2010/10/30 2010年度任用試験 受験者講座
任用試験の受験者講座が開かれますね。
数回の放送ですので、参加が厳しい方も居られますね。
「sokanet」で3日から放送されますから、必ず繰り返し見て下さい。
講座で出た御文や説明から、問題が作られると思って下さいね。
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2.十界論と一生成仏十界の名称・順番を覚えましょう。
(略)
十界
「十界」とは、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです。十界の法理を学ぶことによって、境涯を的確にとらえ、各人がそれぞれの境涯を変革していく指針を得ることができます。
「十界」それぞれの名を挙げれば、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。
このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」といい、声聞・縁覚・菩蘇・仏をまとめて「四聖」といいます。「六道」は、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、もともとは生命が生死を繰り返す世界を六つに大別したものです。また「四聖」は仏道修行によって得られる境涯です。
法華経以外の経典では、地の下に地獄があると説いたり、遠く離れた所に浄土(清らかな国土)を求めるなど、十界は全く別々に存在する世界としてとらえられていました。
しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、九界の衆生に仏界が具わっていることを明かし、成仏した仏にも九界の境涯が具わることを説いて、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命に具わる10種の境涯であることを示したのです。したがって、今の瞬間に十界のいずれか一界の姿を現している生命にも十界がすべて具わっており、縁によって次の瞬間に他の界の境涯をも現しうることが明らかになります。これを十界互具といいます。
日蓮大聖人は、「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏、といふ・これにまよふを凡夫と云う」(1504ページ、通解──仏の浄らかな国土といっても、地獄といっても、外にあるのではありません。ただ我々の胸の間にあるのです.このことを悟るのを仏といい、このことに迷うのを凡夫というのです)と述べられています。凡夫と仏の違いは何か覚えましょう。
それでは、十界のそれぞれの境涯について述べます。まず、私たちの生命に具わる六道について、大聖人は観心本尊抄で次のように述べられています。三悪道と四悪趣の違いを覚えましょう。 どちらかは試験で出る確率が高いです。
「数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(241ページ)
この御文に基づき、六道の一つ一つについて述べていきます。
①地獄界
(略)
大聖人は、観心本尊抄で「瞋るは地獄」と仰せです。「瞋り」とは、思い通りにいかない自分自身や、苦しみを感じさせる周りの世界に対して抱く、やり場のない恨みの心です。苦の世界に囚われ、どうすることもできない生命のうめき声が瞋りです。いわば「生きていること自体が苦しい」、「何を見ても不幸に感じる」境涯が地獄界です。
②餓鬼界
大聖人は「餓鬼悲むくし飢渇にうへて子を食ふ」(1439ページ)、「貧るは餓鬼」と仰せです。飢えて子まで食べるというような貧り、すなわち際限のない欲望にふりまわされ、そのために心が自由にならず、苦しみを生じる境涯のことです。
もちろん、欲望そのものには善悪の両面があります。(略)しかし、欲望を創造の方向に使えず、欲望の奴隷となって苦しむのが餓鬼界です。
③畜生界
(略)
大聖人は「癡は畜生」と説かれています。因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう境涯です。
また「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」(957ページ)、「畜生は残害(傷つけ殺すこと)とて互に殺しあふ」(1439ページ)といわれるように、畜生界の生命は、理性や良心を忘れ、自分が生きるためには他者をも害する弱肉強食の生存競争に終始していく境涯です。目先のことしか見えず、未来を思考できない愚かさの故に、結局は、自己を破滅させ、苦しむのです。
(略)
◇
地獄界・餓鬼界・畜生界の三つは、いずれも苦悩の境涯なので「三悪道」といいます。
④修羅界
(略)
自分と他者を比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっているのが修羅界の特徴です。
(略)
自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人をよそおい、謙虚なそぶりすら見せることもありますが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちています。このように内面と外面が異なり、心に裏表があるのも修羅界の特徴です。
故に、大聖人は「諂曲なるは修羅」と説かれています。「諂曲」とは「諂い」「曲がった」心のことで、「諂」も「曲」も「心が曲がっている」ことです。「諂い」とは、具体的には「自分の本心を見せないで従順をよそおう」ことです。
◇
この修羅界は、貪瞋痴の三毒(貪り、瞋り、癡という三つの根本的な煩悩)にふりまわされる地獄・餓鬼・畜生の三悪道と異なり、自分の意思で行動を決めている分だけ三悪道を超えているといえます。しかし、根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣」ともいいます。
⑤人界六道と四聖の違いは、環境に影響されるか、されないかの違いです。
人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいいます。大聖人は「平かなるは人」と仰せです。
この人界の特質は、因果の道理を知り、物事の善悪を判断する理性の力が明確に働いていることです。大聖人は「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174ページ)と言われています。善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になった境涯です。
(略)
また人界の生命は「聖道正器」といわれ、仏道(聖道)を成ずることができる器であるとされています。
人界は悪縁にふれて悪道に堕ちる危険性もある半面、修行に励むことによって四聖への道を進むことができる可能性をもっているのです。
⑥天界
(略)
仏法では、天界を生命の境涯の一つとして、欲望を満たした時に感じる喜びの境涯として位置づけています。大聖人は「喜ぶは天」と仰せです。
(略)さまざまな欲望が満たされ、喜びに浸っている境地が天界です。
しかし、天界の喜びは永続的なものではありません。時の経過とともに薄らぎ、消えてしまいます。ですから天界は、目指すべき真実の幸福境涯とはいえないのです。
六道から四聖へ
以上の地獄界から天界までの六道は、結局、自身の外の条件に左右されています。
たまたま欲望が満たされた時は天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを味わえますが、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落してしまいます。
環境に左右されているという意味で、六道の境涯は、本当に自由で主体的な境涯とはいえないのです。
これに対して、その六道の境涯を超え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行です。
そして仏道修行によって得られる境涯が声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯です。
⑦声聞界声聞縁覚はなぜ「二乗」と言われるのか?
⑧縁覚界
声聞界と縁覚界の二つは、仏教のなかでも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼びます。
声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な悟りを獲得した境涯をいいます。
これに対して、縁覚界は、さまざまなものごとを縁として、自らの力で仏法の部分的な悟りを得た境涯です。
(略)
私たちも日々の生活の中で、自分自身を含めて万物が無常の存在であることを強く感ずることがあります。ゆえに大聖人は「世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや」(241ページ)と言われ、人界に二乗界が具わっているとされたのです。
この二乗の境涯は、仏教のなかでも小乗教が目標としたもので、二乗の境涯を得た小乗教の聖者は、無常のものに執着する煩悩こそ苦しみの原因であるとして、煩悩を滅しようとしました。しかし、そのために自分自身の心身のすべてを消滅させるという誤った道(灰身滅智といわれる)に入ってしまいます。
二乗が得た悟りは、仏の悟りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。(略)
また、二乗は自らの悟りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥っています。
このように、「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。
⑨菩薩界
菩薩とは、仏の悟りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味です。二乗が仏を師匠としていても、自分たちは仏の境涯には至れないとしていたのに対し、菩薩は、師匠である仏の境涯に到達しようと目指していきます。
また、仏の教えを人々に伝え弘めて人々を救済しようとします。
すなわち、菩薩の境涯の特徴は、仏界という最高の境涯を求めていく「求道」とともに、自らが仏道修行の途上で得た利益を、他者に対しても分かち与えていく「利他」の実践があることです。
(略)
この菩薩界の境涯の根本は「慈悲」です。大聖人は、観心本尊抄で 「無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」(241ページ)と仰せです。他人を顧みることのない悪人ですら自分の妻子を慈愛するように、生命には本来、慈悲が具わっています。この慈悲の心を万人に向け、生き方の根本にすえるのが菩薩界です。
⑩仏界
仏界は、仏が体現した尊極の境涯です。
仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法を覚った人のことです。(略)
日蓮大聖人は、末法の一切衆生を救うために、一個の人間として御自身の生命に仏界の境涯をあらわし、一切衆生の成仏の道を確立された末法の御本仏です。
仏界とは、自身の生命の根源が妙法であると悟ることによって開かれる、広大で福徳豊かな境涯です。この境涯を開いた仏は、無上の慈悲と智慧を体現し、その力で一切衆生に自分と等しい仏界の境涯を得させるために戦い続けます。
仏界は、私たちの生命に本来、具わっています。ただ、それを悩み多き現実生活の中で現すことは難しいので、大聖人は人々が仏界の生命を現していくための方途として御本尊を顕されました。「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ……日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124ページ)と仰せのように、御本尊に末法の御本仏・日蓮大聖人の仏界の御生命があらわされているのです。その真髄が南無妙法蓮華経です。私たちは御本尊を信じて自行化他にわたる唱題に励むときに、自身の生命の仏界を現すことができるのです。
仏界の生命と信心との深い関係について大聖人は、観心本尊抄で「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(241ページ)と言われています。法華経は万人が成仏できることを説く教えですが、その法華経を信ずることができるのは、人間としての自分の生命の中に本来、仏界が具わっているからです。
また、この大聖人の仰せを受けて日寛上人は「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と述べています。
この法華経とは末法の法華経である御本尊のことで、御本尊を信じて生き抜く「強い信心」そのものが仏界にほかならないということです。
この仏界の境涯を現代的に言うならば、何ものにも侵されることのない「絶対的な幸福境涯」といえましょう。戸田第2代会長は、信心によって得られるこの境涯について「生きていること自体が幸福であるという境涯」と述べています。
また仏界の境涯は、しばしば師子王に譬えられます。どのような状況下でも師子王のように恐れることのない、真の安心立命の境涯であるといえます。
一生成仏相対的幸福(六道天界の幸福や二乗・菩薩の幸福)では揺らいでしまいます。
信心の根本的な目的は、私たち自身が仏の境涯を得ることです。
御本尊を信受して純真に自行化他の実践に励むならば、どのような人でも必ず一生のうちに成仏の境涯を得ることができるのです。これを「一生成仏」といいます。
自行化他の「自行」とは、自分自身が利益を受けるために修行すること。「化他」とは、他人に利益を受けさせるために教え導くことです。
日蓮大聖人は「法華経の行者は如説修行せぱ必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、警えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む」(416ページ、通解──法華経の行者は、仏の説いた通りに修行するならば、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができる。譬えば、春、夏に田を作るのに、早く実る品種と遅く実る品種の違いがあっても、どちらも一年のうちには必ず収穫できるようなものである)と述べられています。
(略)
また成仏とは、他の世界に行くことではなく、あくまでもこの現実世界において、なにものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいうのです。
御書に、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」(784ページ、 通解──桜、梅、桃、李のそれぞれが、その特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると見るのである)と仰せのように、成仏とは、自分自身が本来持っている特質を生かしきって、自身をもっとも充実させていく生き方をすることです(「無作三身」とは何も飾らないそのままの姿で仏の特質をすべて具えている真実の仏のこと)。
すなわち、仏の境涯、とは、生命の全体が浄化され、本来もっている働きを十分に発揮して、様々な困難に直面しても動揺しない、力強い境涯になることをいいます。
また、成仏とはゴールに到達するということではありません。妙法を受持して、悪を減し善を生ずる戦いを続けていく、その境涯が仏の境涯なのです。間断なく広宣流布に戦い続ける人こそが仏なのです。
相対的幸福と絶対的幸福
戸田第2代会長は、幸福には「相対的幸福」と「絶対的幸福」があると述べています。
相対的幸福とは、物質的に充足したり、欲望が満ち足りた状態をいいます。しかし、欲望には際限がないし、たとえ、一時は満ち足りたようでも永続性はありません。外の条件が整った場合に成立する幸福なので、条件が崩れた場合には、その幸福も消えてしまいます。
これに対して、絶対的幸福とは、どこにいても、また、何があっても、生きていること自体が幸福である、楽しいという境涯をいいます。それは外の条件に左右されることのない幸福なので、絶対的幸福というのです。成仏とは、この絶対的幸福境涯をいいます。
現実世界に住んでいる以上、人生にさまざまな苦難はつきものです。(略)あらゆる困難を乗り越えていく生命力と智慧を身につけた人にとっては、困難が渦巻く現実世界そのものが、充実感に満ちた価値創造の場となるのです。
また、環境に依存する相対的幸福が「死」によって途絶えるのに対し、絶対的幸福である仏の境涯は、「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(724ページ、通解──我が身が、妙法の大地を生死生死とめぐり行くのである)と仰せのように、死をも超えて存続していくのです。
1.日蓮大聖人の御生涯
日蓮大聖人の御生涯──それは、全人類の不幸を根絶し、すべての人々に仏の境涯を開かせたいとの誓願と慈悲に貫かれた妙法弘通の御一生でした。そして、民衆の幸福を阻む一切の悪を責め抜き、大難につぐ大難の御生涯でもありました。
(1)誕生・出家・遊学
日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市)という漁村で誕生されました。漁業で生計を立てる庶民の出身でした。12歳から安房国の清澄寺で、教育を受けられました。
大聖人は、仏法を究めるために、16歳の時、清澄寺の道善房を師匠として出家されました。
大聖人は、鎌倉・京都・奈良等の各地の諸大寺を巡る遊学を開始し、一切経を学ぶとともに、各宗派の教義の本質を把握していかれました。その結果として、法華経こそが仏教のすべての経典のなかで最も勝れた経典であり、御自身が悟った南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要であリ、万人の苦悩を根本から解決する法であることを確認されました。そしてこの南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う 法として弘める使命を自覚されました
(2)立宗宣言
遊学によって妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、大難が起こることを覚悟のうえで、妙法弘通の実践に踏み出すことを決意されました。 そして、建長5年(1253年)4月28日の「午の時」(正午ごろ)、清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えて末法の民衆を救済する唯一の正法を宣されました。これが「立宗宣言」です。立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。この頃、みずから「日蓮」と名乗られました。
この立宗宣言の際に念仏宗の独善的な教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭の東条景信は念仏の強信者であったために激しく憤りました。
そして、大聖人に危害を加えようとしましたが、大聖人は無事、その難を免れました。
鎌倉に出られた大聖人は名越の松葉ケ谷に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。
この弘教の初期に、富木常忍・四条金吾・池上宗仲らが入信しました。
(3)立正安国論の提出と法難
大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震等の天変地異が相次ぎ、大飢鰻・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。
特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震(正嘉の大地震)は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらしました。
大聖人は、この地震を機に、世の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、駿河国(現在の静岡県中央部)にある岩本実相寺で一切経を読まれました。この時、日興上人が大聖人の弟子となっています。
そして大聖人は立正安国論を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。これが大聖人による最初の国主諌暁です。
人々が悪法への帰依を止めて正法を信受するなら平和楽土が現出するが、悪法(念仏など)への帰依を続けるなら、経文に説かれている三災七難等の種々の災難のうち、まだ起こっていない自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)の二つの災難が起こるであろうと警告し、速やかに正法に帰依するよう諌められました
立正安国論提出後ほどない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、松葉ケ谷の草庵を襲いました(松葉ケ谷の法難)。
幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
翌・弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました(伊豆流罪)。
弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時の戦闘で、門下が死亡し、大聖人も額に傷を負い、左の手を折られました(小松原の法難)。
(4)竜の口の法難と発迹顕本
文永5年(1268年)、蒙古からの国言が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。立正安国論で予言した他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのです。
そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11カ所に対して書状(十一通御書)を送り、公の場での対決を迫りました。
文永8年(1271年)に大早勉(長期間のひでり)が起こった時、極楽寺良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。
それは、もし良観が7日のうちに雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は7日の延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。
しかし、良観はみずからの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちに働きかけて、権力による弾圧を企てました。
良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。
9月10日、大聖人は幕府から呼び出されて、侍所の所司(侍所は軍事・警察を担当する役所。所司は次官のこと。長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱の尋問を受けました。
この時、大聖人は平左衛門尉に対して仏法の法理のうえから、国を治めていく一国の指導者のあるべき姿を説いて諌め られました。
2日後の文永8年(1271年)9月12日、平左衛門尉が武装した兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人は謀叛人(時の為政者に叛逆する人)のような扱いを受けて捕らえられました。この時、大聖人は、平左衛門尉に向かって「"日本の柱"である日蓮を迫害するならば、必ず自界叛逆・他国侵逼の二難が起こる」と述べて、強く諌暁されました(第2回の国主諌暁)。
大聖人は、何も取り調べがないまま、夜半に鎌倉のはずれにある竜の口に連行されました。平左衛門尉らが、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。しかし、まさに刑が執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から”まリ”のような大きな光リものが夜空を北西の方向へと走りました。兵士たちはこれに怖じ恐れて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)。
この法難は、大聖人御自身にとって極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、凡夫という迹(仮の姿)を開いて、久遠元初自受用報身如来という本地(本来の境地)を顕されたのです。これを「発迩顕本」(迹を発いて本を顕す)といいます。
この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としてのお振る舞いを示されていきます。そして、万人が根本として尊敬し、帰依していくべき御本尊を御図顕されていきました。
(5)佐渡流罪
幕府では竜の口の法難後のしばらくの間、大聖人への処遇が定まらず、約1ヵ月間、大聖人は相模国の依智(現在の神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門(佐渡国の守護代)の館に留め置かれました。
結局、佐渡流罪と決まり、大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。
他方、竜の口の法難での弾圧は、鎌倉の門下にも及び、土牢に入れられたり、追放、所領没収などの処分を受けます。そして、多数の門下が臆病と保身から大聖人の仏法に疑いを起こして退転してしまいました。
翌文永9年(1272年)1月16日、17日には、佐渡だけでなく北陸・信越等から諸宗の僧など数百人が集まり、大聖人に法論を挑んできましたが、大聖人は各宗の邪義をことごとく論破されました(塚原問答)。
2月には北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(二月騒動)。大聖人が竜の口の法難の際に予言された自界叛逆難が現実になったのです。
この佐渡流罪の間、日興上人は、大聖人に常随給仕して苦難をともにされました。
大聖人は、この佐渡の地で多くの重要な御書を著されていますが、とりわけ重要な著作が開目抄と観心本尊抄です。
文永9年2月に著された開目抄は、日蓮大聖人こそが法華経に予言された通りに実践された末法の「法華経の行者」であり、末法の衆生を救う主師親の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされているところから、「人本尊開顕の書」といわれます。
文永10年(1273年)4月に著された観心本尊抄は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かしており、「法本尊開顕の書」といわれます。
文永11年(1274年)2月、大聖人は赦免され、3月に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。4月に平左衛門尉と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈祷を邪法によって行っている幕府を強く諌めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて、蒙古の襲来は必ず年内に起こると予言されました(第3回の国主諌暁)。
この予言の通り、同年10月に蒙古の大軍が九州地方を襲ったのです(文永の役)。
これで、立正安国論で示された自界叛逆難・他国侵逼難の二難の予言が、二つとも的中したことになりました。
このように、幕府を直接に諌暁して、二難を予言し、的中させた御事跡は、これで3度目になります(1度目は立正安国論提出の時、2度目は竜の口の法難の時)。
(6)身延入山
3度目の諌暁も幕府が用いなかったため、日蓮大聖人は鎌倉を離れることを決意し、文永11年(1274年)5月に甲斐国(現在の山梨県)波木井郷の身延山に入られました。しかし、大聖人の身延入山は、決して隠棲(俗世間から離れて静かに住むこと)などではありませんでした。
身延において大聖人は撰時抄、報恩抄をはじめ、数多くの御書を執筆されて、大聖人の仏法の重要な法門を説き示されました。特に、三大秘法(本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目)を明らかにされました。
さらに、法華経の講義などを通して未来の広布を担う人材の育成に全力を注がれました。また、多くの御消息(お手紙)を書かれ、在家信徒一人一人を激励し、各人が人生の勝利と成仏の境涯が得られるよう、指導・激励を続けられました。
(7)熱原の法難と出世の本懐
日蓮大聖人の身延入山後に、駿河国(現在の静岡県中央部)の富士方面では、日興上人が中心となって折伏・弘教が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨てて、大聖人に帰依するようになりました。
そのために、地域の天台宗寺院による迫害が始まり、大聖人に帰依した人々を脅迫する事件が次々に起こいりました。
弘安2年(1279年)9月21日には、熱原の農民信徒20人が無実の罪を着せられて逮捕され、鎌倉に連行されました。農民信徒は平左衛門尉の私邸で拷問に等しい取り調べを受け、法華経の信心を捨てるよう脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました。
そして、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残る17人は居住する地域から追放されました。この弾圧を中心とする一連の法難を「熱原の法難」といいます。
農民信徒たちの不惜身命(仏道修行のためには身命を惜しまないこと)の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられて、10月1日に著された聖人御難事で、立宗以来「二十七年」目にして、「出世の本懐」を遂げられたと宣言されました。
そして、弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのです。
熱原の法難において、民衆が不惜の強き信心を表したことこそが、大聖人の大願である広宣流布成就の根本要件なのです。
また、この法難において、大聖人門下は異体同心の信心で戦いました。特に、21歳の青年・南条時光は同志を守るなど活躍ました。
(8)御入滅と日興上人への継承
弘安5年(1282年)9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸国(現在の茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行くとして、9年間住まわれた身延山を発ちました。そして、武蔵国池上(現在の東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に滞在し、後事について種々定められました。
9月25日には、病を押して、門下に対し立正安国論を講義されました。
弘安5年(1282年)10月13日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で61歳の尊い生涯を終えられたのです。
なお、大聖人は身延を発たれる前、及び御入滅の日に日興上人に付嘱されました。
日興上人はただ一人大聖人の不惜身命の広宣流布の精神と行動を受け継がれました。また広宣流布の継承者の自覚から、謗法厳誡の精神を貫き、国主諌暁を推進するとともに、御書を末法の聖典と拝して研さんを奨励し、行学の二道に励む多くの優れた弟子を輩出しました。
日蓮大聖人略年譜
貞応元年(1222年)1歳 2・16 安房国長狭郡東条郷の片海に御誕生
建長5年(1253年)32歳 4・28 清澄寺で立宗宣言
文応元年(1260年)39歳 7・16 立正安国論を北条時頼に提出し、諌暁する
直後に、松葉ヶ谷の法難(7月または8月)
弘長元年(1261年)40歳 5・12 伊豆に流罪される
文永元年(1264年)43歳 11・11 小松原の法難
文永5年(1268年)47歳 10・11 十一通御書をしたため、各所に送る
文永8年(1271年)50歳 9・12 竜の口の法難
10・10 流罪地・佐渡に向かう
文永9年(1272年)51歳 1・16、17 塚原問答
2月 鎌倉と京都で内乱(二月騒動)
2月 開目抄を著す
文永10年(1273年)52歳 4・25 観心本尊抄を著す
文永11年(1274年)53歳 3・26 佐渡から帰還され、鎌倉に着く
4・8 平左衛門尉と会見、年内の蒙古襲来を予言
5・17 身延に入る
10月 蒙古の大軍が九州を襲う(文永の役)
弘安2年(1279年)58歳 9・21 熱原の農民信徒20人が捕らえられる
10・12 一閻浮提総与の大御本尊を御建立
弘安4年(1281年)60歳 5月~ 蒙古襲来(弘安の役)
弘安5年(1282年)61歳 10・13 武蔵国の池上宗仲邸で御入滅
背景と大意解説
本抄は、弘安2年(1279年)11月6日、日蓮大聖人が身延から駿河国(静岡県中央部)の南条時光に送られたお手紙で、別名を「竜門御書」といいます。
時光は、亡き父の心を継いで、少年のころから大聖人を師匠と仰ぎ、日興上人の激励を受けながら、信心に励んできました。本抄を頂いた時は数えで21歳。駿河の青年リーダーと成長していました。
駿河一帯は、北条家の本家の領地が広がり、その権力の影響が強い地域でした。日興上人の闘争によって広宣流布が進展すると、大聖人門下への風当たりが強まり、法華経の信仰を捨てるよう、さまぎまな迫害が起こります。
弘安2年秋には、熱原の農民信徒20人が冤罪事件で逮捕され、平左衛門尉頼綱が下した非道な処断によって、最終的に3人が斬首され、殉教します。時光は、この熱原の法難に際し、弾圧を受けた同志を助けるために献身的に尽力しました。
大聖人は本抄で、魚が竜となるには竜門という滝を上らなければならないように、仏となるには命に及ぶ苦難を乗り越えなければならないと述べられ、弟子たちに、今こそ大願を起こして法華経のために身命をなげうっていくよう呼びかけられています。本文通解
願くは我が弟子等・大願ををこせ、去年去去年のやくびやうに死にし人人の・かずにも入らず、又当時・蒙古のせめに・まぬかるべしともみへず、とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじのごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ、法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云
願わくは、我が弟子たちよ、大願を起こせ。(あなたたちは)昨年、一昨年に流行した疫病で亡くなった人々の数にも入らなかった。また今、蒙古が攻めてきたら、死を免れる事が出来るとも思えない。ともかくも死は避けることが出来ない。その時の嘆きは、現在の迫害で死ぬ嘆きと変わらない。同じく死ぬのであれば、かりにも法華経の為に命を捨てなさい。それこそ露を大海に入れ、塵を大地に埋める様なものであると思いなさい。法華経第3の巻には「願わくは、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我等と衆生と、皆ともに仏道を成ぜん」と説かれている。
背景と大意解説
「開目抄」は日蓮仏法の真髄が明かされた一書です。大聖人が、極寒の流罪地・佐渡の塚原で著され、文永9年(1272年)2月、四条金吾を通して弟子一同に伝えられました。
この時期、大聖人一門は、激しい弾圧の渦中にありました。前年の9月12日、大聖人は、竜の口の頸の座に臨まれ、その翌月には、佐渡に流罪されました。弟子たちも投獄・追放・所領没収な迫害を受け、「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(907ページ)と言われるほどの打撃を受けました。
世間の人々や動揺した弟子たちからは「大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ諸天の加護がないのか」と厳しい批判が起こりました。こうした批判を一掃し、末法の衆生を救いゆく、「法華経の行者」の真実に目を開かせるために、本抄は著されました。
まず冒頭では、一切衆生が尊敬すべきものは主師親であるという本抄の主題を示され、儒教・外道・仏教の主師親について検討されます。続いて、仏教において一代の経々の勝劣を検証され、法華経の本門寿量品に示された一念三千こそ究極の成仏の法であることを明らかにされます。その際、大難が競うのを承知のうえで、末法にこの法を説き始めた覚悟を述べられます。
続いて「なぜ諸天の加護がないのか」という批判に答えられ、「三類の強敵」が国中に充満しているのは法華経に照らして明白であり、「法華経の行者」は、この強敵と戦う大聖人以外にないことを示されます。
そして、諸天の加護がどうあれ、妙法を弘めて日本の柱・眼目・大船となろうという誓願に生き抜く覚悟を示され、弟子たちには、どんな難があろうと信心を貫き通していけば必ず仏界に至るという末法の成仏の道を教えられます。
そして「法華経の行者」として生き抜かれる大聖人こそ「日本国の人々にとって主師親たる存在であると結論されるのです。本文通解
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである。
天の加護がないからと信仰を疑ってはならない。現世が安穏でないからと嘆いてはならない。
私の弟子に朝に夕に教えてきたけれども、疑いを起こして、皆、法華経を捨ててしまったようだ。愚かな者の常として、約束したことを大事な時に忘れてしまうものである。
背景と大意解説
本抄は、日蓮大聖人が、佐渡の門下の阿仏房に送られたお手紙です。
佐渡流罪中の文永9年(1272年)の御執筆とする説がありましたが、現在の研究では、身延に入山して1、2年のころと推測されています。
阿仏房は、その名から、もともと念仏の強信者ではなかったか,と推察されます。
大聖人が流罪を赦免されるまでの2年余り、妻の千日尼とともに、命懸けで大聖人をお守りし、その生活を支え続けました。
大聖人の身延入山後も、高齢にもかかわらず、幾度も身延を訪れています。
本抄で、大聖人は、法華経の見宝塔品第11で出現する宝塔の真の意義を明かされています。
宝塔品の冒頭では、七宝に飾られた巨大な宝塔が、突如として大地から出現し、空中に浮かびます。
さらに、その中から多宝如来が現れ、法華経を説いていた釈尊を招き入れて、虚空会の儀式が始まります。
この宝塔は何を表現しているのでしょうか──阿仏房から寄せられた質問に対し、大聖人は、末法において法華経を持つ者のほかに宝塔はないと仰せになり、南無妙法蓮華経と唱える者は、身分や立場にかかわらず誰であろうと宝塔であると教えられます。
さらに、宝塔とは南無妙法蓮華経にほかならないと御教示されます。
そのうえで、阿仏房自身が宝塔であり、三身即一身の本覚の如来、すなわち本来、智慧と慈悲を生命に具えた仏であると述べられます。
さらに、この教えを深く信じて題目を唱え抜くところこそ宝塔の住処であると教えられ、阿仏房夫妻に、宝塔を書き表した御本尊を授ける旨を明かされます。
最後に、阿仏房を「北国の導師」と呼ばれ、使命の地で広布に励む信心を賞讃されています。本文通解
末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり
末法に入って、法華経を持つ男女の姿よりほかには宝塔はないのである。
もし、そうであるならば、身分の貴さや賎しさ、立場の上と下といった差別なく、南無妙法蓮華経と唱える人は、その人の身が宝塔であり、また、その人の身が多宝如来なのである。
妙法蓮華経よりほかに宝塔はない。法華経の題目が宝塔であり、宝塔はまた南無妙法蓮華経である。