青年教学1級 御義口伝「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」
「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく「『南無』妙法蓮華経如来寿量品」が重要。
「御義口伝」においては、寿量品に関して27項目を取り上げて論じられている。その冒頭が「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」である。
ここで「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく、「南無妙法蓮華経如来寿量品」とされていることが重要である。
これは本文において「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」と示されているように、あらゆる仏、衆生を成仏させた「根源の本仏」たる無作三身如来の名前を南無妙法蓮華経ともいうのである。
寿量品の「如来」とは別して「本地三仏」であると言っている。これは五百塵点劫の久遠に成仏して以来、衆生救済のために種々の姿をもって出現している久遠実成の釈尊である。この仏は始成正覚の釈尊に対しては本地仏であり、しかも、その一身に法・報・応の三身を具えているので本地三仏という。
「始成正覚の釈尊」対して「久遠実成の釈尊」は本地仏(本地三仏)
以上の天台の『文句』の説明を踏まえて、日蓮仏法における深義を以下のように講義された。
「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり」と仰せの「此の品の題目」とは、文上の「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく、この項の冒頭に掲げられている「南無妙法蓮華経如来寿量品」という題目である。
「南無妙法蓮華経如来」とは、「人法体一の仏」(「日蓮が身に当る大事なり」)
無作三身とは末法の法華経の行者
次に大聖人は、「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり」と仰せられている。これは先に引かれた天台の『文句』の釈をふまえつつ、寿量品の意をより明確に示されているのである。
まず「如来とは釈尊」と、釈尊の名を明示されている。寿量品では、久遠に成道した釈尊が、一切の仏の本地であることが明かされた。その意味で、寿量品の如来とは、まず久遠実成の釈尊のことであり、この久遠の釈尊が、「惣じては十方三世の諸仏」と開かれるのである。
これに対して、「御義口伝」では如来の意義について、「別しては本地無作の三身」と、「無作」の語を加えてさらに掘り下げていかれるのである。
「無作」とは、作為を加えない、真実ありのままとの意味。
「無作の三身」は「凡夫の当体に開かれる仏身」(総じては「一切衆生」、別して妙法を受持した「日蓮の弟子檀那」)
さまざまな経典に説かれるような姿をした仏がそのまま現実に現れるものではない。
現実の仏は「妙法を所持し実践する人間」
したがって「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」とあるように、無作三身とは末法の法華経の行者であり、その無作三身の宝号を南無妙法蓮華経如来というのであると仰せられている。
永遠の妙法である南無妙法蓮華経を受持し(法身)、妙法の功徳を信によって一身に受け(報身)、妙法をもって他の人々を救済する人生を歩む(応身)という、「法華経の行者」こそが無作三身の仏なのである。
そして、この無作の三身の特質は、南無妙法蓮華経を受持していることにあるので、南無妙法蓮華経をもってその名(宝号)とするのである。
また、この「南無妙法蓮華経」を受けて「寿量品の事の三大事とは是なり」と仰せである。
大聖人は寿量品の文底の妙法を南無妙法蓮華経として顕し、末法の法華経の行者即無作の三身としてのお振る舞いを貫くなかで、南無妙法蓮華経を本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目という三つの次元に開いて末法の衆生に残されたのである。ゆえに寿量品の事の三大事とは三大秘法のことである。
寿量品の「如来」を「六即」の配立の視点から。
六即とは、天台が立てた修行の位のことで、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六つをいう。
ここでは「御義口伝」の御文に沿って日蓮仏法での六即でたてる。
①理即は、「此の品の如来は理即の凡夫なり」と仰せられている。
「惣じては如来とは一切衆生なり」とされているのと同じ意味で、一切衆生に等しく仏性が存在することを明かしたのが寿量品の根本趣旨であることを示されている。
②名字即は、「頭に南無妙法蓮華経を頂戴」した時、つまり、妙法を信受した時が名字即となるのである。
③観行即は、受持即観心であり、御本尊を受持して「唱題に励むこと」が観心(修行)、となる。
だから、「観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり」と仰せられているのである。
④相似即は、煩悩(惑)を断じることで成仏するとは説かないので、「惑障を伏する」と仰せられている。
これは、見思惑・塵沙惑を断ずるという意味ではなく、仏道修行にともなって起きる三障四魔や、さまざまな迷いを克服していく境涯という趣旨である。
⑤分真即は、「化他に出づるを分真即と云うないり」とされているのは、折伏・弘教の化他行に励む強い信心において、すでに妙法への無明を断じて、仏の生命の一分が現れているからである。
⑥究竟即は、凡夫の我が身が「無作の三身の仏なり」と確信して揺るがぬ境涯が究竟即となる。
以上のように天台の六即は断惑の段階に基づく位であるが、大聖人が立てられている六即は、理即の凡夫の当体を改めることなく、名字即の「信」によって成仏することを基本にするものであり、全体として「信の深化」を示したものといえる。
決して断惑による段階を用いられてはいないのである。
更にまた、「唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり」とあるように、寿量品の根本義は、凡夫がそのままの姿で直ちに仏と開覚する即身成仏にある。
「無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」とは、南無妙法蓮華経の唱題が無作三身の仏の振る舞いにほかならないということである。
日蓮仏法では、現実生活のなかで自行化他にわたり南無妙法蓮華経と唱えるという具体的実践法が、凡夫も差別なく成仏のための道。
「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云うと。『法華文句』の巻9には「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号である。別しては本地三仏の別号である。寿量とは詮量すなわち、詳しく量ることである。十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量する故に寿量品というのである」とある。
御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。
(寿量品の題名について)御義口伝には次のように仰せである。
この品(寿量品)の題目は日蓮の身に当たる大事である。神力品の付嘱がまさにこれである。
如来寿量品の「如来」とは、釈尊のことであり、総じては十方三世の諸仏のことであり、別しては本地無作の三身のことである。
今、日蓮及びその門下の意においては、総じては如来とは一切衆生である。別しては日蓮の弟子檀那のことである。
ゆえに「無作の三身」とは、末法の法華経の行者のことである。無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経というのである。寿量品の事の三大事とはこのことである。
六即に配立すれば、寿量品の如来は「理即の凡夫」にあたる。
頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時が「名字即」である。なぜならば、その時に南無妙法蓮華経の題目を初めて聞くからである。
その題目を聞いて修行するのが「観行即」である。この観行即とは事の一念三千の本尊を観ずることである。
そして惑障を伏することを「相似即」というのである。
化他の実践に踏み出した境涯を「分真即」というのである。
自身を無作の三身の仏であると究竟することを「究竟即」の仏というのである。
総じて伏惑という在り方を寿量品の究極とはせず、ただ凡夫の当体の本来ありのままを、この寿量品の極理であると心得るべきである。
無作の三身の所作とは何物かといえば、それは南無妙法蓮華経そのものなのである。
「御義口伝」においては、寿量品に関して27項目を取り上げて論じられている。その冒頭が「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」である。
ここで「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく、「南無妙法蓮華経如来寿量品」とされていることが重要である。
これは本文において「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」と示されているように、あらゆる仏、衆生を成仏させた「根源の本仏」たる無作三身如来の名前を南無妙法蓮華経ともいうのである。
寿量品の「如来」とは別して「本地三仏」であると言っている。これは五百塵点劫の久遠に成仏して以来、衆生救済のために種々の姿をもって出現している久遠実成の釈尊である。この仏は始成正覚の釈尊に対しては本地仏であり、しかも、その一身に法・報・応の三身を具えているので本地三仏という。
「始成正覚の釈尊」対して「久遠実成の釈尊」は本地仏(本地三仏)
以上の天台の『文句』の説明を踏まえて、日蓮仏法における深義を以下のように講義された。
「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり」と仰せの「此の品の題目」とは、文上の「妙法蓮華経如来寿量品」ではなく、この項の冒頭に掲げられている「南無妙法蓮華経如来寿量品」という題目である。
「南無妙法蓮華経如来」とは、「人法体一の仏」(「日蓮が身に当る大事なり」)
無作三身とは末法の法華経の行者
次に大聖人は、「如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり」と仰せられている。これは先に引かれた天台の『文句』の釈をふまえつつ、寿量品の意をより明確に示されているのである。
まず「如来とは釈尊」と、釈尊の名を明示されている。寿量品では、久遠に成道した釈尊が、一切の仏の本地であることが明かされた。その意味で、寿量品の如来とは、まず久遠実成の釈尊のことであり、この久遠の釈尊が、「惣じては十方三世の諸仏」と開かれるのである。
これに対して、「御義口伝」では如来の意義について、「別しては本地無作の三身」と、「無作」の語を加えてさらに掘り下げていかれるのである。
「無作」とは、作為を加えない、真実ありのままとの意味。
「無作の三身」は「凡夫の当体に開かれる仏身」(総じては「一切衆生」、別して妙法を受持した「日蓮の弟子檀那」)
さまざまな経典に説かれるような姿をした仏がそのまま現実に現れるものではない。
現実の仏は「妙法を所持し実践する人間」
したがって「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」とあるように、無作三身とは末法の法華経の行者であり、その無作三身の宝号を南無妙法蓮華経如来というのであると仰せられている。
永遠の妙法である南無妙法蓮華経を受持し(法身)、妙法の功徳を信によって一身に受け(報身)、妙法をもって他の人々を救済する人生を歩む(応身)という、「法華経の行者」こそが無作三身の仏なのである。
そして、この無作の三身の特質は、南無妙法蓮華経を受持していることにあるので、南無妙法蓮華経をもってその名(宝号)とするのである。
また、この「南無妙法蓮華経」を受けて「寿量品の事の三大事とは是なり」と仰せである。
大聖人は寿量品の文底の妙法を南無妙法蓮華経として顕し、末法の法華経の行者即無作の三身としてのお振る舞いを貫くなかで、南無妙法蓮華経を本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目という三つの次元に開いて末法の衆生に残されたのである。ゆえに寿量品の事の三大事とは三大秘法のことである。
寿量品の「如来」を「六即」の配立の視点から。
六即とは、天台が立てた修行の位のことで、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六つをいう。
ここでは「御義口伝」の御文に沿って日蓮仏法での六即でたてる。
①理即は、「此の品の如来は理即の凡夫なり」と仰せられている。
「惣じては如来とは一切衆生なり」とされているのと同じ意味で、一切衆生に等しく仏性が存在することを明かしたのが寿量品の根本趣旨であることを示されている。
②名字即は、「頭に南無妙法蓮華経を頂戴」した時、つまり、妙法を信受した時が名字即となるのである。
③観行即は、受持即観心であり、御本尊を受持して「唱題に励むこと」が観心(修行)、となる。
だから、「観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり」と仰せられているのである。
④相似即は、煩悩(惑)を断じることで成仏するとは説かないので、「惑障を伏する」と仰せられている。
これは、見思惑・塵沙惑を断ずるという意味ではなく、仏道修行にともなって起きる三障四魔や、さまざまな迷いを克服していく境涯という趣旨である。
⑤分真即は、「化他に出づるを分真即と云うないり」とされているのは、折伏・弘教の化他行に励む強い信心において、すでに妙法への無明を断じて、仏の生命の一分が現れているからである。
⑥究竟即は、凡夫の我が身が「無作の三身の仏なり」と確信して揺るがぬ境涯が究竟即となる。
以上のように天台の六即は断惑の段階に基づく位であるが、大聖人が立てられている六即は、理即の凡夫の当体を改めることなく、名字即の「信」によって成仏することを基本にするものであり、全体として「信の深化」を示したものといえる。
決して断惑による段階を用いられてはいないのである。
更にまた、「唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり」とあるように、寿量品の根本義は、凡夫がそのままの姿で直ちに仏と開覚する即身成仏にある。
「無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」とは、南無妙法蓮華経の唱題が無作三身の仏の振る舞いにほかならないということである。
日蓮仏法では、現実生活のなかで自行化他にわたり南無妙法蓮華経と唱えるという具体的実践法が、凡夫も差別なく成仏のための道。