生命に菩提(=悟り)の智慧を現して、その智慧によって煩悩を正しくコントロール(制御)し、清浄で力強い生命主体(仏界)を確立することを教えています。これを煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)といいます。
煩悩即菩提は、煩悩をコントロールし、ありのままの生命を見つめることになりますから、誰にでもできる修行に通じ、他人にも伝えてともどもに幸福になろうとすることができます。
ですから、大乗教(大きな乗り物の教え)といいます。
乙御前御消息
「小乗経と申す経は世間の小船のごとく、わづかに人の二人三人等は乗すれども百千人は乗せず。設ひ二人三人等は乗すれども、此岸につけて彼岸へは行きがたし。又すこしの物をば入るれども、大なる物をば入れがたし。大乗と申すは大船なり」(P1218)
小乗教とは、釈尊滅後、多くの部派に分かれて展開された部派仏教の教説がそれに当たります。
小乗教の経典(小乗経)としては阿含経を用い、論(教理を体系づけた理論書)としては倶舎論などが著されました。
これに対して、紀元前後から小乗教を批判しつつ、釈尊の精神に立ち戻る仏教ルネサンス運動として展開されたのが大乗教です。
大乗教の経典(大乗経)としては華厳経、般若経、阿弥陀経、大日経、法華経などがあり、論としては大智度論などが有名です。

また、仏教は、アジアに弘まりましたが、インドから、ビルマ、タイと東南アジアにひろまったのが小乗教であり、阿含教、上座部仏教といいます。
それに対し、ガンダーラから、シルクロードを通って、中国、朝鮮、日本と伝わったのが、大乗仏教です。

小乗教は、出家して修行し、自分だけが悟ることを目指す二乗(=声聞、縁覚)のための教えです。これは小さな範囲の人々しか救えないという意味で、小さな乗り物に譬えるのです。
十界の次元から考えれば、声聞界や縁覚界(二乗)を目指すのが小乗教です。それに対し、菩薩界を目指すのが大乗教です。

結果的に自分の幸福だけを考えるのか(小乗教)、他人の幸福をも目指すのか(大乗教)、という違いになります。