日蓮大聖人こそ法華経を身で読んでいる。


第22段「経文に符合するを明かす」
 されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし、定んで天の御計いにもあづかるべしと存ずれども一分のしるしもなし、いよいよ重科に沈む、還つて此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか、又諸天・善神等の此の国をすてて去り給えるか・かたがた疑はし、而るに法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は・邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中・乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等・日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり、例せば世尊が付法蔵経に記して云く「我が滅後・一百年に阿育大王という王あるべし」摩耶経に云く「我が滅後・六百年に竜樹菩薩という人・南天竺に出ずべし」大悲経に云く「我が滅後・六十年に末田地という者・地を竜宮につくべし」此れ等皆仏記のごとくなりき、しからずば誰か仏教を信受すべき、而るに仏・恐怖悪世・然後末世・末法滅時・後五百歳なんど正妙の二本に正しく時を定め給う、当世・法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん、南三・北七・七大寺等・猶像法の法華経の敵の内・何に況や当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや、経文に我が身・普合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし、此れも又かくのごとし当時の責はたうべくも・なけれども未来の悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり。
 そうである(法華経を末法に弘通して前代未聞の難にあっている)から、日蓮が法華経の法理を理解する智慧は天台大師や伝教大師には千万分の一にも及ばないけれども、難に耐え、慈悲が優れていることについては、誰もが恐れさえ抱くであろう。
 きっと諸天善神の配慮にもあずかるだろうと思うのであるが、少しの兆候もない。いよいよ重罪に陥れられている。ひるがえって、このことを考えてみると、我が身が法華経の行者ではないということなのか。また、諸天善神らがこの国を捨てて去ってしまっているということなのか。さまざまに疑わしいことである。
 しかしながら法華経の第5巻の勧持品の二十行の偈は、日蓮がこの国に生まれなければ、ほとんど釈尊は大嘘つきの人となってしまうのであり、80万億那由他の菩薩たちは提婆達多と同じ嘘つきの罪に堕ちてしまうにちがいない。
 法華経には「仏法に無知な多くの人がいて、法華経の行者に対して、悪口し罵倒し、刀や杖や瓦や石で攻撃してくる」(勧持品の二十行の偈のうち、俗衆増上慢の箇所)とある。今の世の中を見てみると、日蓮以外の諸僧の誰が、法華経のことで多くの人たちに悪口をいわれ罵倒され刀や杖などで攻撃されているだろうか。日蓮がいなければこの一偈に示された未来の予言はウソになってしまったところである。
 「悪世の中の比丘は邪智で心は諂い曲がっている」(同、道門増上慢の箇所)とある。また「在家の人の歓心を買うために法を説いて、世間で尊敬されているさまは六つの神通力を得た阿羅漢のようである」(同、僧聖増上慢の箇所)とある。これらの経文は、今の世の念仏者や禅宗・律宗などの法師がいなければ、釈尊はまた大嘘つきである。
 さらに「常に人々の中にいて(中略)国王、大臣、婆羅門、居士などに対して(法華経の行者の悪口をいう)」(同)等とある。今の世の僧らが日蓮のことを讒言して流罪に陥れていなければ、この経文も空しいものとなっていた。
 また「数数所を追われる」等とある。日蓮が法華経のゆえに度々、流されていなかったら、この「数数」という2字はどう考えればいいのだろう。
 この2字は、天台・伝教ですらまだ身で読んでいない。まして他の人はいうまでもない。今が末法の始めである証拠として、「恐ろしい悪世の中で」という仏の言葉が的中しているからこそ、ただ日蓮一人だけがこの経文を身で読んだのである。
 例を挙げれば、釈尊が付法蔵経に記していうには「私の滅後、100年たった時に、阿育大王という王が出現するだろう」と。また摩耶経には「私の滅後、600年には、竜樹菩薩という人が、南インドに生まれるだろう」と。大悲経には「私の滅後60年には末田提という者が、その土地に竜王の伽藍を築くであろう」と。これらはすべて皆、仏が予言したとおりに実現した。そうでなければ、誰が仏教を信受したであろうか。
 そして、仏は、「恐ろしい悪世」(勧持品)、「しかるに後の末の世」(正法華経)、「末の法滅の時」(安楽行品)、「後の五百年」(薬王品)などと説き、正法華経・妙法蓮華経の二つの漢訳本のどちらをみても、明確に時を定められている。
 (その末法である)今の世に法華経に説かれた三類の強敵がなければ、誰が仏説を信受するだろうか。日蓮がいなければ誰を(仏がその出現を予言した)法華経の行者であると定めて、仏の言葉が真実であると証明し助けることができようか。
 中国の南三北七の僧や奈良の7大寺の僧でさえも、(それぞれ天台や伝教に敵対したゆえに)像法の法華経の敵に含まれる。まして、(末法の法華経の行者を迫害している)当世の禅・律・念仏の徒らは法華経の敵と呼ばれるのを免れることはできない。
 経文の予言に、我が身が符合している。それ故、幕府から迫害を受ければ、いよいよ喜びが増してくる。たとえば、小乗経の菩薩でまだ煩悩を断じ切っていない者が願兼於業といって、つくりたくない罪であるけれども、父母らが地獄に堕ちて大苦を受けているのを見て、決まった形式の通り同じ業をつくって自ら願って地獄に堕ちて苦しみ、父母たちの苦しみに代われることを喜びとするようなものである。
 日蓮もまたこれと同じである。今現在の責めは耐えがたいほどの苦であるが、来世に悪道に堕ちることを免れることができるであろうと思えば、喜びである。

 日蓮は、法華経を理解する智慧が天台・伝教に及ばないとしても、難に耐え、慈悲がすぐれていることは、恐れさえ抱くであろう。
 それなのに諸天の加護がないのは、どうしたわけだ。
 法華経の勧持品には三類の強敵が説かれている。
 日蓮がいなければ、釈尊は大うそつきになってしまったであろう。
 『法華経の行者は、しばしば所を追われる」と書いてある。
 私は法華経のゆえに、たびたび流された。
 私がいなければ、この法華経の「しばしば(数数)』の文字は、どうなったのか。

 ※三類の強敵…第38、40、41段で詳しく。