仮想と現場と己心と葛藤。
あくまでも仮想現実
ネット活動を他人があれこれ揶揄や指図するには、限度があると思います。
「ああっ、そんな事書いちゃ」とか「違うよ、そうじゃない」とか言いたくなる書き込みも散見されます。
私の書き込みも他人から見れば一家言あると思いますし、それが当然でしょう。
信心の軸足が『現場』なのは当然で『ネット弁慶』では幸せにはなれない。
幸せになる為に信心をしていて、その信心活動で得たモノをネットで書くのが「ネット活動」でしょう。
歓喜の無く「愚癡」や「批判」ばかり書いていては只の『退転者』にしかならない。
統監が組織にあるだけで、ちっとも『広布』に役には立っていない。
『現場』で活動して、どうしても腑に落ちない事があるでしょう。
指導を受けるまででもなく、身近に聞ける人もなく「う~~ん、コレってどうなんだろう?」とネットでググル事は皆、経験はないでしょうか?
「ああっ、同じ事を思っている人がいる」と安堵するかもしれません。
しかし、心得なければならないのが『ネットは3次資料』だと言う事。
信心の指針は
「御書・先生の講義や著作」>「現場の指導・体験」>「ネット・体験談」だと思う。
ネットの活動や体験は所詮『仮想』です。実体を殆ど確かめ様がない。
ネットでスゴイと思った人が、現実で会ったら「え~~何か違う」となるかも知れませんよ。
ネットはテキストで構成されるから、読み手のリテラシィ・読解力次第で歓喜もすればヘコミもする。
書き手の思惑を離れ歪曲だってされる。
自分の思った事を書いて否定されたら、躍起になって反論もするかもしれない。
同意をされ、嬉しくなり饒舌になって余計な事まで書くかもしれない。
賢者の振る舞い
日蓮大聖人は「九思一言」と故事を引かれた。
これは読み手聞き手に判るように発言者が心得ているか?でしょう。
何も考慮せずその場の勢いで発言しては賢者ではない。
通常ネットでは発言が何時までも残ります。
ひいてはネットの体験・意見を鵜呑みにしてはなりません。
よくよく脈絡を読み真意を汲まなければ「退転」の元になるかもしれません。
私もそうですが発言者は書き込み時に「これは書いて大丈夫か?」とボタンを押す前に考えましょう。
特定のHNに対しての書き込みでも、ネットでは他者が見ています。
影響を考えなければいけませんね。
日蓮大聖人は御書・お手紙を認められる時には皆で読み廻す事を想定されていますね。
池田先生も各種メッセージは男子部に宛ても、婦人部に宛ても他者が読む事を考慮されていますね。
自分の書き込みで『誰か』が退転しては、エライ業を積んでしまいます。
考え抜いた善かれと思っての書き込みも、相手が聞く耳を持たなければ仕方ないのです。
日蓮大聖人も「御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず(日厳尼御前御返事P1262)」とも仰せです。
必要以上に攻めたてては慈悲がありませんし、相手が機根を見ましょうよ。
毎日同じ文章趣意を書き立てては「粘着質」「中二病」とか言われますよ。
執着との葛藤
中には己心に執着し、御書を引かれて指摘されても素直に意見を変えられない人もいるでしょう。
自分の執着との葛藤もあるでしょう。
その葛藤を乗り越えれば境涯革命はできると思います。
人間的に魅力のある人は、信仰者か否かを問わずいます。
魅力のある人を庇いたくなるのが人情でしょう。しかし我々は信仰者です。
人情に流されて広布が進まなければ意味はないのです。
言い負かされては悔しいかもしれないが、「悔しい」の元が『何』なのかジックリと御本尊の前で考えてみましょう。
最後に
こうしたネット上での議論や炎上は私は『無意味』とは思いません。『有意義』だと思います。
こうした議論炎上で葛藤が起き思索を重ねる事は、人生に於て無駄にはならないと思います。
片や指摘され葛藤すれば自己成長し、片や指摘して「勝他の念」に支配されない発言力を増せば自己成長をします。
自分は何が言いたいのか?
自分は何を指摘されたのか?
相手は何が言いたいのか?
相手は何を指摘したいのか?
これが対話だと思います。
そして結果『この対話で何を得たのか?』だと思います。
無意味な対話はしたくないよね?
ネット活動を他人があれこれ揶揄や指図するには、限度があると思います。
「ああっ、そんな事書いちゃ」とか「違うよ、そうじゃない」とか言いたくなる書き込みも散見されます。
私の書き込みも他人から見れば一家言あると思いますし、それが当然でしょう。
信心の軸足が『現場』なのは当然で『ネット弁慶』では幸せにはなれない。
幸せになる為に信心をしていて、その信心活動で得たモノをネットで書くのが「ネット活動」でしょう。
歓喜の無く「愚癡」や「批判」ばかり書いていては只の『退転者』にしかならない。
統監が組織にあるだけで、ちっとも『広布』に役には立っていない。
『現場』で活動して、どうしても腑に落ちない事があるでしょう。
指導を受けるまででもなく、身近に聞ける人もなく「う~~ん、コレってどうなんだろう?」とネットでググル事は皆、経験はないでしょうか?
「ああっ、同じ事を思っている人がいる」と安堵するかもしれません。
しかし、心得なければならないのが『ネットは3次資料』だと言う事。
信心の指針は
「御書・先生の講義や著作」>「現場の指導・体験」>「ネット・体験談」だと思う。
ネットの活動や体験は所詮『仮想』です。実体を殆ど確かめ様がない。
ネットでスゴイと思った人が、現実で会ったら「え~~何か違う」となるかも知れませんよ。
ネットはテキストで構成されるから、読み手のリテラシィ・読解力次第で歓喜もすればヘコミもする。
書き手の思惑を離れ歪曲だってされる。
自分の思った事を書いて否定されたら、躍起になって反論もするかもしれない。
同意をされ、嬉しくなり饒舌になって余計な事まで書くかもしれない。
賢者の振る舞い
日蓮大聖人は「九思一言」と故事を引かれた。
これは読み手聞き手に判るように発言者が心得ているか?でしょう。
何も考慮せずその場の勢いで発言しては賢者ではない。
通常ネットでは発言が何時までも残ります。
ひいてはネットの体験・意見を鵜呑みにしてはなりません。
よくよく脈絡を読み真意を汲まなければ「退転」の元になるかもしれません。
私もそうですが発言者は書き込み時に「これは書いて大丈夫か?」とボタンを押す前に考えましょう。
特定のHNに対しての書き込みでも、ネットでは他者が見ています。
影響を考えなければいけませんね。
日蓮大聖人は御書・お手紙を認められる時には皆で読み廻す事を想定されていますね。
池田先生も各種メッセージは男子部に宛ても、婦人部に宛ても他者が読む事を考慮されていますね。
自分の書き込みで『誰か』が退転しては、エライ業を積んでしまいます。
考え抜いた善かれと思っての書き込みも、相手が聞く耳を持たなければ仕方ないのです。
日蓮大聖人も「御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず(日厳尼御前御返事P1262)」とも仰せです。
必要以上に攻めたてては慈悲がありませんし、相手が機根を見ましょうよ。
毎日同じ文章趣意を書き立てては「粘着質」「中二病」とか言われますよ。
執着との葛藤
中には己心に執着し、御書を引かれて指摘されても素直に意見を変えられない人もいるでしょう。
自分の執着との葛藤もあるでしょう。
その葛藤を乗り越えれば境涯革命はできると思います。
人間的に魅力のある人は、信仰者か否かを問わずいます。
魅力のある人を庇いたくなるのが人情でしょう。しかし我々は信仰者です。
人情に流されて広布が進まなければ意味はないのです。
言い負かされては悔しいかもしれないが、「悔しい」の元が『何』なのかジックリと御本尊の前で考えてみましょう。
最後に
こうしたネット上での議論や炎上は私は『無意味』とは思いません。『有意義』だと思います。
こうした議論炎上で葛藤が起き思索を重ねる事は、人生に於て無駄にはならないと思います。
片や指摘され葛藤すれば自己成長し、片や指摘して「勝他の念」に支配されない発言力を増せば自己成長をします。
自分は何が言いたいのか?
自分は何を指摘されたのか?
相手は何が言いたいのか?
相手は何を指摘したいのか?
これが対話だと思います。
そして結果『この対話で何を得たのか?』だと思います。
無意味な対話はしたくないよね?