2010/11/20  2010年度任用試験 教学入門「宿命転換」

 教学入門「宿命転換」

7.宿命転換
 人生にはさまざまな苦難があります。日蓮大聖人の仏法は、生命を根源から変革して自身の運命を切り開き、現在と未来にわたって幸福境涯を確立する宿命転換の仏法です。ここでは、宿命転換の原理と、宿命を使命に変えていく真の仏法の実践を学びます。

宿命転換
 人生のなかで出あう悩みや苦難はさまざまです。そのなかには今世の自分自身の行動や判断が原因になって現れるものもありますが、なかには、今世に原因を見いだすことができないものもあります。"自分は何も悪いことをしていないのに、 なぜこのような苦しみを受けなければならないのか"と思うような苦難に直面しなければならない場合もあります。
(略)
 これに対して、「宿命の転換」を説くのが、日蓮大聖人の仏法です。
 大聖人は佐渡御書の中で、御自身が大難を受けているのは、仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、過去において法華経を誹謗した故であると述べられています(960ページ)。
 これは、万人成仏・人間尊敬・自他共の幸福を説ききった正法である法華経を誹謗すること、すなわち謗法(正法を謗ること)こそが根本的な罪業であり、あらゆる悪業を生む根源的な悪であるということを教えられているのです。
(略)

転重軽受
 私たちは信心に励んでいても人生の苦難に直面することがあります。また、広宣流布のために戦うと、それを妨げようとする障魔が起こり、難にあいます。大聖人は、このような苦難に出合って宿命転換できるのは、むしろ「転重軽受」の功徳であると教えられています。
 転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」と読みます。過去世の重い罪業にしよって、今世だけでなく未来世にわたって重い苦しみの報いを受けていかなくてはならないところを、現世に正法を信じ、弘めると、その実践の功徳力によって重罪の報いを一時に軽く受けて、罪業をすべて消滅させることができるのです。ゆえに、大聖人は転重軽受の功徳について「地獄の苦みぱっときへて」(1000ページ)と仰せです。
(略)

願兼於業
 苦難に直面しても、信心を貫いて宿命転換する人にとっては、人生の意味が大きく変わります。
 法華経には、「願兼於業」(願いが業を兼ねる)の法理が説かれています。これは、偉大な福運を積んだ大乗の菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、自らの清浄な業の報いを捨てて、わざわざ悪世に生まれることを願うのです。
 この場合、菩薩としての願いの力で悪世に生まれるのですが、業によって悪世に生まれた人と同じように悪世の苦しみを受けます。ここから難の意義をとらえ返すと、信心で難を乗り越える人にとっては、悪世に生きて苦難を受けるのは決して宿命ではなく、実は人を救う菩薩の誓願のゆえであり、苦難を共有し、それを乗り越える範を示すものであることになります。
 この願兼於業の法理をふまえた生き方を、池田名誉会長は「宿命を使命に変える」とわかりやすく示しています。
(略)
 宿命は運命論のように変えられないものではありません。
 また善因も悪因も宿命です。
 過去世に積んでしまった悪因の果を、今世で軽く受けて消すのが「転重軽受」の法門です。
 また、全く受けずに消す事はありません。
 これらの苦難を乗り越えた時に、その苦難は「願っていた業」になるのです。
 病気を乗り越えた人にしか、病苦の人に範を示せません。
 苦難をただの「嫌な事があった」で終わらせるのではなく、使命に変えていくのが願兼於業です。

2010/11/20  2010年度任用試験 教学入門「難を乗り越える信心」

 教学入門「難を乗り越える信心」

6.難を乗り越える信心
 人生には必ず苦難が伴います。また、広宣流布の戦いには必ず困難があります。ここでは、私たちが仏法を実践していく過程に必ず生じるさまざまな「難」について学び、「難を乗り越える信心」の在り方を確認します。

 一生成仏を目指す私たちは、生涯にわたって信心を貫いていくことが大事です。
 しかし、信心を持続するなかには、さまざまな難が必ず現れてきます。このことを知って、いかなる難にも崩されない自身の信心を確立していくことが肝要です。
(略)

三障四魔
 兄弟抄には次のように述べられています。
 「第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(1087ページ、通解──天台の摩詞止観の第5巻には次のように述べられている。「修行が進み、仏法の理解が深まってくると、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。……これに随ってはならない。恐れてもならない。これに随ったならば三障四魔は人を悪道に向かわせる。これを恐れたならば仏道修行を妨げられる」。この釈の文は日蓮の身に当てはまるだけではなく、、わが門流の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたって信心の糧とすべきである)
(略)

三障
 三障の「障」とは、障り、妨げということで、信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きをいいます。
 これに、煩悩障、業障、報障、の三つがあります。煩悩障とは、貧り、瞋り、癡などの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。
 業障とは、悪業(悪い行い。仏法では五逆罪や十悪業などが挙げられる)によって生ずる信仰や仏道修行への妨げです。兄弟抄の御文では具体的に妻子等の身近な存在にしよって起こる妨げが挙げられています。
 報障とは、過去世の悪業の報いとして現世に受けた悪い境涯が仏道修行の障りとなることをいいます。兄弟抄の御文では国主・父母等、自分が従わなければならない存在によって起こる妨げが挙げられています。

四魔
 次に四魔の「魔」とは、信心修行者の生命から、妙法の当体としての生命の輝きを奪う働きをいいます。
 四魔とは、陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つをいいます。
 陰魔とは、信心修行者の五陰(肉体や心の働き)の活動の不調和が信心修行の妨げとなることです。
 煩悩魔とは貧り、瞋り、癡などの煩悩が起こって信心を破壊することです。
 死魔とは、修行者の生命を断つことによって修行を妨げようとする魔です。また、他の修行者等の死によって信心に疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえます。
 最後に天子魔とは、他化自在天子魔の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による妨げであり、最も本源的な魔です。
 大聖人は「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997ページ)と仰せです。
 すなわち、この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者等の生命にあらわれるなど、いろいろな形をとり、あらゆる力をもって正しい修行者に迫害を加えてきます。

賢者はよろこび愚者は退く
(略)
 釈尊も、さまざまに起こる心の迷いを魔の働きであると見抜いて悟りました。私たちにとって、魔を打ち破るものは、何事にも紛動されない強い信心です。
 大聖人は「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋、と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(1091ページ)と仰せられています。
 三障四魔が出現した時こそ、成仏への大きな前進の時と確信して、むしろこれを喜ぶ賢者の信心で、乗り越えていくことが大切なのです。

三類の強敵
 法華経勧持品第13の二十行の偈(詩の形の経文)のなかには、末法に法華経を弘通する者に3種類の強い迫害者、すなわち三類の強敵が出現することが示されています。
 その強敵のそれぞれは、第1に俗衆増上慢、第2に道門増上慢、第3に僭聖増上慢(僣聖増上慢とも書く)、と名づけられています。増上慢とは、種々の慢心を起こし、自分は他の人よりも勝れていると思う人をいいます。
 第1の俗衆増上慢は、法華経の行者を迫害する、仏法に無智な衆生をいいます。法華経の行者に対して、悪口罵詈(悪口や罵ること)などを浴びせ、刀や杖で危害を加えることもあると説かれています。
 第2の道門増上慢は、法華経の行者を迫害する比丘(僧侶)を指します。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し、自身が優れていると思い、正法を持った人を迫害してくるのです。
 第3の僭聖増上慢は、人々から聖者のように仰がれている高僧で、ふだんは世間から離れたところに住み、自分の利益のみを貧り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとします。
(略)
 このうち、第1と第2は耐え忍ぶことができても、第3の僭聖増上慢は最も悪質であるといわれています。なぜなら、僭聖増上慢の正体はなかなか見破り難いからです。
 この三類の強敵は、末法に法華経を弘通する時、それを妨げようとして必ず現れてくるものです。
 日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を引き起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされたのです。
 信心は途中で止めてはいけません。
 信心を止めさせようとする働きが「三障四魔」や「三類の強敵」になります。
 これらには従っても、恐れてもなりません。
 魔を見破って悠々と乗り越えましょう。

2010/11/20  2010年度任用試験 教学入門「立正安国と広宣流布」

 教学入門「立正安国と広宣流布」

5.立正安国と広宣流布
 仏法を実践する目的は個人の一生成仏を実現するとともに、自他共の幸福を確立していくことにあります。日蓮大聖人は現実の社会に自他共の幸福を確立していく実践の指標として「立正安国」と「広宣流布」を説かれました。

立正安国
 日蓮大聖人の仏法は、各人の生命境涯を変革し、今世のうちに絶対的幸福境涯を開くことを可能にする教えです。それとともに、各人の生命境涯の変革を通して社会全体の平和を達成することを目指しています。大聖人は、平和実現のための原理を立正安国論のなかで示されました。
 「立正安国」とは「正を立て国を安んず」と読みます。(略)
 大聖人が当時の人々の苦悩を解決するため、立正安国論を著し、権力者を諌められたこと自体、仏法を行ずる者は、ただ自身の成仏を祈って信仰していればよいのではなく、仏法の理念・精神を根本にして、積極的に社会の課題に関わっていくべきことを身をもって示されたものと拝察できます。立正安国論では「汝須く一身の安堵を思わば先ず 四表の静謐を祷らん者か」(31ページ、通解──あなたは、一身の安泰を願うならば、まず周囲の平穏〈戦争の回避と世界の平和〉を祈るべきである)と仰せです。
(略)

広宣流布
 仏の悟りである正法を人々に流布し、万人を仏の境涯に導くことこそが仏法の目標です。それ故に法華経でも「我が減度の後、後の五百歳の中、閣浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得しむること無かれ」(法華経601ページ、通解──私〈釈尊〉が入滅した後、末法において、全世界に正法を広宣流布して断絶させず、決して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼などの魔物につけ入らせてはならない)と説かれています。
 この経文は、「後の五百歳」すなわち末法に妙法を全世界(一閻浮提)に広宣流布していくべきことを述べたものです。
 また、法華経では、末法の広宣流布が「地涌の菩薩」に託されます。
(略)
 広宣流布について大聖人は次のように仰せられています。
 「大願とは法華弘通なり」(736ページ)
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(329ページ)
 まさに広宣流布こそ日蓮大聖人の根本精神です。

創価学会こそ広布の唯一の団体
 この大聖人の御精神を受け継いで、世界に妙法を弘通し、広宣流布を進めてきた和合僧(仏法実践者の集い)が創価学会です。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(1360ページ)と仰せのように、大聖人のお心のままに妙法を弘めてきた創価学会こそ、広宣流布の使命を担う地涌の菩薩の団体にほかないりません。そして、日蓮大聖人の御精神を正しく継承する和合僧として、世界中に妙法を弘めてきたのです。
 自分一人の幸福だけを追い求めては小乗教になってしまいます。
 日蓮仏法は「自分」と「他人」と「国土」の幸せを築く仏法なのです。

 立正安国論は日蓮仏法の基本です。
 日蓮大聖人の最後の講義も立正安国論でした。
 国の平和と人々の幸福の為の広宣流布です。
 今の末法の時代に、法華経を広める我々は「地涌の菩薩」であることは間違いありません。