疑いの結論を書き、自身の身にあててみる。


第34段「菩薩等守護無き疑いを結す」
 されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なり給へり、釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由を・をし計るに華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等・守護し給らん疑あるべからず、但し大日経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし、例せば孝子・慈父の王敵となれば父をすてて王にまいる孝の至りなり、仏法も又かくのごとし、法華経の諸仏・菩薩・十羅刹・日蓮を守護し給う上・浄土宗の六方の諸仏・二十五の菩薩・真言宗の千二百等・七宗の諸尊・守護の善神・日蓮を守護し給うべし、例せば七宗の守護神・伝教大師をまほり給いしが如しと・をもう、日蓮案じて云く法華経の二処・三会の座にましましし、日月等の諸天は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく須臾に来つて行者に代り仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候にいままで日蓮をとぶらひ給はぬは日蓮・法華経の行者にあらざるか、されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし。
 以上のことから、諸経に説かれている諸仏や菩薩や人界・天界などの衆生は、それぞれの経において仏に成ったようであるが、実際には法華経によって真の悟りを得たのである。
 釈迦仏や諸仏が立てた、すべての衆生を苦しみから救おうとする誓願は、すべて法華経において成就したのである。法華経方便品の「今、ついに満足した」との経文はこのことである。
 私がこうしたいきさつから考えると、華厳経や観無量寿経や大日経などを読み修行する人を、それぞれの経に説かれている仏や菩薩や諸天などが守護することは疑いない。ただし、大日経や観無量寿経などを読む行者が、法華経の行者に敵対したならば、仏菩薩たちはそれらの行者を捨てて法華経の行者を守護するはずである。例えば孝行な子は、慈父が王の敵となった場合に、その父を捨てて王につくのである。それが本当の孝である。仏法もまた同じである。
 法華経で説かれている諸仏や菩薩や十羅刹女が日蓮を守護するうえ、浄土宗の六方(東西南北と上下)の諸仏や二十五の菩薩、真言宗の千二百あまりの仏・菩薩、七宗のすべての仏・菩薩や守護の善神が日蓮を守護するはずである。例を挙げれば、かつて七宗(南都六宗と真言宗)の守護神が伝教大師を守ったのと同様であると、このように考えるのである。
 日蓮はこう思う。法華経の二処三会の場にいた日天・月天などの諸天は、法華経の行者が現れたならば、磁石が鉄を吸い寄せるように、月が水面に身を移すように、すぐにやって来て、行者に代わって難を受け、守護する。という仏前での誓いを果たすはずであると思っていたが、今まで日蓮を訪ねてこないのは、日蓮は法華経の行者ではないということか。それならば、重ねて経文を検討して我が身に引き当てて、自身の誤りを知ろうと思う。

 法華経の行者に、仏菩薩の守護があるのは間違いない。
 では、なぜ日蓮を守らないのか?
 日蓮は法華経の行者ではないからか?
 日蓮自身の誤りで、守護がないのか検証してみる。