諸天の加護なんていらない!3つの誓い。


第45段「法華経の行者を顕す文を結す」
 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。
 結局のところは、天も私を捨てるがよい。いかなる難にもあおう。身命をなげうつ覚悟である。
 舎利弗が過去世に60劫という長い間、修行してきた菩薩行を途中で退転したのは、舎利弗の眼を求めた婆羅門の責め苦に堪えられなかったからである。
 久遠五百塵点劫、および三千塵点劫の昔に、法華経の下種を受けながら、退転して悪道に堕ち、五百塵点劫や三千塵点劫を経たのは悪知識にあって惑されたからである。
 善につけ悪につけ、法華経を捨てることは地獄に堕ちる業となる。
 「私は、大願を立てよう。たとえ、『日本国の王の位を譲るから、法華経を捨てて観無量寿経等に付き従って、後生の浄土への往生を目指せ』と誘惑されたり、『念仏を称えなければ父母の首をはねる』と脅されるなどの種々の大難が出てきても、私の正義が智者に破られることがない限り、彼らの要求を決して受け入れることはない。
 それ以外の大難は、私にとっては風の前の塵のような、とるに足りないものである。
 私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」等と誓った大願は、決して破ることはない。

 この段は、殆どが重文ですので、暗記しましょう。
 諸天の加護は大聖人にとって、重要ではないのです。
 退転することの恐ろしさを仰せになっている。
 「王位を譲ろう」との誘惑や「父母の首を刎ねる」との脅迫にも従わない不退転の覚悟を述べられる。

 また、「我日本の柱とならむ」「我日本の眼目とならむ」「我日本の大船とならむ」の3つの誓願をどんな事があっても破ることはないと仰せになっている。

 「柱」は主徳、「眼目」は師徳、「大船」は親徳に当たる。
 この一切衆生救済の大願の主師親の三徳は、法華経の行者であることの根本条件です。