2008/10/27  五重の相対 種脱相対

5.種脱相対
仏の生命が永遠であることは解りましたが、それでは、どうすれば、その常に存在しているという仏界を湧現させればよいのか? ということが大切です。
実は、釈尊の法華経では、どのように修行すれば仏と成れるかが、説かれていないのです。

それでは、どうして法華経によって、二乗も、悪人も、女人も成仏できたのでしょうか?
「種脱」(しゅだつ)とは「下種益」(げしゅえき)と「脱益」(だつえき)の事です。これについて、まず説明します。

例えば、ある土地に水をやり肥料を与えたとします。すると、やがて芽がでて、花が咲きます。釈尊の法華経は、この水や肥料にあたるのです。
「下種」とは、仏が衆生に初めて成仏の種子となる法を教えることをいい、その法を聞くことによって衆生の生命に成仏の種子が植えられる利益を「下種益」といいます。

しかし、ここで気を付けなければならないのは、花が咲いたのは、あくまでも、その土地に、その花の種が植わっていたからです。種も植えていないのに、どんなに一生懸命、水をやり肥料を与えても、花は咲きません。
仏に成るのも同じことなのです。已に成仏の種が生命に備わっている状態の衆生が、釈尊の法華経を聞くと、「ああ、そうだった。思い出した。」といって仏になれるのです。しかし、成仏の種が備わっていない衆生には、何の意味もありません。
仏は衆生を教化する際、下種、調熟(じょうじゅく)、得脱(とくだつ)という過程を経ます。
下種、つまり成仏の種が備わっている衆生は、調熟し、得脱することができます。

釈迦在世の衆生や、正法、像法時代の釈尊に縁している衆生(つまり、釈尊によって仏の植えられている衆生)は、釈尊の仏法(下種した衆生を調熟し得脱させるので、脱益仏法といいます)で成仏できたのですが、末法時代にはいると、下種された衆生がいないので、調熟し得脱させる前に下種しなければなりません。

このことが、釈尊の法華経には「どのように修行すれば仏と成れるか?」という成仏する為の修行方法が説かれていない理由です。末法では釈尊の仏法は意味がないのです。

寿量品に、「我本行菩薩道」(我もと菩薩の道を行じ)とあるのは、釈尊も、仏に成るための修行をしたということであり、釈尊も数多くの仏の一人であり、釈尊を仏にした根源的な法があることを示しています。

日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。
その法が、釈尊を成仏せしめ、またあらゆる仏を成仏させた仏種です。
日蓮大聖人はこの根源の仏種を南無妙法蓮華経として顕し、弘められました。
末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し唱えることにより、自身の生命に仏種が下され、初めて成仏することができるのです。

このことを日蓮大聖人は
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(P249)
と述べられています。
「彼」とは法華経文上の本門、「此れ」とは文底独一本門のことです(なお、「一品二半」とは法華経本門の中心となる部分で、寿量品の一品とその前後の半品ずつのことです)。
百六箇抄
「下種三種法華の本迹 二種は迹なり一種は本なり、迹門は隠密法華・本門は根本法華・迹本文底の南無妙法蓮華経は顕説法華なり」(P865)

本因妙抄
「問うて云く寿量品・文底の大事と云う秘法如何、答えて云く唯密の正法なり秘す可し秘す可し一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり、権実は理今日本迹理なり本迹は事久遠本迹事なり、亦権実は約智約教一代応仏本迹本迹は約身約位久遠本迹亦云く雖脱在現・具騰本種といへり、釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり理は造作に非ず故に天真と曰い証智円明の故に独朗と云うの行儀・本門立行の血脈之を注す秘す可し秘す可し」(P877)


大聖人の下種仏法によって、成仏の種子を衆生の生命に植えることが可能になり、すべての衆生が一生のうちに種熟脱を具えて仏界の生命を現し、成仏していける道が開かれたのです。
これこそが、「南無妙法蓮華経」なのです。ですから、法華経の文の底、つまり、文章の中に南無妙法蓮華経の存在を示唆しているということを、文底秘沈というのです。

末法においては「下種仏法」である、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経だけが、成仏の根源の法なのです。

2008/10/27  五重の相対 本迹相対

4.本迹相対
法華経は全部で二十八品あり、私たちが朝晩の勤行で唱えているのが、その2番目の方便品と16番目の寿量品です。
だから、方便品第二とか、寿量品第十六というのです。法華経は全部で28品ですから、半分に分けると14品ずつですので、1~14と15~28ということになります。
前半14品の迹門と後半14品の本門に立て分け、両者を教判して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。
本迹の本とは本地(=仏・菩薩の本来の境地)、迹とは垂迹(=衆生教化のために現した仮の姿)という意味です。
法華経の後半十四品は釈尊が仏としての真実の境地(本地)を顕した法門なので本門といい、前半十四品はまだ本地を顕さず、仮の姿のままなので迹門といいます。

私たちがいつも唱えているのは、法華経迹門の2番目の方便品と法華経本門の2番目である寿量品ということになります。この二つを唱えるのは、これが迹門と本門を代表する要品だからです。
月水御書
「寿量品方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」(P1202)


法華経では二乗や悪人、女人が成仏できることを示したと書きましたが、そのことが書かれているのは迹門です。
それは、すべての生命に仏界が備わることを示したからです。具体的には、方便品の「諸法実相」という言葉がそれにあたるのですが、しかし、それは理論の上の話であり、どうしてすべての生命に仏界が備わっているといえるのかは、明らかにされていません。
なぜなら、法華経迹門までの教えでは、仏といえば釈尊のことであり、仏界が自身の生命にあるということは、自分と釈尊は同じように立派な仏であるということになり、到底信じることはできないからです。
釈尊という仏は、あくまでも30歳の時にインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて悟りを得たことになっています。
過去世において、釈尊が仏であったとは一言も触れられていないのです。このことを「始成正覚」(しじょうしょうかく)といいます。
つまり、仏という生命が永遠に続くものであることが明らかではないのです。

それが、本門に入ると、実は釈尊が成仏したのは、迹門までで言っていた始成正覚ではなく、久遠の昔の過去世において、已に成仏していたことが明かされるのです。これを「久遠実成」(くおんじつじょう)といいます。

長行を知ってる方は覚えてますか?
寿量品で「我実成仏以来無量無辺…」(我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。)とあります

自我偈にも「自我得佛來所經諸劫數。無量百千萬億載阿僧祇。常説法教化無數億衆生。令入於佛道爾來無量劫。以度衆生故方便現涅槃。而實不滅度常住此説法。」(我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数。無量百千万 億載阿僧祇なり。常に法を説いて 無数億の衆生を教化して。仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり。衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く。」

これによって、仏の生命は、ある日突然顕れたものではなく、実は常に存在しているもの、過去・現在・未来の三世永遠にわたって、常住であることが示されたのです。このことが明かされて初めて、一切衆生の生命に仏界が備わることが、事実の上で示されたことになるので、本門を「事の一念三千」というのです。

事実として明かされたから「事」です。それに対して、迹門では理論的に誰にでも仏界があることが明かされていますから、迹門を「理の一念三千」といいます。
永遠の生命観は本質的には法華経本門に至って、明かされたといえるでしょう。
仏の本地である久遠実成を明かした本門の方が、仏の垂迹である始成正覚のままであった迹門に比べて優れているのです。
権実相対において、法華経が仏界を顕わしていると述べましたが、迹門が「生命に仏界がある」といっているだけであるのに対して、本門では「仏界は三世常住であり、常に如何なる場合でも仏界が存在する」ことが明かされているのです。
すべての生命に仏界があるだけでなく、常にいかなる時でも仏界があることを示したのが本門であるといえるでしょう。

2008/10/27  五重の相対 権実相対

3.権実相対
大乗教といっても、浄土宗も真言宗も禅宗もみんな大乗教に基づいています。釈尊の残した様々な経典の中でどれが一番優れているのか。
権実相対とは、仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教(華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経など)に立て分け、権大乗教よりも実大乗教が勝ることを示したものです。権とは仮の意、実とは真実の意です。

大乗教典の華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経などの法華経以外の諸経では、二乗(=声聞・縁覚)の成仏や、悪人・女性の成仏を否定しています。また、その他の人々についても成仏のためには何度も生まれ変わって修行を積み重ねなければならないとしています。
さらにいえば、人はうまれながらにして、あなたは声聞界の人、あなたは縁覚界の人、あなたは人界の人という風に分けられていたことになります。
ですから、他の人を救っていこうとする大乗教であっても救えない人がいた訳です。


しかし、実際には、一人の生命の中に、声聞界も縁覚界も、地獄界も、菩薩界もあるというのが、本来の姿です。このことを、十界互具といい、一念三千の法門というのです。このことを説いたのが法華経なのです。

声聞界や縁覚界に執着していた小乗教の教えを捨てさせるために、方便として権大乗教では、二乗は成仏できないとしたのです。そして、今度は、全ての生命に仏界があることを示すために法華経が説かれ、方便である権教では、真実の幸福が得られないのです。
開目抄 上
「法華経計り教主釈尊の正言なり三世・十方の諸仏の真言なり、大覚世尊は四十余年の年限を指して其の内の恒河の諸経を未顕真実・八年の法華は要当説真実と定め給しかば多宝仏・大地より出現して皆是真実と証明す」(P188)
このように、実教である法華経と権教である他の大乗教を比較したのが、権実相対です。
十界の次元から考えれば、権大乗教は菩薩界を目指したのに対し、法華経は仏界を顕わしたことになります。

*内外相対も、大小相対も正しいものが最初に来ていますが、権実相対だけは、権の字が先に来ますので注意してください。

2008/10/27  五重の相対 大小相対

2.大小相対
内道(仏教)というのは、自己の生命の変革を目指す宗教という事になりますが、人間の苦悩のことを煩悩といいます。
この煩悩をどのように解決するのかによって、修行方法は大きく異なります。
これを「小乗教」と「大乗教」に2つに分けます。
「乗」とは、乗り物の意味で、仏の教えが、人々を迷いと苦悩から悟りの境地へと運び、導くので、乗り物に譬えました。その大小を教相判釈するので「大小相対」といいます。

苦悩の原因は自分自身の煩悩にあると説き、苦悩を解決するには煩悩を滅する以外にないとして、厳しい戒律と修行による解脱(=悟りによる苦悩からの解放)を求めました。これを「小乗教」と言います。
これは、煩悩を解決する道(因果)を自分の生命の内に求める点では正しいと言えます。
しかし心身を滅すること(因)によって煩悩を完全になくした境地(果)を目指す(因が無ければ、果も無くなる)生き方は、結局、生命自体を否定することになり、真実の救いにはなりません。
またこの修行は灰身滅智(けしんめっち=身を焼いて灰にし、智慧を断滅していく)の教えであると批判されました。

灰身滅智は、誰でもできる修行ではなく、優れた人物でなければ、その修行に耐えられませんし、他の人にも同じような修行をするように勧めることもできません。
ですから、救える人が少ないので、小乗教(小さい乗り物の教え)なのです。

これに対して、大乗教は、自分も他人もともに幸福になろうとする菩薩のための教えです。
大乗教は、自分の救いを求めるだけでなく、他の多くの人々を救うことを目指すものです。
大乗教では、小乗教のように煩悩を排除するのではなく、煩悩のある生命に菩提(=悟り)の智慧を現して、その智慧によって煩悩を正しくコントロール(制御)し、清浄で力強い生命主体(仏界)を確立することを教えています。これを煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)といいます。
煩悩即菩提は、煩悩をコントロールし、ありのままの生命を見つめることになりますから、誰にでもできる修行に通じ、他人にも伝えてともどもに幸福になろうとすることができます。
ですから、大乗教(大きな乗り物の教え)といいます。
乙御前御消息
「小乗経と申す経は世間の小船のごとく、わづかに人の二人三人等は乗すれども百千人は乗せず。設ひ二人三人等は乗すれども、此岸につけて彼岸へは行きがたし。又すこしの物をば入るれども、大なる物をば入れがたし。大乗と申すは大船なり」(P1218)
小乗教とは、釈尊滅後、多くの部派に分かれて展開された部派仏教の教説がそれに当たります。
小乗教の経典(小乗経)としては阿含経を用い、論(教理を体系づけた理論書)としては倶舎論などが著されました。
これに対して、紀元前後から小乗教を批判しつつ、釈尊の精神に立ち戻る仏教ルネサンス運動として展開されたのが大乗教です。
大乗教の経典(大乗経)としては華厳経、般若経、阿弥陀経、大日経、法華経などがあり、論としては大智度論などが有名です。

また、仏教は、アジアに弘まりましたが、インドから、ビルマ、タイと東南アジアにひろまったのが小乗教であり、阿含教、上座部仏教といいます。
それに対し、ガンダーラから、シルクロードを通って、中国、朝鮮、日本と伝わったのが、大乗仏教です。

小乗教は、出家して修行し、自分だけが悟ることを目指す二乗(=声聞、縁覚)のための教えです。これは小さな範囲の人々しか救えないという意味で、小さな乗り物に譬えるのです。
十界の次元から考えれば、声聞界や縁覚界(二乗)を目指すのが小乗教です。それに対し、菩薩界を目指すのが大乗教です。

結果的に自分の幸福だけを考えるのか(小乗教)、他人の幸福をも目指すのか(大乗教)、という違いになります。

2008/10/25  五重の相対 内外相対

1.内外相対
仏教を中心として一切の思想・宗教を判定するのですから、最初に、仏教と、それ以外の一切の思想・宗教を比較します。
仏教と仏教以外の宗教の最大の違いは何か?
それは、幸不幸の原因すなわち生命の因果を、自己の生命の中に求めるのか(内道)、それとも神や運命のような自己の生命以外に求めるのか(外道)、という点です。


生命の内と外の違いだから、仏教と仏教以外の宗教を比較することを「内外相対」といいます。
いうまでもなく、内道(仏法)が優れています。
開目抄 上
「外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし」(P188)

仏法(内道)は因果を説きます。人間の幸不幸に関わる因果を説きます。
どうすれば幸せ(成仏)と言う「果(結果)」をつかめるか「因(方法)」を説きます。

仏教以外の諸宗教(外道)はその因果を説かないか、説いても偏った因果観にとどまっています。
儒教・道教は、現世だけを見て、過去世・現在世・未来世の三世の因果を説きません。
インドの諸宗教(バラモン教など)には三世の因果を説くものもありますが、それは過去世の原因によって今世に得られる幸・不幸の結果(境涯)が決まっているという運命論・決定論にとどまっており、今世における変革の可能性は説きません。
輪廻と言う概念はバラモン教から入ってきたと思われますが、わずかに神などの力で、天に生まれ変わることができると説くに過ぎません。
十界の次元から考えれば、天(天界)を目指すのは外道です。だから、外道では六道(地獄から天界)輪廻してしまうのです。【類似:十界】
仏教以外の教えには、このほかに因果そのものを否定する説なども含めて、さまざまな因果説がありますが、いずれも偏った因果観であると言わざるをえません。

それに対して仏教(内道)では、人間の内面に変革の可能性がある事、今世の行いによって、苦悩を安心へ、不幸を幸福へと転換できることを説きます。

2008/10/24  五重の相対 はじめに

折伏現場での対話中に「仏教なんて、みんな一緒でしょ、何が違うの?」と言われたことはありませんか?
仏教といっても色々あるんですが、大抵の人は知りません。
特に日本人は宗教に対して大雑把+ごった煮なので特殊な宗教観を持っている方が多いように感じます。

年末年始は特にクリスマスに始まり、正月はお年玉で「儒教」初詣で「神道」と大概に宗教を意識せずに儀式をしています。
まぁ、中には商業的なイベントもありますので致し方ないのかもしれません。


仏教を中心とする、一切の思想、宗教の内容のことを「教相(きょうそう)」といいます。
そして、その内容を比較し優劣を判定することを、「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」つまり、「教判(きょうはん)」といいます。


日蓮大聖人の教判は、五段階に比較するので、「五重の相対(ごじゅうのそうたい)」といいます。そして、この「五重の相対」は、人本尊開顕の書「開目抄 上」において明かされました。

ですから、「五重の相対」は日蓮仏法の根幹中の根幹であり、とりわけ、末法の御本仏である日蓮大聖人の仏法こそが、一切の思想の中で最も優れた法であることを客観的に判定することができます。

五重とは「内外(ないげ)相対」「大小(だいしょう)相対」「権実(ごんじつ)相対」「本迹(ほんじゃく)相対」「種脱(しゅだつ)相対」の五段階の相対つまり比較の事です。

ちなみに天台大師は五時八教(ごじはっきょう)で教相判釈をし「法華経」が最勝としました。(五時八教は後日勉強しましょう)

次回は内外相対です。

2008/10/23  如説修行

我々が仏法を学び、信心をするのは何の為でしようか?
簡単に言うと「成仏」の為です。
成仏とは「仏に成る」ということではありません。

日蓮大聖人は「成とは開く義なり」と仰せです。「仏と成(ひら)く」と読むのが正しい読み方です。
仏の生命(仏性・仏界)を出す事です。

爾前教(法華経以前の教え)では、何回も生まれなおして修行して、位をひとつずつ上げていって、ようやく辿り着ける境涯だと説かれていました。
しかし法華経では、実は仏は常住していると説かれます。
すべての人に平等に十界が備わっている。
これが「全生命が平等である」という明確な根拠です。
今現在、不幸に喘いでいる人であっても、必ず成仏、つまり「仏と成(ひら)く」ことができるのです。

日蓮大聖人は
一念三千法門
「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す」(P416)
と仰せです。
成仏への実践が、如説修行(信行学の行・自行化他の化他)であります。

ここで言う如説修行は「安楽行品」の如説修行ではなく「法華経」の如説修行になります。
如説修行抄
「一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」 (P503)
末法では如説修行とは「折伏」になります。

折伏と言うとハードルが高いように感じるかも知れませんが、その様な事はありません。

成仏=如説修行=折伏=法華経を広める=折伏された人の成仏=如説修行
と、自分の成仏は他人の成仏につながります。

「○○さんが幸せになってほしい」と願い仏法対話をする事と「自分が幸せ」になる事はイコールです。

法華初心成仏抄
「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり 」(P552)

結果として折伏相手が入信をしなくても仏の種は蒔きました。(下種と言う)如説修行をしたことになります。
ただし、「強いて説き聞かすべし」です。勇気をもって言い切る事です。

池田先生は「折伏とは『真実を語る』ことです」「末法においては、法華経の真髄である『南無妙法蓮華経』の素晴らしさを語り、広げていく行動は、全部、『折伏』です」【法華経の智慧】
「折伏は、友情を深め、信頼を勝ち取っていくものでなくてはならない。表面的な語らいはあっても、真実の対話がない現代である。
だが、折伏は、ともに、真実の充実した幸福の道を歩みゆこうとの、友への深い思いやりの触発の語らいである。
人生の価値とは何か、何が正しく、何が悪なのかを、時に生活に即し、時に自らの体験のうえから語り合う、真心の仏法対話は、これ、人間主義の王道であり、それが折伏だ」【随筆 新・人間革命】
と書かれています。

友人には、真剣に真摯に誠実に仏法対話を重ねていく事こそ「成仏」への「直道」なのです。

2008/10/22  十四誹謗

十四誹謗は誹謗正法(ひぼうしょうほう)とも謗法(ほうぼう)とも言われる行為の分類。
松野殿御返事
「悪の因に十四あり、一に慢、二に懈怠、三に計我、四に浅識、五に著欲、六に不解、七に不信、八に顰蹙、九に疑惑、十に誹謗、十一に軽善、十二に憎善、十三に嫉善、十四に恨善なり。此の十四誹謗は在家出家に至るべし」(P1382)
とあります。
これは法華経譬喩(ひゆ)品第三の文からです。
1.驕慢(きょうまん)慢心。おごりたかぶって、仏法を侮る事。
2.懈怠(けたい)仏道修行をなまける事。
3.計我(けいが)我見と同意。自分の勝手な考えで、仏法の教えを判断する事。
4.浅識(せんしき)仏法の道理がわからないのに、求めようとしない事。
5.著欲(じゃくよく)欲望にとらわれて、仏法を求めない事。
6.不解(ふげ)仏法の教えをわかろうとしない事。
7.不信(ふしん)仏法を信じない事。
8.顰蹙(ひんしゅく)顔をしかめること。仏法を非難する事。
9.疑惑(ぎわく)仏法の教えを疑って、迷う事。
10.誹謗(ひぼう)仏法をそしり、悪口を言う事。
11.軽善(けいぜん)仏法を信じている人を軽蔑し、馬鹿にする事。
12.憎善(ぞうぜん)仏法を信じている人を憎む事。
13.嫉善(しつぜん)仏法の信者を怨嫉する事。和合僧を破る働きをする人。
14.恨善(こんぜん)仏道修行をする人をうらむ事。

1の驕慢はそのまま慢心。仏法を侮り「南無妙法蓮華経なんて」とか言って(思って)もしまう事とか。

2の懈怠は勤行・折伏(自行化他)などの「如説修行」を怠る事。「勤行しなきゃ」とか言ってしまうのも修行ではなく怠惰や義務になっている証拠。

3の計我は自分の考えに固執・執着し都合よく仏法を判断する事。生命(衆生)に仏性が備わっているからと言って修行をしなくても良い訳ではない。

4の浅識は「学会員なのに、事故にあったね。題目に力があるなら事故に合わないよね」とか正法を一現象だけで判断したりする事。

5の著欲は「なんで信心しているのに金持ちにならねーんだ」とか欲望に執着し振り回される事。

6の不解は初心の功徳で満足してしまい仏法を研鑽しない事。

7の不信は文字のまま仏法を信じない事。正法に帰依しながら神社(他宗)に参拝する事(夫婦なら浮気だ)も不信にはいると思われる。

8の顰蹙は正法に対し顔をしかめ不快に思う事。あまりやり過ぎると自分が顰蹙を買う。

9の疑惑は仏法の教えを疑り迷う事。本当に成仏できるのか?宿命転換できるのかと疑う事。乗り越えられない宿業はありません。願兼於業(がんけんおごう)です。
法華経法師品第十
「薬王当に知るべし。是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生をあわれむが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり」
の文を、妙楽大師が法華文句記巻八の三で釈して、「願兼於業」(がんけんおごう)と呼んだ。
偉大な福運を積んだ大乗の菩薩(是の人)が、悪世で苦しむ人々を救うために、自らの清浄な業の報いを捨てて、悪世に生まれることを願うのです。
この場合、菩薩としての願いの力で悪世に生まれるのですが、業によって悪世に生まれた人と同じように悪世の苦しみを受けるので「願いが業を兼ねる」というのです。

10の誹謗は正法をそしる事。誹謗中傷の語源。インターネットでは匿名で出来るので近年問題化している。(匿名でも自分の生命には刻まれるよ【類似:同生天同名天】)

11~14の軽善、憎善、嫉善、恨善は仏法自体ではなく正法の信仰者に対しする謗法です。信仰者を軽蔑し憎み怨嫉し恨む事。

これら十四誹謗は在家・出家を問わずに謗法の可能性があります、十四誹謗を努めて起こさない事が必要です。
どんなに優れた修行をしても謗法を犯すことによってすべての福運・功徳を帳消しにしてしまいます。
念仏無間地獄抄
「譬喩品の十四誹謗も不信を以って体と為せり」(P97)
とあるように、十四誹謗を犯す人は所詮、信心していないのと同じことになり、いかに仏道修行をしても、福運や功徳を得られなくなります。

また宿命転換について、日蓮大聖人は佐渡御書の中で、御自身が大難を受けているのは、仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、過去において法華経を誹謗した故であると述べられています。
これは、正法である法華経を誹謗すること、すなわち謗法こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源的な悪であるということを教えられています。
謗法の行為は、正法(妙法)に対する不信・違背の心から起こります。そして、正法への不信・違背の心が、あらゆる悪業を生む根源悪なのです。
この正法に対する不信・謗法という根本的な悪業を、正法を信じ、守り、弘めていく(自行化他)という実践によって今世のうちに転換していくのが、大聖人の仏法における宿命転換です。
そして、その実践の核心が南無妙法蓮華経の題目です。

大聖人は
御義口伝巻下
「衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」(P786)
という普賢経の文を引いて、自身の生命に霜や露のように降り積もった罪障も、南無妙法蓮華経の題目の慧日(智慧の太陽)にあえば、たちまちのうちに消し去ることができると言われています。
御本尊を信受して自行化他にわたる唱題に励み、自身の胸中に太陽のような仏界の生命が現れれば、さまざまな罪業も霜露のように消えていくのです。



如説修行抄
「所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり」(P502)

※この解釈には私の計我謗法の可能性もあります。身近な幹部に確認して下さいね。