法華経に書いてる通りの難に遭っている。


第21段「略して法華経行者なるを釈す」
 既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし。
 法華経の第四に云く「而も此経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎憎嫉して結恨を懐かん」等云云、第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、又云く「諸の無智の人の悪口罵詈する有らん」等、又云く「国王・大臣・婆羅門・居士に向つて誹謗し我が悪を説いて是れ邪見の人なりと謂わん」と、又云く「数数擯出見れん」等云云、又云く「杖木瓦石もて之を打擲せん」等云云、涅槃経に云く「爾の時に多く無量の外道有つて和合して共に摩訶陀の王・阿闍世の所に往き、今は唯一の大悪人有り瞿曇沙門なり、一切世間の悪人利養の為の故に其の所に往集して眷属と為つて能く善を修せず、呪術の力の故に迦葉及び舎利弗・目ケン連を調伏す」等云云、天台云く「何に況や未来をや理化し難きに在るなり」等云云、妙楽云く「障り未だ除かざる者を怨と為し聞くことを喜ばざる者を嫉と名く」等云云、南三・北七の十師・漢土無量の学者・天台を怨敵とす、得一云く「咄かな智公・汝は是れ誰が弟子ぞ三寸に足らざる舌根を以て覆面舌の所説を謗ずる」等云云、東春に云く「問う在世の時許多の怨嫉あり仏滅度の後此経を説く時・何が故ぞ亦留難多きや、答えて云く俗に良薬口に苦しと云うが如く此経は五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ、故に凡を斥け聖を呵し大を排い小を破り天魔を銘じて毒虫と為し外道を説いて悪鬼と為し執小を貶して貧賎と為し菩薩を挫きて新学と為す、故に天魔は聞くを悪み外道は耳に逆い二乗は驚怪し菩薩は怯行す、此くの如きの徒悉く留難を為す多怨嫉の言豈唐しからんや」等云云、顕戒論に云く「僧統奏して曰く西夏に鬼弁婆羅門有り東土に巧言を吐く禿頭沙門あり、此れ乃ち物類冥召して世間を誑惑す」等云云、論じて曰く「昔斉朝の光統に聞き今は本朝の六統に見る、実なるかな法華に何況するをや」等云云、秀句に云く「代を語れば則ち像の終り末の始め地を尋ぬれば則ち唐の東羯の西・人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉・況滅度後・此の言良に以有るなり」等云云、夫れ小児に灸治を加れば必ず母をあだむ重病の者に良薬をあたうれば定んで口に苦しとうれう、在世猶をしかり乃至像末辺土をや、山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし、像法の中には天台一人法華経・一切経をよめり、南北これをあだみしかども陳隋・二代の聖主・眼前に是非を明めしかば敵ついに尽きぬ、像の末に伝教一人・法華経一切経を仏説のごとく読み給へり、南都・七大寺蜂起せしかども桓武・乃至嵯峨等の賢主・我と明らめ給いしかば又事なし、今末法の始め二百余年なり況滅度後のしるしに闘諍の序となるべきゆへに非理を前として濁世のしるしに召し合せられずして流罪乃至寿にも・をよばんと・するなり。
 (建長5年に立宗宣言して以来)すでに20年余りの間、この法華経の法門を申してきたが、日々、月々、年々に難が重なっている。
 少々の難は数知らず、大きな難が4度あった。そのうち2度は、しばらくおいておく。国の権力者による迫害はすでに2度に及んでいる。
 特にこのたびの迫害は、私の命に及ぶものであった。
 そのうえ、弟子といい、檀那といい、わずかに法門を聞いただけの在家の人などまで、重い罪に処せられた。まるで謀反などを起した者のようであった。
 法華経第4巻の法師品には「しかも、この法華経を弘める人に対しては、釈尊の在世ですら、怨みやねたみを懐く者が多い。まして、釈尊の滅後、末法においてはなおさら迫害があるであろう」とある。
 第2巻の譬喩品には「法華経を読誦し、書写して受持しようとする者を人々が見て、軽んじ、卑しみ、憎み、ねたんで、うらみを抱くであろう」とある。
 第5巻の安楽行品には「法華経を弘めていこうとするなら、世間の一切の人々が、かたきのように思い迫害するので、信じぬくことは難しい」とある。
 また同じく第5巻の勧持品には「仏法に無智な多くの人が悪口をいい、ののしるであろう」とある。
 また同品には「(正法の行者を憎む悪僧たちは)国王や大臣、婆羅門や居士に向かって、法華経の行者を誹誇してその悪行・悪見を説き聞かせて、この者は邪見をいだいている者だ、と訴えるであろう」とある。
 また同品には「法華経の行者はしばしば住所を追われるだろう」とある。
 更にまた不軽品に「杖、木、瓦、石をもって、法華経の行者を打ちたたこうとするだろう」とある。
 涅槃経には「その時に、数え切れないほど、たくさんの外道の者がいて、結束して、摩訶陀国の王・阿闍世のもとに行き、”今、ただ一人の大悪人がいる。それは瞿曇沙門(釈尊)である。一切の世間の悪人が利を貧るために瞿曇沙門(釈尊)のもとに集まって仲間となって、善を修行しない。また、呪術の力で、迦葉や舎利弗や目連らを取り込み従わせている”と訴えた」とある。
 天台大師は『法華文句』の中で、法師品の文を解釈して「『釈尊在世ですら迫害があるのだから、まして未来はいうまでもない』と説かれているその意味は、滅後の未来は化導が難しいということである」と述べている。
 妙楽大師は『法華文句記』で、怨嫉について「求道を妨げるものがまだ取り除かれていないのを『怨』といい、正法を聞くことを喜ばないのを『嫉』というのである」と述べている。
 中国の南三北七の10派の師や、中国全土の無数の学者が、天台大師を怨敵として憎んだのである。
 日本でも、法相宗の僧・得一が「つたないかな智公(天台大師智ギ)よ。汝はいったいだれの弟子か・三寸にも足りない舌をもって、顔を覆うような広く長い舌で真実を自在に説いた仏の教えを謗っているとは」と非難した。
 (このように法華経の行者に迫害があることについて)天台大師の『法華文句』等を釈した智度法師の『東春』には、こう記している。
 「問う、釈尊在世の時にも多くの怨嫉・迫害があった。仏の滅度の後、この法華経を説く時にも難が多いのはなぜか。
 答えていうには、俗に『良薬、口に苦し』というように、この法華経は五乗へのこだわりを打破して、唯一究極の教えである妙法を立て、成仏することを説いているのである。
 それゆえに、六道の凡夫をしりぞけ、二乗以上の聖位のものを叱り、権大乗経を排斥し、小乗経を破折して、天魔を毒虫と言い切り、外道を悪鬼である。と断言し、小乗経に執着している二乗を心貧しくいやしいものとし、権大乗経の菩薩を責めて未熟な初心者にすぎないとするのである。
 そのため、天魔はこの法を聞くのを憎み、外道は反発し、二乗は驚きあやしみ、菩薩はおびえてしまう。
 これらの者たちすべてが法華経の行者に難を加えてくるのである。『怨嫉する者が多い』という経文の言葉が、どうして虚妄と言えるであろうか」と。
 伝教大師の『顕戒論』にはこうある。
 「奈良の僧たちを取り締まる僧統が天皇に上奏して言うには『西北インドに鬼弁婆羅門と呼ばれる論弁をもてあそぶ者がいた。東土の日本には巧みな言説を弄する僧まがいのものがいる。これらの同類の者がひそかに意を通じ合って世間の人々をたぶらかし惑わしている』と。
 この讒言に伝教が反論して言うには、『昔、中国の斉の時代に光統らが達磨に反対したという話があるが、今、日本国には南都六宗の輩が伝教を批判するのを見る。法華経に”いわんや仏の滅後には法華経の行者は更に迫害される”と説いているのは、実に本当のことである』と」
 また伝教大師の『法華秀句』には「法華経の大白法が広まる時代について語れば、それは像法の末、末法のはじめであり、その地を尋ねれば唐の東、羯の西であり、その人々について探り求めてみると、五濁の中で生まれた人々であり、正法が見失われて争いが盛んな時である。
 法華経には『釈尊の在世ですらなお怨嫉する者が多い。まして滅後にはもっと甚だしい』とある。この言葉は、実に理由のあることである」とある。
 そもそも小さな子どもに灸の治療を行うと、必ず母を憎む。重病の者に良薬を与えると、きっと口に苦いといやがる。
 これと同じく、釈尊の在世でさえ、人々は法華経に対して怨嫉が多かった。
 ましてや像法・末法、更に日本のような辺地においては、なおさらである。
 山の上に山を積み重ね、波の上に波を重ねるように、難に難を加え、非に非を増すであろう。
 像法時代の中では、天台大師ただ一人が法華経、一切経を正しく読んだ。
 南北の諸派がこれを憎んだけれども、陳の宣帝と隋の楊帝という2王朝の優れた王が直接、教えの是非を明らかにしたので、敵はついにいなくなった。
 像法時代の終わりには、伝教大師ただ一人が法華経、一切経を仏の教えの通りに読まれた。
 これに反発して奈良の7大寺が蜂起したが、桓武天皇から嵯峨天皇までの賢明な君主が自ら正邪を明らかにしたので、伝教大師の場合も事なきを得た。
 今、末法のはじめ200年余りである。「況滅度後」の世の前兆であり、闘諍の世の始まりであるがゆえに、理不尽なことがまかり通り、濁った世である証拠に、日蓮には正邪を決する場も与えられず、むしろ流罪になり、命まで奪われようとしている。

 立宗宣言以来、これまで20年あまりたったが、難に次ぐ難の連続だった。
 そのうち、大きな難は4回。
 その中でも権力による迫害は2回(伊豆流罪と佐渡流罪)法華経や天台・伝教らの言ったとおりの難に遭っている。

 二度の王難……伊豆・佐渡の二度の流罪のこと。