2010/10/19  2010年度任用試験 教学入門「日蓮大聖人の御生涯」

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 教学入門「日蓮大聖人の御生涯」
 文中の日蓮大聖人の年齢は全て「数え年」で記します。
 そのまま、丸暗記が多いですが、概略だけでも覚えて下さい。
 「立正安国論の提出の後に、松葉ケ谷の法難」といった感じです。
 また、各章ごとの年号も出題されやすいです。
 「(4)竜の口の法難と発迹顕本」なら「文永8年(1271年)9月12日」と言った感じです。

1.日蓮大聖人の御生涯
日蓮大聖人の御生涯──それは、全人類の不幸を根絶し、すべての人々に仏の境涯を開かせたいとの誓願と慈悲に貫かれた妙法弘通の御一生でした。そして、民衆の幸福を阻む一切の悪を責め抜き、大難につぐ大難の御生涯でもありました。
(1)誕生・出家・遊学
 日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県鴨川市)という漁村で誕生されました。漁業で生計を立てる庶民の出身でした。12歳から安房国の清澄寺で、教育を受けられました。
 大聖人は、仏法を究めるために、16歳の時、清澄寺の道善房を師匠として出家されました。
 大聖人は、鎌倉・京都・奈良等の各地の諸大寺を巡る遊学を開始し、一切経を学ぶとともに、各宗派の教義の本質を把握していかれました。その結果として、法華経こそが仏教のすべての経典のなかで最も勝れた経典であり、御自身が悟った南無妙法蓮華経こそが法華経の肝要であリ、万人の苦悩を根本から解決する法であることを確認されました。そしてこの南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う 法として弘める使命を自覚されました

(2)立宗宣言
 遊学によって妙法弘通の使命とその方途を確認された大聖人は、大難が起こることを覚悟のうえで、妙法弘通の実践に踏み出すことを決意されました。 そして、建長5年(1253年)4月28日の「午の時」(正午ごろ)、清澄寺で、念仏などを破折するとともに、南無妙法蓮華経の題目を高らかに唱えて末法の民衆を救済する唯一の正法を宣されました。これが「立宗宣言」です。立宗とは宗旨(肝要の教義)を立てることです。32歳の時でした。この頃、みずから「日蓮」と名乗られました。
 この立宗宣言の際に念仏宗の独善的な教義を厳しく批判した大聖人に対し、地頭の東条景信は念仏の強信者であったために激しく憤りました。
 そして、大聖人に危害を加えようとしましたが、大聖人は無事、その難を免れました。
 鎌倉に出られた大聖人は名越の松葉ケ谷に草庵を構えて、本格的に弘教を開始されました。
 この弘教の初期に、富木常忍・四条金吾・池上宗仲らが入信しました。

(3)立正安国論の提出と法難
 大聖人が鎌倉での弘教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震等の天変地異が相次ぎ、大飢鰻・火災・疫病(伝染病)などが続発していました。
 特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震(正嘉の大地震)は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらしました。
 大聖人は、この地震を機に、世の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世に示すため、駿河国(現在の静岡県中央部)にある岩本実相寺で一切経を読まれました。この時、日興上人が大聖人の弟子となっています。
 そして大聖人は立正安国論を著され、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出されました。これが大聖人による最初の国主諌暁です。
 人々が悪法への帰依を止めて正法を信受するなら平和楽土が現出するが、悪法(念仏など)への帰依を続けるなら、経文に説かれている三災七難等の種々の災難のうち、まだ起こっていない自界叛逆難(内乱)他国侵逼難(他国からの侵略)の二つの災難が起こるであろうと警告し、速やかに正法に帰依するよう諌められました
 立正安国論提出後ほどない、ある夜、念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと、松葉ケ谷の草庵を襲いました(松葉ケ谷の法難)
 幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。
 翌・弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえ、伊豆の伊東への流罪に処しました(伊豆流罪)。
 弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。
 文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時の戦闘で、門下が死亡し、大聖人も額に傷を負い、左の手を折られました(小松原の法難)。

(4)竜の口の法難と発迹顕本
 文永5年(1268年)、蒙古からの国言が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵力を用いるとの意が示されていました。立正安国論で予言した他国侵逼難が、現実のものとなって迫ってきたのです。
 そこで大聖人は、時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧ら、あわせて11カ所に対して書状(十一通御書)を送り、公の場での対決を迫りました。

 文永8年(1271年)に大早勉(長期間のひでり)が起こった時、極楽寺良観が、祈雨(雨乞い)をすることになりました。そのことを聞かれた大聖人は、良観に申し入れをされました。
 それは、もし良観が7日のうちに雨を降らせたなら、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏(帰順し従うこと)せよ、というものでした。
 その結果は、良観の祈雨が行われた最初の7日間は雨は一滴も降らず、良観は7日の延長を申し入れて祈りましたが、それでも雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。
 しかし、良観はみずからの敗北を素直に認めず、大聖人に対する怨みをさらに募らせ、配下の念仏僧の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちに働きかけて、権力による弾圧を企てました。
 良観は、当時の人々から、徳のある高僧として崇められていました。しかし、実際には権力と結託して、権勢におごっていたのです。
 9月10日、大聖人は幕府から呼び出されて、侍所の所司(侍所は軍事・警察を担当する役所。所司は次官のこと。長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱の尋問を受けました。
 この時、大聖人は平左衛門尉に対して仏法の法理のうえから、国を治めていく一国の指導者のあるべき姿を説いて諌め られました。
 2日後の文永8年(1271年)9月12日、平左衛門尉が武装した兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人は謀叛人(時の為政者に叛逆する人)のような扱いを受けて捕らえられました。この時、大聖人は、平左衛門尉に向かって「"日本の柱"である日蓮を迫害するならば、必ず自界叛逆・他国侵逼の二難が起こる」と述べて、強く諌暁されました(第2回の国主諌暁)
 大聖人は、何も取り調べがないまま、夜半に鎌倉のはずれにある竜の口に連行されました。平左衛門尉らが、内々で大聖人を斬首することを謀っていたのです。しかし、まさに刑が執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から”まリ”のような大きな光リものが夜空を北西の方向へと走りました。兵士たちはこれに怖じ恐れて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)
 この法難は、大聖人御自身にとって極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、凡夫という迹(仮の姿)を開いて、久遠元初自受用報身如来という本地(本来の境地)を顕されたのです。これを「発迩顕本」(迹を発いて本を顕す)といいます。
 この発迹顕本以後、大聖人は末法の御本仏としてのお振る舞いを示されていきます。そして、万人が根本として尊敬し、帰依していくべき御本尊を御図顕されていきました。

(5)佐渡流罪
 幕府では竜の口の法難後のしばらくの間、大聖人への処遇が定まらず、約1ヵ月間、大聖人は相模国の依智(現在の神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門(佐渡国の守護代)の館に留め置かれました。
 結局、佐渡流罪と決まり、大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、11月1日に佐渡の塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂(葬送用の堂)に入りました。
 他方、竜の口の法難での弾圧は、鎌倉の門下にも及び、土牢に入れられたり、追放、所領没収などの処分を受けます。そして、多数の門下が臆病と保身から大聖人の仏法に疑いを起こして退転してしまいました。
 翌文永9年(1272年)1月16日、17日には、佐渡だけでなく北陸・信越等から諸宗の僧など数百人が集まり、大聖人に法論を挑んできましたが、大聖人は各宗の邪義をことごとく論破されました(塚原問答)。
 2月には北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(二月騒動)。大聖人が竜の口の法難の際に予言された自界叛逆難が現実になったのです。
 この佐渡流罪の間、日興上人は、大聖人に常随給仕して苦難をともにされました。
 大聖人は、この佐渡の地で多くの重要な御書を著されていますが、とりわけ重要な著作が開目抄観心本尊抄です。
 文永9年2月に著された開目抄は、日蓮大聖人こそが法華経に予言された通りに実践された末法の「法華経の行者」であり、末法の衆生を救う主師親の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされているところから、「人本尊開顕の書」といわれます。
 文永10年(1273年)4月に著された観心本尊抄は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かしており、「法本尊開顕の書」といわれます。
 文永11年(1274年)2月、大聖人は赦免され、3月に佐渡を発って鎌倉へ帰られました。4月に平左衛門尉と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈祷を邪法によって行っている幕府を強く諌めるとともに、平左衛門尉の質問に答えて、蒙古の襲来は必ず年内に起こると予言されました(第3回の国主諌暁)
 この予言の通り、同年10月に蒙古の大軍が九州地方を襲ったのです(文永の役)。
 これで、立正安国論で示された自界叛逆難・他国侵逼難の二難の予言が、二つとも的中したことになりました。
 このように、幕府を直接に諌暁して、二難を予言し、的中させた御事跡は、これで3度目になります(1度目は立正安国論提出の時、2度目は竜の口の法難の時)

(6)身延入山
 3度目の諌暁も幕府が用いなかったため、日蓮大聖人は鎌倉を離れることを決意し、文永11年(1274年)5月に甲斐国(現在の山梨県)波木井郷の身延山に入られました。しかし、大聖人の身延入山は、決して隠棲(俗世間から離れて静かに住むこと)などではありませんでした。
 身延において大聖人は撰時抄、報恩抄をはじめ、数多くの御書を執筆されて、大聖人の仏法の重要な法門を説き示されました。特に、三大秘法(本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目)を明らかにされました。
 さらに、法華経の講義などを通して未来の広布を担う人材の育成に全力を注がれました。また、多くの御消息(お手紙)を書かれ、在家信徒一人一人を激励し、各人が人生の勝利と成仏の境涯が得られるよう、指導・激励を続けられました。

(7)熱原の法難と出世の本懐
 日蓮大聖人の身延入山後に、駿河国(現在の静岡県中央部)の富士方面では、日興上人が中心となって折伏・弘教が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨てて、大聖人に帰依するようになりました。
 そのために、地域の天台宗寺院による迫害が始まり、大聖人に帰依した人々を脅迫する事件が次々に起こいりました。
 弘安2年(1279年)9月21日には、熱原の農民信徒20人が無実の罪を着せられて逮捕され、鎌倉に連行されました。農民信徒は平左衛門尉の私邸で拷問に等しい取り調べを受け、法華経の信心を捨てるよう脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました
 そして、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残る17人は居住する地域から追放されました。この弾圧を中心とする一連の法難を「熱原の法難」といいます。
 農民信徒たちの不惜身命(仏道修行のためには身命を惜しまないこと)の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられて、10月1日に著された聖人御難事で、立宗以来「二十七年」目にして、「出世の本懐」を遂げられたと宣言されました。
 そして、弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのです。
 熱原の法難において、民衆が不惜の強き信心を表したことこそが、大聖人の大願である広宣流布成就の根本要件なのです。
 また、この法難において、大聖人門下は異体同心の信心で戦いました。特に、21歳の青年・南条時光は同志を守るなど活躍ました。

(8)御入滅と日興上人への継承
 弘安5年(1282年)9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸国(現在の茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行くとして、9年間住まわれた身延山を発ちました。そして、武蔵国池上(現在の東京都大田区)にある池上宗仲の屋敷に滞在し、後事について種々定められました。
 9月25日には、病を押して、門下に対し立正安国論を講義されました。
 弘安5年(1282年)10月13日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で61歳の尊い生涯を終えられたのです。
 なお、大聖人は身延を発たれる前、及び御入滅の日に日興上人に付嘱されました。
 日興上人はただ一人大聖人の不惜身命の広宣流布の精神と行動を受け継がれました。また広宣流布の継承者の自覚から、謗法厳誡の精神を貫き、国主諌暁を推進するとともに、御書を末法の聖典と拝して研さんを奨励し、行学の二道に励む多くの優れた弟子を輩出しました。


日蓮大聖人略年譜
貞応元年(1222年)1歳 2・16 安房国長狭郡東条郷の片海に御誕生
建長5年(1253年)32歳 4・28 清澄寺で立宗宣言
文応元年(1260年)39歳 7・16 立正安国論を北条時頼に提出し、諌暁する
                    直後に、松葉ヶ谷の法難(7月または8月)
弘長元年(1261年)40歳 5・12 伊豆に流罪される
文永元年(1264年)43歳 11・11 小松原の法難
文永5年(1268年)47歳 10・11 十一通御書をしたため、各所に送る
文永8年(1271年)50歳 9・12 竜の口の法難
               10・10 流罪地・佐渡に向かう
文永9年(1272年)51歳 1・16、17 塚原問答
               2月 鎌倉と京都で内乱(二月騒動)
               2月 開目抄を著す
文永10年(1273年)52歳 4・25 観心本尊抄を著す
文永11年(1274年)53歳 3・26 佐渡から帰還され、鎌倉に着く
                4・8 平左衛門尉と会見、年内の蒙古襲来を予言
                5・17 身延に入る
                10月 蒙古の大軍が九州を襲う(文永の役)
弘安2年(1279年)58歳 9・21 熱原の農民信徒20人が捕らえられる
               10・12 一閻浮提総与の大御本尊を御建立
弘安4年(1281年)60歳 5月~ 蒙古襲来(弘安の役)
弘安5年(1282年)61歳 10・13 武蔵国の池上宗仲邸で御入滅

 年号や日付など覚える事が多いのが「大聖人の御生涯」です。
 最後の略年譜だけでも絶対に暗記しましょう。

 物語として、大聖人の御生涯を想像してみるのも手です。
 「佐渡の塚原で寒そうにしている大聖人と、一生懸命にお世話する日興上人」といった感じです。
 日蓮大聖人の事績の聖歳は、過去あまり問題になってません。(何歳の時に何があったか)
 みんなでワイワイと想像しながら話すと覚えやすいです。(他の事と関連付けると覚え易い)

 この「日蓮大聖人の御生涯」は試験日まで繰り返し読んで下さいね。

22:00:00

コメント

Posted on 2010/10/24 20:27:12 by 赤ポス

法難を覚えるのに先輩に
『ま・い・こ・たつ・さ』(笑)って覚えてね。って習いました^^

実践用教学というよりは試験用教学(笑)やなぁと思いましたが、その時はその時で(笑)出題されてたのでラッキーでした^^

Posted on 2010/10/29 13:20:14 by JunkDark

 赤ポスさん、返事が遅れました。m(_ _)m

 どうしても、教学試験は「試験用教学」になりがちですね。
 教学試験の本番は試験までの、「勉強会」な気がします。
 途中途中に「これこれは、何何」の説明よりも「オレこん時修羅界でさぁ」と体験を話した時が楽しい「身になった実践用教学」なんでしょうね。(笑)

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