2009/10/18  初級・3級教学試験 「佐渡御書」(上)その1

 池田名誉会長 御書講義

背景と大意
 本抄は、大聖人が文永9年(1272年)3月20日、流罪されていた佐渡・塚原から、広く門下一同に向けて与えられた御書です。
 前年の文永8年から、大聖人一門は、権力による激しい弾圧を受けました。
 大聖人は9月12日、竜の口の頸の座に据えられ、その後、極寒の佐渡に流されました。
 塚原に着かれたのは11月1日のことです。
 弟子たちの中には、厳しい迫害を恐れて退転する者が続出しました。
 「大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ大難にあうのか」と公然と批判する者まで現れました。
 大聖人は、難に動揺する弟子たちを案じられながら、厳しい寒さと飢えを耐え忍んで冬を過ごされ、翌・文永9年の2月、大聖人こそ真実の法華経の行者であることを示す「開目抄」を完成され、弟子たちに送られました。
 この2月には、北条一族が相争う「二月騒動(北条時輔の乱)」が起りました。
 「立正安国論」で予言された「自界叛逆難」の的中を意味するものであり、この知らせを受けたのが、「佐渡御書」です。
 本抄では、人間にとって生命ほど大切なものはないのだがら、その生命を仏法のために捧げれば必ず仏になれると教えられます。
 そのうえで、生命を棒げるといっても、そのあり方は時代によって異なるのであり、悪王・悪僧が結託して、正法の行者を攻撃する末法では、獅子王の心で悪と戦い抜く者が必ず仏になると仰せになります。
 また、自界叛逆難の的中という厳然たる事実から、大聖人こそ日本国の人々にとって主・師・親の徳を備えた存在であることを示されます。
 さらに、御自身の法難を三世の視点から洞察され、今回の法難を戦い抜けば、過去の重罪を消して、未来に成仏することは間違いないと、末法における宿命転換の原理を身をもって示され、大聖人のごとく不借身命で戦うよう励まされています。(背景と大意は大白2007年2月号のものです)

本文
 此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき人人の御中へなり

通解
 この手紙は、富木殿のもとへ送り、三郎左衛門殿、大蔵塔の辻の十郎入道殿ら、桟敷の尼御前、その他これを御覧になっていただくべき方々一人一人に宛てたものです。

解説
 ここは御消息の本文とは別に、とり急ぎ伝えたい事柄を書き込まれた一節ですが、日蓮大聖人が、門下の一人一人に語りかけるように認められたお心が拝されます。
 本抄は、大聖人が佐渡流罪中の文永9年3月、「日蓮弟子檀那等御中」と宛名にあるように、全門下に送られた御消息です。本抄の末尾には此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡(りょうけん)候て心なぐさませ給へ」(P961)とも記されております。
 門下への弾圧は苛烈を極め千人の内九百九十九人が退転する様な状況です。
 大聖人自身も、流罪という逼迫した中に、弟子・門下に慈愛を注がれる、あまりにも偉大な御境涯。
 大難によってこそ、人間の境涯は限りなく開かれる。その極理を教えてくださるのが仏法の師匠です。師匠とは何とありがたい存在でしょうか。この師恩に報いてこそ「弟子の道」です。本抄はまさしく、「師弟不二」という信仰の奥義が凝結した「誓願の一書」であると拝したい。

本文
 京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ、外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨等これへの人人もちてわたらせ給へ

通解
 京都と鎌倉での合戦で亡くなった方々の名前を書き記して届けてください。「外典抄」「法華文句」の第2巻、「法華玄義」の第4巻とその注釈書、「勘文」や「宣旨」などを、こちらへ来られる人々は、持っておいでください。

解説
 京都、鎌倉の戦とは、「二月騒動」(北条時輔の乱とも言う)という内乱があり、日蓮大聖人が予言された自界叛逆難が実際に起りました。
 大聖人は予言が的中した事よりも、それによって亡くなられて方の名前を送って欲しいと仰せです。
 追善のお題目を送る為でしょう。三世にわたる幸福を祈られる大聖人の大慈悲が拝される一節です。
 続いて、佐渡に参いる方に外典抄などの文献を持たせるように依頼されています。
 過酷な流罪地に於ても日蓮大聖人は、末法の民衆救済のための重要な御思索と御執筆を重ねておられたのです。

本文
 世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや

通解
 世間一般において人が恐れるものは、炎に包まれることと、剣をかざして襲われることと、この身が死に至ることことである。
 牛や馬でさえ身を惜しむ。まして人間であればなおさらである。不治の病にかかっている人でさえも命を惜しむ。まして健康な人なら言うまでもない。

解説
 いかなる人にとっても、「此身の死する」ことほど恐ろしいことはない。動物にとっても人間にとっても同じです。
 しかし、ただ死を恐れ、命を惜しんでいるだけであれば、本当の深い人生は分りません。人間、何のために生き、何のために死んでいくのか。自身の「生死」を真剣に見つめていくことは、深い生き方を可能にします。
 二月騒動の混乱止まぬ中、庶民の恐怖は最高潮でしょう。
 判りやすく「火炎の中」「刀剣の影」と例えて身近に「死」がいかに迫っているか、御文を読んだ門下は痛感されたのではないでしょうか?