2009/10/19 初級・3級教学試験 「佐渡御書」(上)その2
前回の御書講義続き。
通解
仏は次のように説く。「七つの宝を三千大千世界にあふれるほど敷き詰めて供養しても、手の小指を仏や法華経に供養することには及ばない(趣意)」(薬王品)と。雪山童子は鬼に身を投げ与え、楽法梵志は身の皮を剥いだ。命以上に惜しいものはないのだから、その身命を布施として仏法を修行すれば必ず仏となる。
身命をも捨てる人が、他の宝を仏法のために惜しむだろうか。また、財宝を仏法のために惜しむような者が、それより大事な命を捨てることができるだろうか。
解説
では、このかけがえのない身命を何に使うのか。本抄では仏法の為に捧げてこそ、仏になることが出来ると教えられています。
大聖人は、まず法華経の薬王品を挙げられて、身命を仏法に捧げることの甚深の意義を示されています。そして、釈尊が過去世において修行していた時の姿である雪山童子や楽法梵志を挙げ、不惜身命こそが仏道修行を成就させる要諦であることを明かされています。
また、大聖人は不惜身命の覚悟のある者が他の宝を惜しむはずがないと仰せです。
”成仏が目前にあるのだから、何も恐れる必要はない”とあえて厳愛のご指導をされています。
もう一つ、身命をただ惜しんでいるだけでは、真実の幸福は得られないと言う事です。
「何の為」と言う根本の目的を定め、労苦を惜しまぬ覚悟で正しい「人生の道」を求めてこそ、深い喜びや充実感が得られるのです。
もう一つ、仏道修行によって得られる境地は今世の命の有限性を越えた、永遠性のものであるということです。
「三世の生命観」「永遠の幸福観」に目覚めることこそが、人生と社会のさまざまな問題を打開するための根本的な転換点になるのです。
通解
世間の道理でも、重き恩に対しては命を捨てて報いるものである。また、主君のために命を捨てる人は少ないように思われるけれども、その数は多い。男は名誉のために命を捨て、女は男のために命を捨てる。
魚は、命を惜しむため、すみかとしている池が浅いことを嘆いて、池の底に穴を掘って棲んでいる。しかし、餌にだまされて釣り針を呑んでしまう。鳥はすみかとしている木が低いことを恐れて、木の上の枝に棲んでいる。しかし、餌にだまされて網にかかってしまう。
人もまた、これと同じである。世間の浅いことのために命を失うことはあっても、大事な仏法のためには身命を捨てることが難しい。それゆえ、仏になる人もいないのである。
解説
大聖人は、「世間の浅き事」のために命を捨てるのではなく、「大事の仏法」のためにこそ一番大事な「身命」を捧げるべきであると教えられているのです。
「不惜身命」といっても、真実の仏法は、いたずらに命を捨てる「殉教主義」などでは断じてありません。
皆さんは、尊い命を絶対に無駄にしてはいけない。青少年の皆さんも、どんなに辛いことや苦しいことがあったとしても、それに負けて自分や他人の命を粗末にするようなことが絶対にあってはならない。皆さまの命は、何ものよりも尊極な、不思議なる仏の生命だからです。
大聖人は、末法の凡夫成仏の在り方を次のように教えて下さっています。
「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(P1596白米一俵御書)
ここに究極の不惜身命があります。
「心こそ大切」です。仏法の為に正義のために「一念に億劫の辛労を尽くす」ことです。恐れなく南無妙法蓮華経を唱え抜くことであり、世界の為、未来の為人々のために懸命に信心の実証を示しきっていくことに尽きるのです。
自身の生活の時間を使って活動するのも、友人を励まし、心を尽くして仏法対話をする行動こそ「不惜身命」です。
通解
仏法においては、摂受と折伏のどちらかを実践するのかは、「時」に応じて決まるのである。譬えていえば、世間でいう文武の二道のようなものである。
解説
ここから、末法という「時」に適った仏法の実践について明かされます。
「摂受」は、人々の機根に合わせて法を説いていく姿です。
「折伏」は、極理の南無妙法蓮華経を説ききっていく姿です。
「時によるべし」の「時」とは、時代と衆生が何を求めているかを深く洞察することによってのみ把握できるものです。
いついかなる実践にあっても、どこまでも、「折伏精神」を忘れずに行動する。これが、折伏の師匠に連なる、真正の弟子の道です。
この「時」は「摂受」は正法像法の時の事、「折伏」は末法の事です。
この御文はとても重要なので暗記して下さい。
通解
それゆえ、過去の偉大な聖人のは時に応じて仏法を修行したのである。
雪山童子や薩(タ)王子は、「身を布施とすれば法を教えよう。その布施行が菩薩の修行にあたるだろう」と迫られたので身を捨てた。肉をほしがらない時に身を捨てるべきだろうか。紙のない時代には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とするべきである。
戒律を破る人や戒律を持たない人が非難され、戒律を持ち、正法を行ずる人が重んじられる時代には、さまざまな戒律を堅く持つべきである。国王が儒教うや道教を用いて仏教を弾圧しようとする時には、道安法師や、慧遠法師、法道三蔵らのように、命もかえりみず、国を諌めるべきである。
仏教の中に小乗と大乗、権教と実教、顕教と密教の違いを厳然と立て分けるべきである。
解説
過去の大聖や菩薩たちは、皆、「時」に適った修行をして仏になることができました。仏法では、「時」に適った実践を最も重視します。
仏教そのものが誕生する以前は、先達者たちは命を賭して「法」を求め抜きました。また、正法が広く人々に受け入れられている時は、仏法者は、人々がさらに正しく正法を持つように模範の姿を示さなければならない。反対に、仏教を否定し弾圧しようとする王がいる時は、身命を失う覚悟で王を諫めるべきである。
そして、仏教のなかで、諸教が入り交じって人々が混乱している時は、教えの勝劣を明快に立て分けることが急務です。今がいかなる時か。「時」に適った実践を知ることによって、はじめて仏法は正しく伝えられます。
仏法を知らない人には優しく教え、規範を示し、仏法を否定したら覚悟を決めて諌める。私たちの対人関係でも同じですね。
ここに師弟不二がないと、負けてしまいます。言い切れなかったり摂受になってしまいます。
絶対に「折伏の旗を降ろさない、信心の炎を消さない」との一念が大事になります。
本文
仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや
通解
仏は次のように説く。「七つの宝を三千大千世界にあふれるほど敷き詰めて供養しても、手の小指を仏や法華経に供養することには及ばない(趣意)」(薬王品)と。雪山童子は鬼に身を投げ与え、楽法梵志は身の皮を剥いだ。命以上に惜しいものはないのだから、その身命を布施として仏法を修行すれば必ず仏となる。
身命をも捨てる人が、他の宝を仏法のために惜しむだろうか。また、財宝を仏法のために惜しむような者が、それより大事な命を捨てることができるだろうか。
解説
では、このかけがえのない身命を何に使うのか。本抄では仏法の為に捧げてこそ、仏になることが出来ると教えられています。
大聖人は、まず法華経の薬王品を挙げられて、身命を仏法に捧げることの甚深の意義を示されています。そして、釈尊が過去世において修行していた時の姿である雪山童子や楽法梵志を挙げ、不惜身命こそが仏道修行を成就させる要諦であることを明かされています。
また、大聖人は不惜身命の覚悟のある者が他の宝を惜しむはずがないと仰せです。
”成仏が目前にあるのだから、何も恐れる必要はない”とあえて厳愛のご指導をされています。
もう一つ、身命をただ惜しんでいるだけでは、真実の幸福は得られないと言う事です。
「何の為」と言う根本の目的を定め、労苦を惜しまぬ覚悟で正しい「人生の道」を求めてこそ、深い喜びや充実感が得られるのです。
もう一つ、仏道修行によって得られる境地は今世の命の有限性を越えた、永遠性のものであるということです。
「三世の生命観」「永遠の幸福観」に目覚めることこそが、人生と社会のさまざまな問題を打開するための根本的な転換点になるのです。
本文
世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし
通解
世間の道理でも、重き恩に対しては命を捨てて報いるものである。また、主君のために命を捨てる人は少ないように思われるけれども、その数は多い。男は名誉のために命を捨て、女は男のために命を捨てる。
魚は、命を惜しむため、すみかとしている池が浅いことを嘆いて、池の底に穴を掘って棲んでいる。しかし、餌にだまされて釣り針を呑んでしまう。鳥はすみかとしている木が低いことを恐れて、木の上の枝に棲んでいる。しかし、餌にだまされて網にかかってしまう。
人もまた、これと同じである。世間の浅いことのために命を失うことはあっても、大事な仏法のためには身命を捨てることが難しい。それゆえ、仏になる人もいないのである。
解説
大聖人は、「世間の浅き事」のために命を捨てるのではなく、「大事の仏法」のためにこそ一番大事な「身命」を捧げるべきであると教えられているのです。
「不惜身命」といっても、真実の仏法は、いたずらに命を捨てる「殉教主義」などでは断じてありません。
皆さんは、尊い命を絶対に無駄にしてはいけない。青少年の皆さんも、どんなに辛いことや苦しいことがあったとしても、それに負けて自分や他人の命を粗末にするようなことが絶対にあってはならない。皆さまの命は、何ものよりも尊極な、不思議なる仏の生命だからです。
大聖人は、末法の凡夫成仏の在り方を次のように教えて下さっています。
「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(P1596白米一俵御書)
ここに究極の不惜身命があります。
「心こそ大切」です。仏法の為に正義のために「一念に億劫の辛労を尽くす」ことです。恐れなく南無妙法蓮華経を唱え抜くことであり、世界の為、未来の為人々のために懸命に信心の実証を示しきっていくことに尽きるのです。
自身の生活の時間を使って活動するのも、友人を励まし、心を尽くして仏法対話をする行動こそ「不惜身命」です。
本文
仏法は摂受折伏時によるべし譬えば世間の文武二道の如し
通解
仏法においては、摂受と折伏のどちらかを実践するのかは、「時」に応じて決まるのである。譬えていえば、世間でいう文武の二道のようなものである。
解説
ここから、末法という「時」に適った仏法の実践について明かされます。
「摂受」は、人々の機根に合わせて法を説いていく姿です。
「折伏」は、極理の南無妙法蓮華経を説ききっていく姿です。
「時によるべし」の「時」とは、時代と衆生が何を求めているかを深く洞察することによってのみ把握できるものです。
いついかなる実践にあっても、どこまでも、「折伏精神」を忘れずに行動する。これが、折伏の師匠に連なる、真正の弟子の道です。
この「時」は「摂受」は正法像法の時の事、「折伏」は末法の事です。
この御文はとても重要なので暗記して下さい。
本文
しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子薩(タ)・王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教道教を以て釈教を制止せん日には道安法師慧遠法師法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師伝教大師等の如く大小権実顕密を強盛に分別すべし
通解
それゆえ、過去の偉大な聖人のは時に応じて仏法を修行したのである。
雪山童子や薩(タ)王子は、「身を布施とすれば法を教えよう。その布施行が菩薩の修行にあたるだろう」と迫られたので身を捨てた。肉をほしがらない時に身を捨てるべきだろうか。紙のない時代には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とするべきである。
戒律を破る人や戒律を持たない人が非難され、戒律を持ち、正法を行ずる人が重んじられる時代には、さまざまな戒律を堅く持つべきである。国王が儒教うや道教を用いて仏教を弾圧しようとする時には、道安法師や、慧遠法師、法道三蔵らのように、命もかえりみず、国を諌めるべきである。
仏教の中に小乗と大乗、権教と実教、顕教と密教の違いを厳然と立て分けるべきである。
解説
過去の大聖や菩薩たちは、皆、「時」に適った修行をして仏になることができました。仏法では、「時」に適った実践を最も重視します。
仏教そのものが誕生する以前は、先達者たちは命を賭して「法」を求め抜きました。また、正法が広く人々に受け入れられている時は、仏法者は、人々がさらに正しく正法を持つように模範の姿を示さなければならない。反対に、仏教を否定し弾圧しようとする王がいる時は、身命を失う覚悟で王を諫めるべきである。
そして、仏教のなかで、諸教が入り交じって人々が混乱している時は、教えの勝劣を明快に立て分けることが急務です。今がいかなる時か。「時」に適った実践を知ることによって、はじめて仏法は正しく伝えられます。
仏法を知らない人には優しく教え、規範を示し、仏法を否定したら覚悟を決めて諌める。私たちの対人関係でも同じですね。
ここに師弟不二がないと、負けてしまいます。言い切れなかったり摂受になってしまいます。
絶対に「折伏の旗を降ろさない、信心の炎を消さない」との一念が大事になります。