青年教学1級 開目抄第47段「不求自得の大利益」
諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし。
涅槃経に説かれる「貧女のたとえ」を通して、どれほどの苦難があっても、信心を貫いていけば、自ら求めてもいないのに、想像以上の境涯──すなわち仏界を得ることができることを述べている。
第47段「不求自得の大利益」涅槃経に曰く「譬えば貧女の如し居家救護の者有ること無く加うるに復病苦飢渇に逼められて遊行乞丐す、他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐して去らしむ、其の産して未だ久しからず是の児をケイ抱して他国に至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫毒虫のスい食う所となる、恒河に逕由し児を抱いて渡る其の水漂疾なれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず、文殊師利若し善男子有つて正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ、善男子護法の菩薩も亦是くの如くなるべし、寧ろ身命を捨てよ是くの如きの人解脱を求めずと雖も解脱自ら至ること彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」等云云、此の経文は章安大師・三障をもつて釈し給へり、それをみるべし、貧人とは法財のなきなり女人とは一分の慈ある者なり、客舎とは穢土なり一子とは法華経の信心・了因の子なり舎主駈逐とは流罪せらる其の産して未だ久しからずとはいまだ信じて・ひさしからず、悪風とは流罪の勅宣なり蚊虻等とは諸の無智の人有り悪口罵詈等なり母子共に没すとは終に法華経の信心をやぶらずして頚を刎らるるなり、梵天とは仏界に生るるをいうなり引業と申すは仏界までかはらず、日本・漢土の万国の諸人を殺すとも五逆・謗法なければ無間地獄には堕ちず、余の悪道にして多歳をふべし、色天に生るること万戒を持てども万善を修すれども散善にては生れず、又梵天王となる事・有漏の引業の上に慈悲を加えて生ずべし、今此の貧女が子を念うゆへに梵天に生る常の性相には相違せり、章安の二はあれども詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし、念を一境にする、定に似たり専子を思う又慈悲にも・にたり、かるがゆへに他事なけれども天に生るるか、又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ、此の一念三千も我等一分の慧解もなし、而ども一代経経の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり、余経の理は玉に・にたる黄石なり沙をしぼるに油なし石女に子のなきがごとし、諸経は智者・猶仏にならず此の経は愚人も仏因を種べし不求解脱・解脱自至等と云云、我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。涅槃経には次のように説かれている。
「誓えば、一人の貧しい女性がいる。その人は居るべき家もなく、助けてくれる者もいない。それに加えて病苦や飢え、のどの渇きにせめられながら、さまよい、ものごいをしていた。
ある時、ゆかりもない宿にとどまって、子どもを産んだが、この宿の主人は、この女性を追い出してしまった。
出産してまだ日もたっていないこの子を抱いて、他の国に行こうとした。
ところが、その途中でひどい風雨にあって寒さや苦しみにせめられ、多くの蚊や虻や蜂や刺す虫や毒虫などにくわれた。
ガンジス川にさしかかって、子を抱いて渡り始めた。その水は急流であったが、子どもを放さなかったため、ついに母子ともに沈んでしまった。
この女性は、子を慈しみ念った功徳によって、亡くなった後、梵天に生まれた。
文殊師利よ、もし善男子がいて正法を護ろうとするなら、この貧しい女性がガンジス川で子どもを愛し思うゆえに自らの命を捨てたようにせよ。
善男子よ、法を護ろうとする菩薩もまた、まさにこの例のようになるであろう。
むしろ正法を護るためには命を捨てよ。このような人が、悟りの境涯を求めなくても、悟りの境涯が自然と訪れることは、この貧しい女性が梵天に生まれることなどは求めなかったのに、梵天に自然と至ったようなものである」等と。
この経文については、章安大師が三障に当てはめながら解釈している。それを参照するがよい。
ここで「貧しい人」というのは、法の宝がないことである。「女人」というのは、一分の慈悲がある人のことである。「宿」というのは、穢土のことである。
「一人の子」というのは、法華経の信心であり、正了縁の三因仏性のうちの了因仏性という子である。
「宿の主人が追い出す」というのは、流罪にされることである。
「子どもを産んで日がたっていない」というのは、まだ信じて日が浅いことである。
「悪風」というのは、流罪の命令である。「蚊・虻」等というのは「もろもろの無智の人が悪口をいい、ののしる」等のことである。
「母子もろとも沈んだ」というのは、最後まで法華経の信心を破ることなくして、首をはねられることである。
「梵天に生ずる」というのは、仏界に生まれることをいうのである。
次の生の境涯を決める引業というのは、(六道や九界だけでなく)仏界にも当てはまる。
日本・中国の万国の人々を殺したとしても、五逆罪や謗法がなければ、無間地獄には堕ちない。それ以外の悪道で、多くの歳月を過ごすのである。
色界の天に生まれることだが、多くの戒を持ち、多くの善業を修めても、散乱した心で行えば、生まれることはできない。また、梵天の王となることは、煩悩のなごりが残っている有漏の禅定の修行を引業として、これに慈悲の行を加えて生まれることができる。
今、この貧しい女性が子を思う慈悲の心のゆえに梵天に生まれたのは、通常の因果の様相とは違っている。
それについては、章安大師が二つの理由をあげて解釈しているが、結局は、子を思う慈悲心よりほかに梵天に生じた因はない。
思いを一つの対象に定めているのは、禅定と同じである。もっぱら子どものことを思うのは、また慈悲に似ている。このような理由で、他に何の善根もないけれども天に生まれたと言えよう。
また仏に成る道について、華厳宗は唯心法界、三論宗は八不中道、法相宗は唯識、真言宗は五輪観などを立てているが、これらは実際にはかなうとは思えない。
ただ天台宗の一念三千こそ、仏に成ることができる道であると思われる。
この一念三千についても、私たちには智慧による理解が一分もない。しかし、釈尊一代の諸経の中で、この法華経だけが一念三千の宝珠をいだいている。
他の経の法理は、宝玉に似ているがただの黄色い石である。
涅槃経に「砂をしぼっても油は出ない」「石女に子どもはいない」とあるようなものである。
諸経は智者ですら仏に成らない。この経は愚かな人でも仏と成る因をうえることができる。
「解脱(苦しみからの根源的解放)を求めなくても、解脱が自然に訪れる」等とあるのは、このことである。
私ならびに私の弟子は、諸難があっても、疑う心がなければ、自然に仏界に至ることができる。
諸天の加護がないからといって、疑ってはいけない。現世が安穏でないことを、嘆いてはいけない。
私の弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆、信心を捨ててしまったようである。
つたない者の習性として、約束したことをいざという時には忘れてしまうものである。
妻子をふびんと思うため、この現世の別れを嘆くのであろう。
しかし、これまでのきわめて多くの生死流転の中で、なれ親しんだ妻子には、自分から願って離れたであろうか。それとも仏道を成就するために離れたであろうか。いずれにしても必ず別れが待っているのである。
まず、自分が法華経の信心を破らずに成仏して、霊山浄土へ赴き、そのうえで妻子を導くがよい。
涅槃経に説かれる「貧女のたとえ」を通して、どれほどの苦難があっても、信心を貫いていけば、自ら求めてもいないのに、想像以上の境涯──すなわち仏界を得ることができることを述べている。