2010/11/17  2010年度任用試験 教学入門「三証と五重の相対」

 教学入門「三証と五重の相対」

3.三証と五重の相対
 ここでは、人々を絶対的幸福に導く正法を判定する「基準」として、「三証」と「五重の相対」を取り上げ、大聖人の仏法こそ、末法の一切衆生の一生成仏を可能にする宗教であることを学びます。

 三証
 三証とは、「文証」「理証」「現証」の三つをいいます。
 「文証」とは、その宗教の教義が依りどころとする経文、聖典のうえで裏づけをもっているかどうか、ということです。(略)
 次に「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。「仏法と申すは道理なり」(1169ページ)と仰せのように、仏法は あくまで道理を重んじます。(略)
 「現証」とは、その宗教の教義を実践した結果が生命や生活、そして社会にどのように現れたか、ということです。(略)
 日蓮大聖人は「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468ページ)と仰せです。この御文で、道理とは理証、証文とは文証のことです。この御文に明らかなように、大聖人が一番重視されたのが現証です。それは、本来、現実の人間を救うために仏法があるからです。
(略)
 この三証のどれか一つが欠けても正しい宗教とはいえません。
 理証(理屈)だけでも駄目ですし、現証だけでも駄目です。
 3つ揃って初めて「教判」出来るのです。
五重の相対
 五重の相対とは、内外相対、大小相対、権実相対、本迩相対、種脱相対の五つの相対(比較)をいいます。
 これは、日蓮大聖人御在世当時の日本で知られていた一切の思想、宗教、なかでも仏教の種々の教えを比較検討して、それらの浅深、高低を判定し、現実に苦悩を解決し、人々を絶対的幸福境涯に導く究極の正法を明らかにしていくものです。
(略)
①内外相対
 内外相対とは、内道と呼ばれる仏教と、仏教以外の教えとの相対です。大聖人御在世当時に知られていた仏教以外の教えとは、中国の伝統思想である外典(儒教・道教など)と、古代インドの諸宗教である外道(伝統的なバラモン教や釈尊と同時代に生まれた六師外道と呼ばれる諸思想など)です。
(略)
 この人間の幸・不幸に視点を当てた因果を的確に説いているのが仏教(内道)で、仏教以外の諸宗教はその因果を説かないか、説いても偏った因果観にとどまっています。
(略)
 内道・外道は比較的一般的な用語なので覚え易いと思います。
 内外相対の過去記事はこちら
②大小相対
 大小相対とは、仏教のなかで小乗教と大乗教を比較相対し、大乗教が小乗教よりも勝っていることを明かすものです。「乗」とは、乗リ物の意味で、仏の教えが、人々を迷いと苦悩から悟りの境地へと運び、導くので、乗リ物に譬えたのです。
(略)
 小乗教は、出家して修行し、自分だけが悟ることを目指す二乗(声聞、縁覚)のための教えです。これは小さな範囲の人々しか救えないという意味で、小さな乗り物に譬えるのです。
(略)
 大乗教は、自分も他人もともに幸福になろうとする菩薩のための教えです。大乗教は、自分の救いを求めるだけでなく、他の多くの人々を救うことを目指すので、大きな乗り物に譬えられるのです。
(略)
 大小は救える人数の差です。また、大乗経は自分以外の他人をも救う教えになります。
 大小相対の過去記事はこちら
③権実相対
 権実相対とは、大乗教を、仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教に立て分け、権大乗教よりも実大乗教か勝ることを示したものです。権とは仮の意、実とは真実の意です(なお、小乗経と権大乗経は法華経以前に説かれた経,という意味で爾前経と呼ばれることもあります)。
(略)
 仏は本来、いかなる境涯の人をも成仏させる根本法を悟ったのですが、大乗経典のなかでも華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経などの法華経以外の諸経では、二乗(声聞・縁覚)の成仏や、悪人・女性の成仏を否定しています。これは結局、九界と仏界の断絶を説いていることになります。
(略)
 それに対して、実教である法華経は、一切衆生に仏としての境地(仏界)が本来的に可能性として具わっており、平等に成仏できるという究極の真実のすがた(諸法実相)を強調します。それに基づき、二乗作仏(権大乗教で決して成仏できないとされた声聞・縁覚の成仏)や悪人・女性の成仏を説いて十界互具が明かされ、九界と仏界の断絶がなくなるのです。
(略)
 大乗経を法華経と爾前経に分けたのが権実相対です。
 二乗・悪人・女性の不成仏を説いている爾前経より、当然に一切衆生の成仏を説いた法華経が勝ります。
 権実相対の過去記事はこちら
④本迹相対
 法華経は28品(章)からなり、その内容から前半14品と後半14品とに立て分けられます。
 法華経の前半14品では、教えを説く釈尊が権教と同じく衆生を教化するために現した姿(垂迹)のままなので迹門といいます。
 法華経の後半14品は、釈尊が仏としての本来の真実の境地(本地)をあらわしたので本門といいます。
 本迹相対とは、法華経の前半14品の迹門と後半14品の本門を比較相対して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。

「始成正覚」の立場で説かれた迹門
 法華経の前半14品では、二乗作仏、諸法実相を説いて一切衆生の成仏の法理を明かしましたが、教えを説く釈尊が、いくつもの生を繰り返し、長遠な期間の修行を経て、今世でインドの伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟り(正覚)を得た仏であるという権教と同様の成仏観・仏陀観のままです。この仏の立場を「始成正覚」(始めて正覚を成ず)といいます。

「久遠実成」を明かした本門
(略)
 それに対して後半の本門14品、特に要の寿量品では、釈尊はインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて成仏したのではなく、実は想像を絶するはるか久遠の昔に成仏して以来、十界の種々の姿を現して衆生を教化している永遠の仏であるという釈尊の真実の姿が明かされたのです。
 この仏の立場を「久遠実成」といいます。
 このように、本門で仏の生命の常住(過去・現在・未来の三世にわたって常に存在すること)が明かされたことによって、初めて、迷いの境地にある一切衆生の生命にも仏の境地が常に内在することが示されたのです。
 また、永遠の仏によって久遠の昔から衆生が教化されてきたことが説かれ、衆生の生命も、永遠の仏と共に常住であることが示されるのです。
(略)
 この本門において、自身に本来具わる仏界の生命を覚知して開きあらわすという真実の成仏観が明らかになったのです。
 法華経前半14品は迹門、仏の立場は「始成正覚」。
 法華経後半14品は本門、仏の立場は「久遠実成」。
 これだけは覚えて下さい。
 本迹相対の過去記事はこちら
⑤種脱相対
 末法の衆生は、釈尊の仏法では成仏できず、大聖人の仏法によって初めて成仏できることを明確に明かすのが種脱相対です。
 種脱相対とは、久遠実成を明かす法華経文上の本門(脱益)と、南無妙法蓮華経を明かす日蓮大聖人の文底独一本門(下種益)を相対したものです。
 文底独一本門とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている成仏の根本の法を明らかにした日蓮大聖人の仏法のことです。

(略)
 「種脱相対」の「種脱」とは、「下種益」と「脱益」のことです。
(略)
 そして、最終的に成仏することを「得脱」といい、それを実現させる利益を「脱益」といいます。

釈尊の仏法は「脱益」
 釈尊の真実の仏の境涯を明かした法華経文上の本門は、他の諸経や迹門の教えによって調熟されてきた衆生を、仏の悟りに至らせ、得脱させる「脱益」の働きがあります。すなわち、この本門の教えを聞いた人々は、自身の生命にも本来的に仏の偉大な生命が具わっていることを実感し、得脱できたのです。
(略)

大聖人の仏法は「下種益」
 日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。
 その法は、釈尊を成仏させ、また、あらゆる仏を成仏させる根本の因となる法です。この「仏種」を直ちに説き、衆生に本来具わる永遠の仏界の生命を直接に触発する教えが「下種益」の教法です。
(略)
 日蓮大聖人はこの仏種である根源の法を南無妙法蓮華経としてあらわし、弘められました。末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し、自ら唱え、他の人にも教え、勧めることにより、自身の生命に仏界が涌現し、即身成仏することができるのです。
 法華経本門が脱益にとどまるのに対し、南無妙法蓮華経は下種益の法です。
このことを日蓮大聖人は「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(249ページ)と述べられています。「彼」とは釈尊在世の法華経文上の本門、「此れ」とは末法の初めに弘められる文底独一本門のことです(「一品二半」とは法華経本門の中心となる部分で、寿量品の一品とその前後の半品ずつのこと)。
 このように、末法の衆生は釈尊の脱益仏法では成仏できず、大聖人の下種仏法によって初めて成仏できることを明かしたのが種脱相対です。
(略)
日蓮大聖人の仏法は、最も人間を信頼し、尊敬し、その可能性を開くことを教える仏法です。そして苦悩に満ちた現実世界に生きる私たちに、希望を与え、勇気を与え、生き抜く力を与える教えなのです。
 種脱相対は難しいので、繰り返し読んで下さい。
 久遠実成でも「文上の本門」と「文底独一本門」とに別れます。
 末法の衆生は下種されていない衆生ですので、下種が必要になるのです。
 下種とは「南無妙法蓮華経」の題目を、唱えさせる事になります。
 種脱相対の過去記事はこちら