忘れ得ぬ 戦時の青春
池田先生の長編詩
忘れ得ぬ 戦時の青春 山本 伸一民衆・対話・哲学・文化・教育・連帯・歌声・青年と、明るく朗らかに歓喜の前進をして行きます!
我らは戦う!
人権と平和と
幸福のために
我らは戦う!
人権と
平和と
幸福のために!
人間の尊厳を侵し
青年の生命を奪い
そして
母たちを苦しめる
ありとあらゆる
権力の魔性と
我らは
断固と戦い続ける!
わが師・戸田城聖先生と
幾たびとなく語り合った
大事な一書が
フランスの大思想家ルソーの
『エミール』である。
その鮮烈な一節に
「圧制と戦争こそ
人類の
もっとも大きな
災厄ではないか」とあった。
私が十七歳の時
あの暗い暗い
苦しい苦しい
第二次世界大戦は
日本の大敗北で終わった。
時に--
昭和二十年(一九四五年)の
八月十五日である。
この年の弥生三月まで
わが家は
もう老い始めた父が
老後を楽しく
暮らすために作った
まあまあ立派な
大きな庭のある
屋敷であった。
蒲田の糀谷二丁目五四六番地
行き交う人びとも
「ずいぶん立派な家だな」
と感じながら
見上げておられた。
その風景は
今でも忘れ得ぬ
若き日の一つの思い出と
心に残っている。
ところが
この父の誉れの家も
度重なる大空襲の
類焼を防ぐための
あの忌まわしい
国家権力による
強制疎開で
ぶち壊されてしまった。
行く所がなくなった
家族は
近くの
強制疎開を免れた家々に
下宿させていただいた。
都会は空襲で危ないので
母の妹がいる
大森の西馬込に
新しく家を作って
疎開することになっていた。
当時の西馬込は
まだまだ静かな
広々とした
田園が残る土地であった。
その新しい家で
計画通り生活していけると
皆が楽しみにしていたが
でき上がった
まさに その日の
暗い暗い晩
けたたましい
空襲警報が鳴った。
あちら こちらで
群衆が見上げる夜空から
低空飛行の爆撃機B29が
焼夷弾をばらまき落とした。
何百人もの人びとが
「わあーわあー」と
大声をあげながら
逃げ惑っていった。
その地獄の苦しみの泣き声が
今もって耳朶から離れない。
私たち家族は
静かな裏山の
防空壕に入って
爆撃を逃れた。
この時の大空襲で
西馬込に完成したばかりの
わが家は
直撃を受け
燃え尽きてしまった。
それは昭和二十年
五月二十四日の夜であった。
蒲田の矢口にあった
私の妻の実家も
この一カ月前の空襲で
全焼していた。
妻は疎開先の岐阜でも
大空襲に遭っている。
わが家は
働き盛りの兄四人が
次々に召集されて
国家の命令通りに仕えていた。
私が敬愛する
長兄の喜一は
最後は
ビルマ(現・ミャンマー)方面の
派遣隊となって
その地で戦死した。
長兄が外地へ発ったのは
昭和十四年の初春であった。
その出立を前にして
家族との面会が
東京駅の近くの
広場でなされた。
戦地である中国へ行く
総勢二、三百人ほどの
軍服姿の兵隊たちであった。
父や母や新妻などと
別れを告げゆく面談が
賑やかに広がっていった。
しかし
見送りの家族のいない
兵士も多かった。
みな寂しそうであった。
急遽の命令のゆえ
遠く離れた
国元への連絡は
間に合わなかったのか。
交通も不便な時代である。
駆けつけたくても
お金を工面できぬ家も
少なくなかったであろう。
百名近くの兵士たちは
面会者もなく
談笑の輪から離れて
お茶を飲んだりして
出発までの時間を
過ごしていた。
あの打ち沈んだ瞳を
私は いまだに
忘れることができない。
私の母は
そうした方々へ
「こちらへ
いらしてください。
ご一緒に、どうぞ!」と
親しく声をかけた。
わが家の海苔を巻いた
おにぎりを
たくさん用意してきた
母であった。
遠慮がちな兵士たちには
私が走っていって
おにぎりを差し上げた。
「人間性の根源は、
母性にあり、
隣人愛の根源は
母性愛にあり、
善良さの根源は
女性らしさにある」
これは
後に私が深き交友を結んだ
ヨーロッパ統合の父
クーデンホーフ・
カレルギー伯の洞察であった。
ともあれ
あの東京駅での
わびしい残酷なる別れの姿は
まだ十一歳だった私の胸に
今もって焼きついている。
期待に応えて
一家を支えながら
人生を生き生きと走り
自らの歴史を創りゆく
優秀な青年たちが
国の奴隷の如く
心寂しく戦地に向かいゆく
あまりにも切ない場であった。
惜別の涙と涙の
悲しみの笑顔はあったが
明るい爆笑などは
一つもなかった。
この 本当に人の良い
紅顔の青年たちを!
未来に希望を燃やしながら
人生を生きてゆかんとする
若人たちを!
国家権力は
微塵の慈悲もなく
愛する家族から断ち切り
地獄の戦場に向かわせた。
その責任は
どこにあるかと思うと
今なお 私の胸は痛い。
インドの大詩人タゴールは
痛切に訴えた。
「権力者こそ
最大の責任を
負わなければならない、
そして
権力の座という
立場から考えるとき、
彼が犯すいかなる悪行も
最大限の非難に値すべきだ」
面会を終えて
東京駅から帰る道すがら
「あの人たちは若いのに
皆 お父さん お母さんを
悲しませてしまって
可哀想だ。可哀想だ」と
涙ぐんで語る母の姿は
私の瞼から
一生 消えることはない。
わが家では
長男・喜一に続いて
次男・増雄も
三男・開造も
四男・清信も徴兵された。
そのたびに
父も母も力が弱っていった。
母は涙が無くなるくらい
寂しがって泣いていた。
兄弟四人は
一人はビルマの戦線へ
あとの三人は
中支派遣軍などとして
国家より出征を
命じられていたのだ。
ほとんど文通はなかった。
日本にいた兵士たちは
終戦と同時に
たくさんの荷物を持って
復員してきた。
けれども
中国で敗戦を迎えた
三人の兄たちは
終戦の翌年になって
何も持たず
みすぼらしい
憔悴しきった格好で
ようやく帰ってきた。
長男・喜一は
戻ってはこなかった。
「日本軍はひどすぎる。
中国の人たちが
あまりにも可哀想だ!」と
憤怒していた兄であった。
戦死公報が届いたのは
終戦から二年も
経ってからであった。
戦地へ行く時
私に向かって
「父母や弟妹を頼むよ」と
託した言葉が遺言になった。
長兄の言葉を胸に
私は十四歳の春から
鉄工所に勤め始めた。
三男の開造が
出征する前まで働いていた
ディーゼル機関を製造する
蒲田の軍需工場である。
肺病を患い
血痰を吐く身であった。
辛くとも
苦しくとも
血を吐いても
いくら熱があっても
家での青年の静養は
非難の的であった。
若いくせに戦争に行かず
何を自分の家で
楽をしているのかと
罵られるばかりであった。
無敵日本
勝利勝利の
大日本帝国--
政治家も軍人も
報道機関も
華やかに動いていた。
しかし
全部が大嘘であった。
苦しみを耐え忍び
勝たねばならぬと決意して
国民は生き抜いていった。
ところが指導者たちには
国民を煽り
口先は上手であっても
狡賢い
弱い信念の姿が見え始めた。
ドイツの法学者
イェーリングは喝破した。
「歴史はいつでも、
大声ではっきりと、
こう教えているのだ。
国民の力は
国民の権利感覚の力に
ほかならず、
国民の権利感覚の涵養が
国家の健康と力の涵養を
意味する、と」
ともあれ
誰も信じられない。
心ある人びとは
自分自身で
生き抜く方法を求めた。
そして自分自身に
勝つ以外なかった。
老いた父も
まことに可哀想であった。
人生の総仕上げのために
立派な邸宅を作り
子どもたちが働いて
自分を助けてくれると
信じていた。
母も同じ心であった。
一家で一人だけなら
まだしも
頼りにしていた
四人の息子が次々に
危ない戦地に行かされた。
「国って
どうなっているのだろう」と
独り言を
真剣に厳しく
自分自身に言い聞かせて
いるようであった。
時代は
この母たちの希望を
ことごとく打ち砕き
暗黒の天地に変えてしまった。
戦争の犠牲になったのは
出征した兄たちだけではない。
残された父母も
私も同じであった。
いくら
父母を励まそうとしても
その親子の心情さえも
通じていかないほど
無惨な人生に
追いやられてしまった。
国家とは何か?
政治とは何か?
戦争とは何か?
どうすれば
一日も早く家族と
楽しみゆく時が来るのか?
どうすれば
平和な日本になるのか?
幸福な人類になるのか?
お先は真っ暗となっていた。
軍人だけが
胸を張って歩いている姿が
皆の心の奥に焼きついた。
肺病の私は
本を読むのが好きであった。
いな
本だけが楽しみであった。
「良書を読むのは
良い人との交りに
似ている」とは
アメリカ・ルネサンスの旗手
エマソンの言葉である。
「良書は
最良の大学の
かわりをする」
この哲人エマソンの確信を
オーストリアの作家
ツヴァイクは
若き日の向学の指針とした。
私が夜遅くまで
読書をしていると
母からは
「身体に悪いよ」と
いつも心配された。
父からも
--兄たちは戦争から
いつ帰ってくるか わからぬ。
おまえだけは健康に--と
静かに本を閉じる
仕草をされた。
疎開先の西馬込から
詩情豊かな森ケ崎海岸の
近くの家へ移ったのは
終戦の直後であった。
この家は
もともと父の持ち家で
人に貸していたのである。
長く二組の知人が
父の配慮で入っていた。
そこが焼け残っていたのだ。
やがて この方々も
深く感謝しながら
他の家に移って行かれた。
父も母も
ほっとしたようだった。
私もほっとした。
二所帯分の大きい家である。
父は私にも
わりあい広い部屋を
使わせてくれた。
今でも感謝している。
戦時中
防空壕に入れて守った
多くの本なども どんどん
その部屋へ置くようにした。
一冊また一冊
宝の如く集めた蔵書を
私は後に
わが創価大学へ寄贈した。
これが
七万冊の池田文庫である。
正しき活字文化を
興隆させゆくことは
野蛮な暴力に
打ち勝つ道であると
私は信じてきた。
当時 どの本から見つけたか
ある英知の言葉があった。
「波浪は
障害にあうごとに
その頑固の度を増す」
さらにまた
ある賢人の言には
「艱難に勝る教育なし」
いずれも
わが青春の座右の銘と決めた。
私は私の部屋に
この言葉を書いて飾った。
この忘れ得ぬ読書も
終戦の年
十七歳の時であったと
記憶する。
青春時代の思い出は
あまりにも懐かしく蘇る。
私が永遠の師と仰ぐ
戸田先生にお会いできたのは
この二年後の八月十四日
二回目の終戦記念日の
前夜であった。
「立正安国論」を講義される
座談会であった。
あの戦乱の嵐の時代に
わが師は
軍国主義と戦い
二年間の投獄を耐え抜かれた。
先師・牧口常三郎先生に
「あなたの慈悲の広大無辺は
わたくしを牢獄まで連れて
いってくださいました」と
心から感謝なされていた。
この師弟にこそ
いかなる魔性にも屈しない
最も強く
最も誇り高き
人間生命の尊厳の道がある。
この師弟にこそ
人類の悲劇の流転を止めゆく
最も正しく
最も希望に燃えた
平和と幸福の創造の力がある。
十九歳の私は
そう心に決定して
師と共に
大闘争を開始した。
権力ではなく民衆を!
暴力ではなく対話を!
狂信ではなく哲学を!
蛮性ではなく文化を!
命令ではなく教育を!
独善ではなく連帯を!
罵声ではなく歌声を!
権威ではなく青年を!
戦争の世の善悪を
一つ一つ大転換しながら
創価の人間主義の光は
今や世界百九十二の国々へ
地域へと広がった。
御聖訓には仰せである。
「大悪は
大善の来るべき瑞相なり、
一閻浮提うちみだすならば
閻浮提内広令流布は
よも疑い候はじ」
庶民の絶望を希望へ!
母たちの悲嘆を歓喜へ!
そして
青年の落胆を勇気へ!
蘇らせながら
我らは行進する。
我らは戦う!
人権と
平和と
幸福のために!
正義の勝利のために!
二〇〇九年二月十三日
学会本部・師弟会館にて
桂冠詩人
世界桂冠詩人
世界民衆詩人
※ルソーの言葉は今野一雄訳。クーデンホーフ・カレルギー伯の言葉は鹿島守之助訳。タゴールの言葉は森本達雄訳。イェーリングの言葉は村上淳一訳。エマソンの言葉は入江勇起男訳。ツヴァイクは原田義人訳。2009年2月18日付聖教新聞