儒教・外道に対して釈尊はすごい。


第4段「内外相対して判ず」
 三には大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり況や見思枝葉のソ惑をや、此の仏陀は三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文一偈・妄語にあらず外典・外道の中の聖賢の言すらいうこと・あやまりなし事と心と相符へり況や仏陀は無量曠劫よりの不妄語の人・されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし、初成道の始より泥オンの夕にいたるまで説くところの所説・皆真実なり。
 第3に大覚世尊(釈尊)は一切衆生の偉大な導師・偉大な眼目・偉大な橋・偉大な舵取り・偉大な福徳の田等である。
 儒教の四聖(尹寿、務成、太公望、老子)や、外道の三仙(迦毘羅・ウ楼僧ギャ・勒裟婆)は、その名は聖人といっても、実際には見思惑・塵沙惑・無明惑という三惑のうち一つさえ断ち切っていない迷いの凡夫である。また、賢人といっても、実は因果の道理を知らないことは、まるで赤子のようなものである。
 そのような聖人、賢人を船と頼んで、この苦悩と迷いの生死の大海を渡ることができようか。彼らを橋として六道の悪路をこえることは難しい。
 それに対して、我が釈迦仏は、変易の生死(二乗や菩薩等の迷いの生死)を超えられた方である。まして分段の生死(六道を輪廻する凡夫の生死)を超えているのはもちろんである。
 生命に本来そなわっている元品の無明(=根本の迷い)をも断ち切られている。まして見惑・思惑など枝葉の迷いを断たれているのは言うまでもない。
 この釈迦仏は、30歳で成道されてから80歳で入滅されるまで、50年間に一代聖教を説かれた。その一字一句は皆真実の言葉であり、一文一偈として偽りの語はない。
 外典や外道のなかの聖人・賢人の言葉ですら、その言っていることに誤りはなく、事(言動)と心が相一致している。ましてや仏陀は無量曠劫というはるか遠い昔から、ウソ偽りの言葉を言われなかった方である。
 故に、その一代50余年の説教は、外典や外道に対すれば、すべて大乗であり、偉大な人(大人)の真実の言葉なのである。
 30歳での成道の初めから、釈尊最後の説法の時に至るまで、説くところの法は皆、真実なのである。

 因果を弁えない外道では、生死の大海も六道の巷も渡り超えることはできない。
 内道(仏法)に比べれば、それは「赤子」のようなもので、釈尊の説く法は「大人の実語」なのです。