2010/04/12  いま、会いにゆきます?

 ホトトギス(学名 Cuculus poliocephalus)は、カッコウ目カッコウ科に分類される鳥類の一種。
 特徴的な鳴き声(オスのけたたましい鳴き声)は「キョッキョッ キョキョキョキョ!」と鳴き、「ホ・ト・…・ト・ギ・ス」とも聞こえる。

 この鳴き声の「聞きなし」として「特許許可局」や「テッペンカケタカ」がよく知られてる。
 習性として早朝からよく鳴き、夜に鳴く事もあり、渡り鳥で日本には5月中旬頃(旧暦卯月)に飛来する。

 日本では古来から様々な文書に登場します。
 「時鳥」「霍公」「霍公鳥」「郭公」「不如帰」「子規」「蜀魂」「杜鵑」「杜宇」「田鵑」「勧農鳥」「卯月鳥」「沓手鳥」「魂迎え鳥」「恋し鳥」など、異名が多い

 万葉集では153首と沢山登場します。
 中臣宅守が詠んだ
 「霍公鳥(ほととぎす)間しまし置け(あいだしましおけ)汝が鳴けば(ながなけば)我が思ふ心(わがおもうこころ)いたもすべなし」(巻15・3785)
 ホトトギスよ。間をしばらく置いてくれ。お前が鳴くと私の恋しく思う心が増さってどうしようない。
 と鳴き声から哀愁の物悲しい例えにも、よく使われている。
 お店が繁盛しない様子を「閑古鳥が鳴く」と言うが、この閑古鳥はホトトギスの事です。

 ホトトギスは時を知る鳥として、また初夏に第一声を聞くのが喜ばしい事でもあったようです。
 同じく万葉集に
 「常人も起きつつ聞くぞ霍公鳥この暁に来鳴く初声」(巻19・4171)
 世の常の人々も寝ずに起きていて聞くものだ。ホトトギスがこの明け方に来て鳴くその初声を。
 なんとも風流ですね。

 「霍公鳥来鳴き響(とよ)めば草取らむ花橘を宿には植ゑずて」(巻19・4172)
 ホトトギスが来て鳴きたてたなら田の草を取ろう。花橘を庭先に植えてやってくるのを待っていずに。
 異名の「勧農鳥」でも判る様に、田草を取る時を知らせる鳥でもあります。
 明け方早く、夜中に鳴く鳥なのと、飛来時期が釈尊の誕生日の4月8日近くなので、仏前に添える卯の花(ウツギ)と一緒によく詠まれますね。
 なにかと仏法と縁のある鳥ですね。

 御書にも「ホトトギス」は良く登場する。
始の事なればほととぎすの初音をねをびれたる者の一音ききたるがように(開目抄上P208)
しかし始めてのことゆえ、ほととぎすの初音を寝ぼけた者が一声聞いたように(かすかだった)。
彼の時鳥は春ををくり鶏鳥は暁をまつ畜生すらなをかくのごとし(撰時抄P256)
ホトトギスは、春の終わろうとする初夏を待って鳴き、ニワトリは暁を待って鳴く。畜生ですらこのように「時」を間違えない。
南には泉の色白たへにしてかの玉川の卯の華信太の森のほととぎす夏のすがたを顕はせり(聖愚問答抄P492)
(釈尊の出家を引き止める為に)南には泉の水量が増し、玉の川べにはウツギの華が咲き、信太の森のホトトギスが鳴いて、夏の姿をあらわした。
例せば郭公の春をおくり鶏鳥の暁を待ちて鳴くが如くなり(御講聞書P807)
例えばカッコウ(ホトトギス)が春を見送って夏を待ち、ニワトリが暁を待って鳴くようなものである。
但ねざめの枕に時鳥の一音を聞きしが如くにして夢のさめて止ぬるやうに弘め給い候ぬ(四菩薩造立抄P988)
ただ寝起きの時にホトトギスの一声を聞いて目が覚めるように、夢が目覚めてて止むように、ひろめて行きなさい。
外典の賢人すら時を待つ郭公と申す畜鳥は卯月五月に限る(呵責謗法滅罪抄P1128)
外典の賢人ですら時を待つのです、カッコウ(ホトトギス)と言う鳥は時を知って初夏の五月に飛来するのです。
山はふかくみちしげければふみわくる人も候はぬにほととぎすにつけての御ひとこへありがたしありがたし(窪尼御前御返事P1478)
山は深く、道は繁っていて往来する人もそんなにいない。その様な山中ではホトトギスの一声がとてもありがたい。

 如何に「時」が大事かの例えにホトトギスが登場しますね。
 最後の窪尼御前御返事はホトトギスを使って「貴方にお会いしたい」と言外に言っているみたいですね。
 異名の「恋し鳥」が示す様に、俳句や和歌でも「会いたい」の意味で使われるようです。
 

 さて、皆さん、この初夏に「会いたい人」は居ますか?
 ホトトギスが飛来するこの時期です。
 この「時」に誰に「会い」に行きますか?
 私は、今は埼玉、静岡に会いたい人がいないか、探しています。(笑)

2010/04/05  コメント承認御返事

 ブログ等のコメント欄が承認制の場合、良く聞く意見で「いっその事コメント欄を閉鎖したら」と言うのがある。
 また、コメントを制御する為に「作為的に論調をコントロールしてる」なども聞こえる。

 これはなぜ、コメント欄を承認制にするかを理解しないと平行線になる。
 元々は「スパム」対策で承認制が出来た、そして「炎上」対策としても有効だ。
 頻繁にブログを管理をしていれば、スパムが投稿されても削除すれば良いが中々そうは出来ない。
 NGワード等で「スパム」は弾く事が出来るが、「炎上」には不向きでもある。
 「炎上」は自体はかなり昔からあって、パソコン通信時代からあったようだ。
 意見の対立が「炎上」の本質なので、意見の対立が起きなければ「炎上」も起きない。

 ネットの特徴の「匿名性」が「炎上」を増長させる要因でもあるので、そこで「匿名」について議論は何度と無くされている。
 2001年頃に議論された「黒木ルール」と言うがある。
 要約すると
 ・批判をするに辺り「匿名」は禁止。
 ・Web上に本拠地を持っていて「失言した時に恥をかく」ぐらいの自己紹介をする。
 などだ。
 しかし、これらは不特定のコメンテーターに対する「お願い」なんであって、書き込む「批判者」が「恥知らず」であるならば全く意味がない。

 それを踏まえて「津村ルール」と言うのも出て来た。
 これは
 ・匿名の批判者には答えない宣言。(愛のスルー運動等)
 だ。
 これもかなり有効だが、そのブログや掲示板の新規参入者には判り辛く反応してしまう。
 また、匿名でない批判者の扱いが難しい。
 これら2つのルールでは自由に書き込める為に、管理が行き届かないブログや掲示板では、結果炎上しやすいのも事実だ。

 最近でも『【日本の議論】ネット上は匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏の“議論”より』とネットの匿名について議論が行われている。
 匿名にしろ実名にしろ意見の対立は起きる。
 そこでいっその事コメントを承認制にして、炎上要因になりそうなコメントは載せない。
 と言う手段が取られた。
 この手法にはブログや掲示板を運営した事のある人とない人でも、意見の相違がある。
 運営側では承認制を是とし、運営しない側は非とする様に見受けられる。
 毎日来るスパムやコメントを捌くのはかなり骨の折れる作業だ。
 コメント欄を閉鎖してしまえば、労苦は激減するだろうがネットの双方向性を損なうのでブログや掲示板の存在意義が問われる事になる。
 あまりにも批判意見を載せないのも、自由な言論を損なう事にもなる。
 そこは運営者の力量を示す部分でもある。

 コメント欄が承認制であるにしろないにしろ。
 批判者のコメントを削除すると批判者は「なぜ載せない、なぜ削除する」と憤る。
 今や自身のブログや掲示板を設置する事も特殊なスキルでは無くなっている。
 ブログや掲示板の運営者に「批判」をするのならば、自身で運営してそこで飽くなき「批判」をすれば良い。
 自身は運営の労苦をしないで、他人の運営場所で「批判」するのは都合の良い話だ。

 彼ら批判者は「新聞に投稿したが私の意見が載らなかった」と言うのだろうか?
 新聞の載せる載せないは新聞社の裁量だ。
 世間はそれを「了見が狭い」とは言わない。
 通常、新聞に載らないのは、「投稿が取るに足らない」からと推察される。
 同じくブログや掲示板で意見を載せないのも運営者の自由裁量だ。
 「なぜ載せない」と躍起になるならば、その熱意を自身のブログや掲示板の運営に傾けたらより良い言論戦ができるのではと、私は思えてならない。