五重の相対 本迹相対
4.本迹相対
法華経は全部で二十八品あり、私たちが朝晩の勤行で唱えているのが、その2番目の方便品と16番目の寿量品です。
だから、方便品第二とか、寿量品第十六というのです。法華経は全部で28品ですから、半分に分けると14品ずつですので、1~14と15~28ということになります。
前半14品の迹門と後半14品の本門に立て分け、両者を教判して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。
本迹の本とは本地(=仏・菩薩の本来の境地)、迹とは垂迹(=衆生教化のために現した仮の姿)という意味です。
法華経の後半十四品は釈尊が仏としての真実の境地(本地)を顕した法門なので本門といい、前半十四品はまだ本地を顕さず、仮の姿のままなので迹門といいます。
私たちがいつも唱えているのは、法華経迹門の2番目の方便品と法華経本門の2番目である寿量品ということになります。この二つを唱えるのは、これが迹門と本門を代表する要品だからです。
法華経では二乗や悪人、女人が成仏できることを示したと書きましたが、そのことが書かれているのは迹門です。
それは、すべての生命に仏界が備わることを示したからです。具体的には、方便品の「諸法実相」という言葉がそれにあたるのですが、しかし、それは理論の上の話であり、どうしてすべての生命に仏界が備わっているといえるのかは、明らかにされていません。
なぜなら、法華経迹門までの教えでは、仏といえば釈尊のことであり、仏界が自身の生命にあるということは、自分と釈尊は同じように立派な仏であるということになり、到底信じることはできないからです。
釈尊という仏は、あくまでも30歳の時にインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて悟りを得たことになっています。
過去世において、釈尊が仏であったとは一言も触れられていないのです。このことを「始成正覚」(しじょうしょうかく)といいます。
つまり、仏という生命が永遠に続くものであることが明らかではないのです。
それが、本門に入ると、実は釈尊が成仏したのは、迹門までで言っていた始成正覚ではなく、久遠の昔の過去世において、已に成仏していたことが明かされるのです。これを「久遠実成」(くおんじつじょう)といいます。
長行を知ってる方は覚えてますか?
寿量品で「我実成仏以来無量無辺…」(我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。)とあります
自我偈にも「自我得佛來所經諸劫數。無量百千萬億載阿僧祇。常説法教化無數億衆生。令入於佛道爾來無量劫。以度衆生故方便現涅槃。而實不滅度常住此説法。」(我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数。無量百千万 億載阿僧祇なり。常に法を説いて 無数億の衆生を教化して。仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり。衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く。」
これによって、仏の生命は、ある日突然顕れたものではなく、実は常に存在しているもの、過去・現在・未来の三世永遠にわたって、常住であることが示されたのです。このことが明かされて初めて、一切衆生の生命に仏界が備わることが、事実の上で示されたことになるので、本門を「事の一念三千」というのです。
事実として明かされたから「事」です。それに対して、迹門では理論的に誰にでも仏界があることが明かされていますから、迹門を「理の一念三千」といいます。
永遠の生命観は本質的には法華経本門に至って、明かされたといえるでしょう。
仏の本地である久遠実成を明かした本門の方が、仏の垂迹である始成正覚のままであった迹門に比べて優れているのです。
権実相対において、法華経が仏界を顕わしていると述べましたが、迹門が「生命に仏界がある」といっているだけであるのに対して、本門では「仏界は三世常住であり、常に如何なる場合でも仏界が存在する」ことが明かされているのです。
すべての生命に仏界があるだけでなく、常にいかなる時でも仏界があることを示したのが本門であるといえるでしょう。
法華経は全部で二十八品あり、私たちが朝晩の勤行で唱えているのが、その2番目の方便品と16番目の寿量品です。
だから、方便品第二とか、寿量品第十六というのです。法華経は全部で28品ですから、半分に分けると14品ずつですので、1~14と15~28ということになります。
前半14品の迹門と後半14品の本門に立て分け、両者を教判して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。
本迹の本とは本地(=仏・菩薩の本来の境地)、迹とは垂迹(=衆生教化のために現した仮の姿)という意味です。
法華経の後半十四品は釈尊が仏としての真実の境地(本地)を顕した法門なので本門といい、前半十四品はまだ本地を顕さず、仮の姿のままなので迹門といいます。
私たちがいつも唱えているのは、法華経迹門の2番目の方便品と法華経本門の2番目である寿量品ということになります。この二つを唱えるのは、これが迹門と本門を代表する要品だからです。
月水御書
「寿量品方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」(P1202)
法華経では二乗や悪人、女人が成仏できることを示したと書きましたが、そのことが書かれているのは迹門です。
それは、すべての生命に仏界が備わることを示したからです。具体的には、方便品の「諸法実相」という言葉がそれにあたるのですが、しかし、それは理論の上の話であり、どうしてすべての生命に仏界が備わっているといえるのかは、明らかにされていません。
なぜなら、法華経迹門までの教えでは、仏といえば釈尊のことであり、仏界が自身の生命にあるということは、自分と釈尊は同じように立派な仏であるということになり、到底信じることはできないからです。
釈尊という仏は、あくまでも30歳の時にインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて悟りを得たことになっています。
過去世において、釈尊が仏であったとは一言も触れられていないのです。このことを「始成正覚」(しじょうしょうかく)といいます。
つまり、仏という生命が永遠に続くものであることが明らかではないのです。
それが、本門に入ると、実は釈尊が成仏したのは、迹門までで言っていた始成正覚ではなく、久遠の昔の過去世において、已に成仏していたことが明かされるのです。これを「久遠実成」(くおんじつじょう)といいます。
長行を知ってる方は覚えてますか?
寿量品で「我実成仏以来無量無辺…」(我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。)とあります
自我偈にも「自我得佛來所經諸劫數。無量百千萬億載阿僧祇。常説法教化無數億衆生。令入於佛道爾來無量劫。以度衆生故方便現涅槃。而實不滅度常住此説法。」(我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数。無量百千万 億載阿僧祇なり。常に法を説いて 無数億の衆生を教化して。仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり。衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く。」
これによって、仏の生命は、ある日突然顕れたものではなく、実は常に存在しているもの、過去・現在・未来の三世永遠にわたって、常住であることが示されたのです。このことが明かされて初めて、一切衆生の生命に仏界が備わることが、事実の上で示されたことになるので、本門を「事の一念三千」というのです。
事実として明かされたから「事」です。それに対して、迹門では理論的に誰にでも仏界があることが明かされていますから、迹門を「理の一念三千」といいます。
永遠の生命観は本質的には法華経本門に至って、明かされたといえるでしょう。
仏の本地である久遠実成を明かした本門の方が、仏の垂迹である始成正覚のままであった迹門に比べて優れているのです。
権実相対において、法華経が仏界を顕わしていると述べましたが、迹門が「生命に仏界がある」といっているだけであるのに対して、本門では「仏界は三世常住であり、常に如何なる場合でも仏界が存在する」ことが明かされているのです。
すべての生命に仏界があるだけでなく、常にいかなる時でも仏界があることを示したのが本門であるといえるでしょう。