青年教学1級 開目抄第20段「末法法華経行者の所由」
真実を知っている。
それを言わなければ無間地獄、言えば三障四魔。
皆を救う為に不退転の誓願をした。
さてそこで、自分のことを振り返ってみると、片田舎の、身分の低い家に生まれ、しかも ビンボーである。
前世において、王様になったことも、法華経を修行したこともあったけど、悪縁にあって成仏はできなかった。
今世になって、法華経こそ成仏の法で、その他の念仏なんかは地獄の法であると主張しようかと思ったけど、そんなこと言い出したら、すごい迫害があるだろう。
かといって、言わないでいたら、人々が不幸になるのをむざむざ見過ごすようなもので無慈悲だ。
法華経などを読むと、言わないと地獄に落ちる、言えば三障四魔が競い起こると書いてある。
どうしたもんかなと考えているうちに、宝塔品の六難九易に思い当たった。
そして、今度こそ絶対に退転しないぞと誓った。(そして立教開宗した)
※六難九易……法華経の宝塔品で、釈尊が「滅後の弘教は、すごく難しいが、それでもがんばる人がいるか?そんな人がいたら、仏はとても喜ぶし、賛嘆するよ!」と言うために説いた「6つの難しいこと」(六難)と「9つのやさしいこと」(九易)。
「やさしいこと」は、たとえば、枯れ草を背負って炎の中に入っても焼けないとか、エベレストみたいな山を投げることなど。
「難しいこと」は、法華経を一句一偈でも説くなど。
つまり、仏の滅後(すなわち今)、折伏するのは、本当に本当に難しいこと。
それでも苦難に負けずに、広宜流布せよ!その人こそ真の仏の使いだ!と覚悟を決めさせる意味がある。
それを言わなければ無間地獄、言えば三障四魔。
皆を救う為に不退転の誓願をした。
第20段「末法法華経行者の所由」此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年・辺土に生をうけ其の上下賎・其の上貧道の身なり、輪回六趣の間・人天の大王と生れて万民をなびかす事・大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修しあがり一劫・二劫・無量劫を経て菩薩の行を立てすでに不退に入りぬべかりし時も・強盛の悪縁におとされて仏にもならず、しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか久遠五百の退転して今に来れるか、法華経を行ぜし程に世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者・法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者・千中無一等と・すかししものに無量生が間・恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道・外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。ここに、日蓮が考えるには、世はすでに末法の時代に入って200年余りが過ぎた。しかも日蓮は、日本の辺地に生を受け、そのうえ身分は低く、更に貧しい僧の身である。
これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ。
かつて、地獄から天界までの六道を輪廻している間に、あるいは人界・天界の大王と生まれて、大風が小さな木の枝を吹きゆるがすように多くの人々をなびかせたこともあったが、その時も仏になることはなかった。
大乗経や小乗経を修行して、一分の理解もない凡夫から少分の理解を得た凡夫へ、そして大菩薩へと修行の位をのぼり、一劫・二劫・無量劫という長い間の菩薩の修行を実践して、すでに不退転の境地に入ろうとしていた時も、強盛な悪縁によって退転させられてしまい、成仏できなかった。
このような日蓮は、三千塵点劫の昔に大通智勝仏の法華経に結縁しながら全く信じなかった第三類の者で釈尊在世の法華経の会座にももれた者なのであろうか。あるいは、五百塵点劫という久遠の昔に、法華経の下種を受けながら退転して、今ここに生まれ来たのであろうか。
(いずれにせよ)法華経を修行していくうちに、世間の悪縁、政治の権力者からの迫害、外道からの迫害、小乗経の人々からの迫害などは耐え忍んできたけれども、権大乗経・実大乗経を究めたように思われる道綽・善導・法然らのような、仏法を破壊する悪魔がその身に入った者が、法華経を強く褒めあげる一方で、衆生が仏法を理解し実践していく力(=機)は低いとし、(道綽が『安楽集』で言っているように)「法華経の法理は深いけれども、ほとんどの人は理解できない」と立て、「法華経を修行する人はいまだに一人も得道した人はいない」(未有一人得者)と述べ、(善導が『往生礼讃』で言っているように)「法華経は千人が修行しても一人も得道できない」(千中無一)などと言ってだましたのである。そのような者に、無量生の間、ガンジス川の砂粒のように数えきれないほどだまされて、法華経を捨てて権経に堕ちてしまった。
更に権経から小乗経に堕ち、更に外道・外典の教えに堕ちた。
そして結局は、悪道に堕ちてしまったのだということを深く知ったのである。
日本国でこのことを知っている者は、ただ日蓮一人である。
このことを一言でも言い出すならば、父母や兄弟、師匠、更に国の権力者による迫害が必ず起こってくるにちがいない。
しかし、言わなければ無慈悲と同じことになってしまう。
どうすべきかと考え、法華経や涅槃経などの文に、言うか、言わないか、の二つを照らし合わせてみた。
すると、言わないでおけば、今世では何ごともなくても、来世には必ず無間地獄に堕ちてしまう。もし、言うならば、三障四魔が必ず競い起こってくる、ということが分かった。
この二つの中では「言う」ほうを選ぶべきである。
しかしながら、国の権力者による迫害などが起こってきた時に退転してしまうようであるなら、はじめから思いとどまるのがよいだろうと、しばらく思いめぐらしていたのであるが、その時に思い当たったのが法華経見宝塔品の六難九易であった。
「私たちのような力がない者が須弥山を投げることができても、私たちのような神通力がない者が枯れ草を背負って、燃え盛る火の中で焼けないことがあっても、私たちのような無智の者が、ガンジス川の砂のように、数え切れないほど多くの経典を読み覚えることができたとしても、法華経の一句一偈すら末法の世で持つことは難しい」と説かれているのが、まさにこれである。
このたびこそ、仏の悟りを得ようとの強盛な求道心を起こして、決して退転しない、との誓いを立てたのである。
さてそこで、自分のことを振り返ってみると、片田舎の、身分の低い家に生まれ、しかも ビンボーである。
前世において、王様になったことも、法華経を修行したこともあったけど、悪縁にあって成仏はできなかった。
今世になって、法華経こそ成仏の法で、その他の念仏なんかは地獄の法であると主張しようかと思ったけど、そんなこと言い出したら、すごい迫害があるだろう。
かといって、言わないでいたら、人々が不幸になるのをむざむざ見過ごすようなもので無慈悲だ。
法華経などを読むと、言わないと地獄に落ちる、言えば三障四魔が競い起こると書いてある。
どうしたもんかなと考えているうちに、宝塔品の六難九易に思い当たった。
そして、今度こそ絶対に退転しないぞと誓った。(そして立教開宗した)
※六難九易……法華経の宝塔品で、釈尊が「滅後の弘教は、すごく難しいが、それでもがんばる人がいるか?そんな人がいたら、仏はとても喜ぶし、賛嘆するよ!」と言うために説いた「6つの難しいこと」(六難)と「9つのやさしいこと」(九易)。
「やさしいこと」は、たとえば、枯れ草を背負って炎の中に入っても焼けないとか、エベレストみたいな山を投げることなど。
「難しいこと」は、法華経を一句一偈でも説くなど。
つまり、仏の滅後(すなわち今)、折伏するのは、本当に本当に難しいこと。
それでも苦難に負けずに、広宜流布せよ!その人こそ真の仏の使いだ!と覚悟を決めさせる意味がある。