青年教学1級 開目抄第49段「折伏を行ずる利益」
摂受も折伏も、時を誤ってはならない。
摂受を行うべきときには摂受、折伏を行うべきときには、折伏。
時と場合によって適切に使い分けるべきで、一方にかたよってはならない。
<章安の云く「取捨宜きを得て一向にすべからず」等、天台云く「時に適うのみ」>
ポイントはつまり、いずれも相手を救うための方法であり、その根本は慈悲だということ。
一切衆生を幸福にする仏法を破壊している者を見たら、それを厳しく責めるべきだ。
見ていながら悪を責めない人間は、かえって悪に加担しているのと同じ。
相手に対して厳しい内容でも、それをきちんと言い切っていくことが正義であり、慈悲の振る舞いなのだ。
第49段「折伏を行ずる利益」問うて云く摂受の時・折伏を行ずると折伏の時・摂受を行ずると利益あるべしや、答えて云く涅槃経に云く「迦葉菩薩仏に白して言く如来の法身は金剛不壊なり未だ所因を知ること能わず云何、仏の言く迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり、迦葉我護持正法の因縁にて今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり、善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣弓箭を持つべし、是くの如く種種に法を説くも然も故師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず、是くの如き比丘自利し及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩は懈怠懶惰なり能く戒を持ち浄行を守護すと雖も当に知るべし是の人は能く為す所無からん、乃至時に破戒の者有つて是の語を聞き已つて咸共に瞋恚して是の法師を害せん是の説法の者・設い復命終すとも故持戒自利利他と名く」等云云、章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず」等、天台云く「時に適う而已」等云云、譬へば秋の終りに種子を下し田畠をかえさんに稲米をうることかたし、建仁年中に法然・大日の二人・出来して念仏宗・禅宗を興行す、法然云く「法華経は末法に入つては未有一人得者・千中無一」等云云、大日云く「教外別伝」等云云、此の両義・国土に充満せり、天台真言の学者等・念仏・禅の檀那を・へつらいをづる事犬の主にををふり・ねづみの猫ををそるるがごとし、国王・将軍に・みやつかひ破仏法の因縁・破国の因縁を能く説き能くかたるなり、天台・真言の学者等・今生には餓鬼道に堕ち後生には阿鼻を招くべし、設い山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも空閑にして三密の油をこぼさずとも時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき。問うていうには、摂受をなすべき時に折伏を行じた場合や、折伏をなすべき時に摂受を行じる場合に、利益はあるのだろうか。
問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に・あだまれたる・いかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。
答えていうには、涅槃経には、「迦葉菩薩が仏に申しあげて言うには、『如来の法身は金剛のように壊れないものである。しかし、まだそれを成就された因を知ることができません。その因はどのようなものでしょうか』、と。
仏は答えた。「迦葉よ、よく正法を護持した因縁によって、この金剛の身を成就することができたのである。
迦葉よ、私は正法を護持した因縁で今のこの常住で壊れない金剛の身を成就することができたのである。
善男子よ、正法を護持する者は、五戒を受けず、行儀を修めず、刀剣や弓矢を持つべきである。
このように種々に法を説いても、悪法を打ち破る獅子吼をなさず、法にそむく悪人を降伏させられないような出家僧は、自らを利益することも、衆生を利益することもできない。
このような輩は、怠け者であると知るべきである。
戒を持ち、清らかな実践を守っているといっても、この人は何もできていないと知るべきである。
(中略)ある時、戒を破る者がいて、この人が折伏を行ずる言葉を聞き終わって、皆ともに怒って、この法師を害したとする。
この説法の者は、たとえそのために死んだとしても、それでもなお戒を持ち、自身をも利益し、他をも利益するものであるというのである』」とある。
章安が言うには、「(摂受・折伏の)取捨を適切に行い、一方に偏ってはいけない」(『涅槃経疏』)と。
天台がいうには、「時にかなうのみである」(『法華文句』)と。
譬えば、秋の終わりに種を蒔いて田畑を耕しても、米の収穂は難しいようなものである。
建仁年間に、法然と大日能忍の二人が出現して、念仏宗と禅宗を隆盛させた。
法然は「末法になれば、法華経によっては、いまだ一人として得道した者がなく、千人の中でも一人もいない」と言った。
大日能忍は「仏の真実の悟りは言葉による教えとは別に伝えられた」と言って法華経を排斥した。
この二つの教義が、今や日本の国土に充満している。
天台・真言の学者らが、(これら法華経誹謗の念仏・禅を破折もせず、かえって)念仏や禅を信じている庇護者にへつらい、おそれるさまは、まるで犬が主人に尾をふり、ネズミが猫をおそれるようである。
そして、彼らは国王・将軍に仕えて、仏法を破壊する因縁、国を破滅させる因縁となる間違った教えを、積極的に説き語っているのである。
こうした天台・真言の学者らは、今世では餓鬼道に堕ち、来世には阿鼻地獄の苦を招くであろう。
たとえ(権力者に媚びないで)山林に籠って、一念三千の観法に専心したとしても、人里離れた静かなところで、真言の三密の修行を油をこぼさぬように細心に行じたとしても、時と衆生の機根を知らず、摂受と折伏の二門を弁えなければ、どうして生死の苦しみから離れることができようか。
問うていうには、念仏者・禅宗等を責めて、かれらに憎まれることに、どのような利益があるのか。
答えていうには、涅槃経には「もし、善比丘が、法を破る者を見て捨て置いて、呵責(厳しく責めること)し、駈遣(追放)し、挙処(罪を挙げて処断すること)しなければ、この人は仏法の中の敵であると知るべきである。
もし、よく追放し、厳しく責め、罪を挙げて処断すれば、仏の弟子であり、真の声聞である」等とある。
また、「仏法を破壊し乱す者は仏法の中の敵である。慈悲がなくていつわって親しくするのは、その人にとって敵である。
その悪を糾し、退治する人が、法を護る声聞であり、真のわが弟子である。
その人のために悪を取り除く者は、その人にとっては親である。
悪を厳しく責める者は私の弟子である。悪を追放しようとしない者は、仏法の中の敵である」(『涅槃経疏』)とある。
摂受を行うべきときには摂受、折伏を行うべきときには、折伏。
時と場合によって適切に使い分けるべきで、一方にかたよってはならない。
<章安の云く「取捨宜きを得て一向にすべからず」等、天台云く「時に適うのみ」>
ポイントはつまり、いずれも相手を救うための方法であり、その根本は慈悲だということ。
一切衆生を幸福にする仏法を破壊している者を見たら、それを厳しく責めるべきだ。
見ていながら悪を責めない人間は、かえって悪に加担しているのと同じ。
相手に対して厳しい内容でも、それをきちんと言い切っていくことが正義であり、慈悲の振る舞いなのだ。