俗衆とは? 道門とは?


第40段「別して俗衆・道門を明かす」
 第一の有諸無智人と云うは経文の第二の悪世中比丘と第三の納衣の比丘の大檀那と見へたり、随つて妙楽大師は「俗衆」等云云、東春に云く「公処に向う」等云云、第二の法華経の怨敵は経に云く「悪世中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」等云云、涅槃経に云く「是の時に当に諸の悪比丘有るべし乃至是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん」等云云、止観に云く「若し信無きは高く聖境に推して己が智分に非ずとす、若し智無きは増上慢を起し己れ仏に均しと謂う」等云云、道綽禅師が云く「二に理深解微なるに由る」等云云、法然云く「諸行は機に非ず時を失う」等云云、記の十に云く「恐くは人謬り解せん者初心の功徳の大なることを識らずして功を上位に推り此の初心を蔑にせん故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」等云云、伝教大師云く「正像稍過ぎ已て末法太はだ近きに有り法華一乗の機今正しく是其の時なり何を以て知ることを得る安楽行品に云く末世法滅の時なり」等云云、慧心の云く「日本一州円機純一なり」等云云、道綽と伝教と法然と慧心といづれ此を信ずべしや、彼は一切経に証文なし此れは正しく法華経によれり、其の上日本国・一同に叡山の大師は受戒の師なり何ぞ天魔のつける法然に心をよせ我が剃頭の師をなげすつるや、法然智者ならば何ぞ此の釈を選択に載せて和会せざる人の理をかくせる者なり、第二の悪世中比丘と指さるるは法然等の無戒・邪見の者なり、涅槃経に云く「我れ等悉く邪見の人と名く」等云云、妙楽云く「自ら三教を指して皆邪見と名く」等云云、止観に云く「大経に云く此よりの前は我等皆邪見の人と名くるなり、邪豈悪に非ずや」等云云、弘決に云く「邪は即ち是れ悪なり是の故に当に知るべし唯円を善と為す、復二意有り、一には順を以つて善と為し背を以つて悪と為す相待の意なり、著を以つて悪と為し達を以つて善と為す相待・絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり況や復余をや」等云云、外道の善悪は小乗経に対すれば皆悪道小乗の善道・乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪・但法華のみ正善なり、爾前の円は相待妙なり、絶待妙に対すれば猶悪なり前三教に摂すれば猶悪道なり、爾前のごとく彼の経の極理を行ずる猶悪道なり、況や観経等の猶華厳・般若経等に及ばざる小法を本として法華経を観経に取り入れて還つて念仏に対して閣抛閉捨せるは法然並びに所化の弟子等・檀那等は誹謗正法の者にあらずや、釈迦・多宝・十方の諸仏は法をして久しく住せしめんが故に此に来至し給えり、法然並に日本国の念仏者等は法華経は末法に念仏より前に滅尽すべしと豈三聖の怨敵にあらずや。
 三類の強敵のうち、第一類の「諸の無智の人有って」というのは、経文の第二類の「悪世の中の比丘」と第三類の「納衣の比丘」に帰依している大檀那たちであるといえる。
 したがって、妙楽大師はこの第一類を「俗衆増上慢」と言っている。
 また、智度法師は『東春』に、「公の立場の人(国王・大臣らの権力者)に向かって」等と言っている。
 法華経の怨敵の第二類は、経文に「悪世の中の僧は、よこしまな智慧にたけて、心が曲がってこびへつらい、いまだ何も分かっていないのに悟りを得たと思い、慢心が充満している」等とある。
 これについて涅槃経には、「この時に諸の悪い僧があるであろう。そして、この諸の悪人は、このような大乗経典を読誦していながら、如来が説こうとする深い真意を滅除する」等と説かれている。
 『摩訶止観』には、「もし法華経に対して信心のない者は、法華経は聖者が修行する高い教えで、自分のような智慧のない者には用はないという。
 また、もし真実の智慧のない者は増上慢を起こして、自分は仏に等しいと思う」等とある。
 道綽禅師は、浄土以外の教えである聖道門を捨てよと主張し、その理由として、「第二に、理が深くてほとんどの人には理解できない」(『安楽集』)と言っている。
 法然は、「念仏以外の諸の修行は衆生の機根に合わず、時代に適っていない」(『選択集』)と言っている。
 妙楽は『法華文句記』巻10に、「おそらく法華経を誤って理解する者は、初心の功徳が大きいことを知らないで、その功徳を上位の聖者が受けるものと考え、初心の功徳をないがしろにするだろう。
 だから今、初心の修行は浅くとも、その功徳が深いことを示し、法華経の功徳力を顕すのである」と言っている。
 伝教大師は、「正法・像法時代はもう少しで過ぎ終わり、末法がはなはだ近くにきている。一仏乗の法華経によって、一切衆生が即身成仏するのは、今まさしくこの時である。
 どうしてそれを知ることができるのかといえば、安楽行品に『末世において法が減する時に』とあるからである」(『守護国界章』)と言っている。
 慧心は「日本国中は、円教である法華経によって修行すべき機根のみである」(『一乗要決』)と言っている。
 道綽と伝教、また法然と慧心とは、反対のことを言っているが、どちらを信ずるべきであろうか。
 道綽と法然の主張は、一切経に証文がない。伝教と慧心の主張は、まさしく法華経に依っている。
 そのうえ、日本国一同にとって、比叡山の伝教大師こそ受戒の師である。
 どうして天魔のついた法然に心をよせ、自分にとって出家・剃髪の師である伝教を捨てるのであろうか。
 法然が智者であるなら、なぜ天台や妙楽、伝教や慧心らの解釈を、『選択集』にのせて、筋道を立てて道理を明らかにしなかったのであろうか。
 それをしなかった法然の主張は、人の道理を隠すものである。
 したがって、経文に第二類の「悪世の中の比丘」と指されているのは、法然ら無戒・邪見の者のことである。
 涅槃経に、「法華経以前の教えに執する人を我々はことごとく邪見の人と名づける」等とある。
 妙楽は「自ら法華経以前の蔵・通・別の三教を指して、皆邪見と名づけている」(『法華玄義釈籤』)と言っている。
 天台の『摩訶止観』には、「涅槃経に、『これより以前は、我々は皆、邪見の人と名づける』とある。「邪とはすなわち悪ではないか」等とある。
 妙楽の『止観輔行伝弘決』には、「邪はすなわちこれ悪のことである。このゆえに、ただ円教を善となすことを知るべきである。
 これには二つの意味がある。一には円教に順うを善となし、円教に背くを悪となす。これは円教と他の三教を比較相対して勝劣を判ずる相待妙のうえからの善悪の意味である。
 二には、三教が円教に含まれるからといって三教のどれかに執着するのを悪となし、執着せずに円教に達するのを善となす。これは絶待妙のうえからの善悪の意味である。このように、相待・絶待、いずれの意味でも悪をはなれるべきである。
 円に執着することでさえ、なお悪である。まして、その他のものに執着することはなおさらである」とある。
 外道の善道・悪道は、小乗経に対すれば、ともにみな悪道であり、小乗経の善道をはじめとする爾前の四味三教は、法華経に対すれば皆邪悪であり、ただ法華経のみ正善である。
 爾前経に説かれた円教は相待妙である。絶待妙に対すれば、これすら悪である。
 また爾前の円教を蔵・通・別の三教のどれかに位置づければ、さらに悪となる。
 まして観無量寿経など、華厳経や般若経などにも及ばない小法をもととして、法華経をこの観無量寿経に取り入れて、かえって念仏と対比して法華経を閣き、抛ち、閉ざし、捨てよと唱えたのであるから、法然並びにその化導を受けた弟子たち、檀那たちは「誹誇正法の者」ではないか。
 釈迦・多宝・十方の諸仏は、法華経を永久に存続させるために法華経の会座に来られたのである。
 しかし、法然並びに日本国の念仏者たちは、「法華経は末法には念仏より先に滅ぶであろう」といっている。
 これこそ釈迦・多宝・十方分身の諸仏の怨敵ではないか。

 俗衆増上慢と道門増上慢を詳しく解説している。

 「俗衆」とは、道門と僧聖増上慢に帰依している一般の人々のこと。
 「道門」とは法然や道綽など、法華経を捨てて念仏を唱えよなどといっている坊主たちのこと。

 「公処に向う」…第三の僣聖増上慢が「公処」すなわち権力に取り入って、それを動かす姿を述べたもの。