自受用身無作三身の妙法の当体。


「第廿二自我偈始終の事」
 御義口伝に云く自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍つて自我偈は自受用身なり法界を自身と開き法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし、自受用身とは一念三千なり、伝教云く「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。
 (自我偈の「始終」について)御義口伝に次のように仰せである。
 (自我偈の冒頭に「自我得仏来」とあるように)「自」が(自我偈の)始め(の文字)である。(自我偈末尾に)「速成就仏身」とあるように「身」が(自我偈の)終わり(の文字)である。
 (このように、自我偈の文は)始めと終わりで「自身」となっている。
 (初めと終わりの文字の間にある、自我偈全体の)中の文字は、「受用」を明かしている。
 したがって、自我偈は(全体で)自受用身となるのである。
 法界を「自身」と開き、法界がそのまま「自受用身」であるならば、(法界は)自我偈に非ずということはない。(法界は、ことごとく自我偈となるのである)
 自受用身とは、一念三千である。
 伝教大師は次のように釈している。「一念三千の法を、そのまま体現しているのが自受用身の仏である。また、自受用身とは尊形を超え出た仏である。この出尊形仏とは無作の三身ということである」と。
 今、日蓮及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は自受用身である、と。

 自我偈全体が「自身」について説いていることを明かされている。
 また、「中の文字は受用なり、仍って自我偈は自受用身なり」と仰せられて、自身が受け用いる功徳や働きについて明かしているのが自我偈の内容であるとされている。
 言い換えると自我偈は自受用身そのものを説いている。
 「自受用身」とは、仏としての境涯を、他からの力によらないで、自ら悟り、その功徳をありのままに働かせる仏身である。南無妙法蓮華経を人法体一の境涯において所持し、その功徳を成就している本有無作三身である。

 「自受用身とは一念三千なり」と仰せになり、「人即法」の法理を示されている。
 自受用身とは、「法の功徳を自ら享受する身(自受法楽の身)」の意で、報身と同義である。
 「自受用身」を「ほしいままにうけもちいるみ」と読み仮名がふられている。

 「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」は「法即人」を表す。
 「自受用身(ほしいままにうけもいちるみ)とは一念三千なり」が「人即法」を表している。
 (あわせて人法一箇となる。)

 また伝教が言う「尊形を出でたる仏」とは、凡夫の身を改めることのない、生命本来のままの仏のことである。
 この根源的な仏こそ無作三身に当たるので「出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」と述べられている。

 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」と仰せのように、凡夫の身のままで、一念三千の当体として自身に無作三身を顕し、即身成仏する道を確立されたのが日蓮大聖人である。