儒教の教えとは?


第2段「儒家の三徳」
 儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す諸臣の頭目万民の橋梁なり、三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず五帝已後は父母を弁て孝をいたす、所謂重華はかたくなはしき父をうやまひ沛公は帝となつて大公を拝す、武王は西伯を木像に造り丁蘭は母の形をきざめり、此等は孝の手本なり、比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり、尹寿は尭王の師・務成は舜王の師・大公望は文王の師・老子は孔子の師なり此等を四聖とがうす、天尊・頭をかたぶけ万民・掌をあわす、此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり、其の所詮は三玄をいでず三玄とは一には有の玄・周公等此れを立つ、二には無の玄・老子等・三には亦有亦無等・荘子が玄これなり、玄とは黒なり父母・未生・已前をたづぬれば或は元気よりして生じ或は貴賎・苦楽・是非・得失等は皆自然等云云。
 かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去をしらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云。
 儒教においては、三皇・五帝(中国古代の伝説上の理想的君主)、三王(夏の禹王、段の湯王、周の文王または武王)たちを天尊と名づけて崇敬し、臣下たちの統領、万民を導く橋と仰いでいる。
 三皇時代以前は、人々はみな自分の父を知らず、鳥や獣と同じであった。しかし、三皇・五帝の時代からは、父母をわきまえて孝行するようになった。
 その例として、重華(五帝の一人・舜王)は愚かな父を敬い、沛公(劉邦)は漢の高祖となって一国の王となったが、なお父の太公を深く敬った。
 また周の初代の王・武王は、父・西伯の姿を木像に刻んで、父の遺志を継いで殷の紂王の討伐に出陣し、丁蘭は母の死後、その姿を像に刻んで敬った。これらは孝行の手本である。
 段の忠臣であった比干は、紂王の暴虐な政治のために殷の世が滅びることを憂えて、紂王を諌めたが、かえって首をはねられ殺された。
 衛の公胤という人は、主君の懿公が殺され、はらわたが捨てられているのを見て、自分の腹をさいて主君の肝を隠し入れて死んだ。これらは忠の手本である。尹寿は堯王の師、務成は舜王の師、太公望は文王の師、老子は孔子の師である。
 これら4人の師を四聖と呼び、堯・舜ら天尊も頭をたれて敬い、すべての人々も手を合わせて尊敬した。
 これらの聖人が説いたものに、「三墳」「五典」「三史」など三千余巻の書物がある。しかし、その根本は「三玄」のいずれかである。
 三玄とは、1には「有の玄」であり、周公らがこれを立てた。2には「無の玄」であり、老子らが立てた。3には「亦有亦無」(あるいは有であり、あるいは無である)という説で、荘子の説く玄がこれである。玄とは黒色のことで、深遠さを意味する。
 これらの説で人間がこの世に生まれる以前はどう説いているかといえば、あるいは(有の玄では)元気(万物を育成する根源的な気)より生じたといい、あるいは(無の玄では)貴賎、苦楽、是非、得失などの現象はみな自ずからそうなったものであるなどといっている。
 このように巧みにその理論を立ててはいるが、まだ過去世・未来世については何も知らない。
 玄とは黒であり、幽かという意味であり、微妙であるがゆえに、玄といわれているのであるが、ただ現世のことだけを知っているにすぎないようである。
 現世において仁義等の道徳を制定し、これを実践することによって身を守り、国を安穏に治めることができる。もしこの仁義等の道に相違すれば一族一家をほろぼしてしまうなどと教えている。
 これらの賢人、聖人と仰がれている人々は、聖人であるとはいっても、過去世を知らないことは、あたかも凡夫が自分の背を見ることができないのと同じであり、未来世が分からないのは、目の不自由な人が目の前を見ることができないようなものである。
 ただ現世において、家をおさめ、孝行をつくし、かたく仁・義・礼・智・信の五常を行ずれば、周囲の人々はこの人を敬い、名声も国中に広まり、賢王もこの人を召し出して、あるいは臣下となし、あるいは師とたのみ、あるいは王位を譲り、諸天善神もやってきて守り仕えるというのである。
 いわゆる周の武王には五人の老師がきて仕え、後漢の光武帝には天の28宿が天下って28人の将軍となり、守り仕えたというのがこの例である。
 このように、儒教等の徳は高いといっても、過去世と未来世を知らないので、父母・主君・師匠が亡くなった後は助けることができず、結局は不知恩の者となる。したがって本当の賢人でも聖人でもない。
 孔子が「この中国に賢人・聖人はいない。西の方に仏図(仏陀)という者があり、その人が真の聖人である」といって、外典である儒教等を仏法へ入るための門としたのはこの意味である。
 すなわち儒教等においては礼儀や音楽などを教えて、後に仏教が伝来した時、戒・定・慧の三学を理解しやすくさせるためであった。王と臣下の区別を教えて尊卑を示し、父母を尊ぶべきことを教えて孝道を尽くすことの大切さを知らせ、師匠と弟子の立場を明らかにして、師に帰依することの重要性を教え知らせたのである。
 妙楽大師は『止観輔行伝弘決』に「仏教の流布・化導は実に儒教が先にひろまって人々を教化していたからである。儒教の礼楽が先に流布されて、真の道である仏法が後に弘通されたのである」と言っている。
 天台大師は『摩詞止観』に「『金光明経』には『一切世間のあらゆる善論はみなこの経によっているのである。もし深く世間の法を識れば、即ち仏法である』と説いている」と述べている。
 さらに、「釈尊は三人の聖人を遣わして中国の人々を教化した」とも言っている。
 この文について妙楽大師は『止観輔行伝弘決』で「清浄法行経に『月光菩薩はかの地に生まれて顔回と称し、光浄菩薩は、かの地で孔子と称し、迦葉菩薩は、かの地で老子と称した』と説かれる。インドからこの中国を指して、『かの地』・と言っているのである」と述べている。

 儒教は親孝行とか、君臣・師弟の道を説いているけど、過去・未来のことは全然知らない。
 「現在」だけに通用するモラルを説いているだけ。
 だから、人々を根本的に救うことができない。親孝行もできない。仏教の準備段階としての意味があった。