それでも信じられない。


第23段「疑いを挙げて法華経の行者なるを釈す」
 但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし
 ただし世間の疑いとして、また自身の心から生まれる疑いとして、日蓮が法華経の行者であるなら、どうして諸天善神はこれを助けないのか。諸天らの守護神は、仏の御前での誓いがある。
 法華経の行者に対しては、たとえ猿であったとしても法華経の行者というならば、早々に仏前での誓いを成就しようと思われるべきであるのに、その義がないのは、我が身が法華経の行者ではないからであろうか。
 この疑いは、この書(開目抄)の肝心かなめであり、日蓮の一生の大事であるから、繰り返しこれを書き、疑いを強くし、その上で答えを示そう。

 この段が開目抄のテーマ。
 それにしても、諸天が日蓮を守護しないのはどういうわけだ、と疑っている人もいる。
 諸天善神は、猿になっても法華経の行者を守護すると誓ったはず。
 この疑いは、この書の肝心であり、私の一生の大事であるから、繰り返しこれを書き疑いを強くし、その上で答えを示そう。

 このように開目抄は、疑惑や疑問を重ねられて徹底的な理解が得られるように書かれている。

 <第24段以降は、二乗や菩薩たちは法華経のおかげで成仏できたんだから、法華経には深い恩があり、法華経の行者を守護すべきであることが記される。
 とくに次の31段以降は、菩薩が法華経に恩があることを言う>