悪人成仏と女人成仏を説く法華経が孝経。


第37段「二箇の諌暁を引き一代成仏不成仏を判ず」
 宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諌暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり、善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり、竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし、儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何に況や父母をや但文のみあつて義なし、今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり、二箇のいさめ了んぬ。
 宝塔品の三箇の勅宣に加えて、提婆達多品において、(悪人成仏・女人成仏の)二箇の諌暁がある。
 提婆達多は一闡提の者であった。しかし、法華経において、未来に天王如来となる記別を与えられた。
 涅槃経40巻には、一切衆生に仏性があると説き、一闡提の成仏の理を一応明かしているが、その現証は提婆品にあるのである。
 善星比丘や阿闍世王ら、無数の五逆罪を犯した者や、謗法の者の中から、一つの例を取り上げ、頭を挙げて、他のすべてをそこに収め、枝葉をしたがえたものである。
 すなわち、一切の、五逆罪・七逆罪を犯した者や、謗法の者、一闡提の成仏が、提婆達多が天王如来の記別を与えられたことによって、明確になったのである。
 これは、毒薬が変じて甘露(不死の妙薬)となることであり、それはあらゆる味にすぐれているのである。
 また、竜女の成仏も竜女一人だけの成仏ではなく、一切の女人が成仏することを示している。法華経以前の諸の小乗教では、女人の成仏は許していない。
 諸の大乗経には、女人の成仏・往生を許しているように見えるが、あるいは、女人は身を改めて男となって成仏できるという改転の成仏であって、一念三千の成仏、すなわち即身成仏ではないので、有名無実の成仏・往生である。「一つを挙げてすべてに通じる例とする」といって、竜女の成仏は、末法の女人の成仏往生の道を踏み開けたのである。
 儒教で説く孝養は、ただ今世に限られている。父母の未来を救わないのだから、儒教などで言われる聖人・賢人は、有名無実である。
 インドの外道は、過去世・未来世を知っているが、父母を助ける方法は説かれていない。仏道こそ、父母の来世を助けることができるので、真実の聖賢の名があるのである。
 しかし、法華経以前に説かれた大乗・小乗の経々を立てる宗派は、自分自身の成仏さえ叶えられない。
 まして、父母については、なおさらである。成仏といっても、ただその言葉があるだけで、内実はないのである。
 今、法華経の時に至って、女人が成仏した時、すべての悲母の成仏の道も明らかとなり、悪人の提婆達多が成仏した時、すべての慈父の成仏も実証されたのである。ゆえに、この法華経こそ仏教典内の孝経ともいうべきである。
 以上で、二箇の諌暁は終わる。

 宝塔品の三箇の勅宣に加えて、提婆品の二箇の諌暁がある。
 「二箇の諌暁」とは、「悪人成仏」と「女人成仏」のこと。

 これによって、一切の父と母の成仏が確実になった。
 父母を救える法華経こそ、孝行の教えである。