爾前と法華経迹門の2つの欠点。


第16段「爾前・迹門の二失を顕す」
 華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、かうて・かへりみれば華厳経の台上十方・阿含経の小釈迦・方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は・此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを・諸宗の学者等・近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんと・をもひ或は縄を・つけて・つなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云。
 華厳経をはじめ般若経・大日経などの諸経は、二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を隠して説かなかった。
 これらの経典には、二つの欠点がある。
 一つには、「行布すなわち段階や差別を設ける考え方を残している故に、まだ方便の教えにとどまり、真実を明かしていない」と言われるように、迹門の一念三千を隠しているのである。
 二つには、「仏の成仏は始成正覚であると説くので、まだ仏の仮の姿を取り払っていない」と言われるように本門の久遠実成を隠しているのである。
 (迹門の一念三千と本門の久遠実成という)これらの二つの大法は、釈尊一代の教えの大綱・骨格であり、全経典の心髄である。
 迹門の方便品は、一念三千・二乗作仏を説いて、爾前経がもつ二種の欠点のうちの一つを脱れている。そうはいっても、まだ釈尊が発迹顕本していないので、真実の一念三千も顕れていないし、二乗作仏も定まっていない。
 それは、(天の月を求めて)水中の月を見ているようなものである。根なし草が波の上に浮かんでいるのに似ている。
 本門にいたって、始成正覚の教えを打ち破ったので、それまで説かれた四教の果は打ち破られてしまった。四教の果が打ち破られたので、(その果に至るための)四教の因も打ち破られた。
 爾前・迹門の十界の因果を打ち破って、本門の十界の因果を説き顕した。これが即ち本因本果の法門である。
 九界も無始の仏界に具わり、仏界も無始の九界に具わって、真の十界互具・百界千如・一念三千となる。
 こうして振り返ってみると、華厳経の台上の十方の諸仏、阿含経の小釈迦、方等部・般若部の金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏などは、この寿量品の仏という天月がしばらくその影を大小の器に浮かべたのにすぎない。
 ところが、諸宗の学者らは、近因としては自宗の邪義への迷いのために、遠因としては法華経の寿量品を知らないために、水中の月について、実の月のように想いこんで、あるいは水に入って取ろうと思い、あるいは縄をつけてつなぎとどめようとしているのである。
 このことを、天台大師は「天の本物の月を識らないで、ただ池に映った影の月を観じているだけである」と述べている。

 法華経本門が脱かれる前の爾前経と迹門には2つの欠点がある。
 まず、爾前経は、「二乗作仏」を脱いていないから十界の衆生に差別がある(行布を存する)。
 そして迹門は、始成正覚の立場(始成を言う)だから、久遠実成を隠している。

 本門寿量品において、釈尊が始成正覚を打ち破って久遠実成の本地を顕したこと(発迹顕本)によって、本門の十界の因果が顕された。
 つまり、仏の生命の無始常住が明かされたことで、九界(因)を離れて仏界(果)を得るのではなく、九界も仏界も、もともと生命に永遠に備わっていることが明らかになったのです。

 「行布を存する」とは、どういう意味か?
 「始成を言う」とは、どういう意味か?
 しっかり理解しましょう。