2011/08/23  青年教学1級 開目抄 はじめに。

 今回の出題範囲の殆どが「開目抄」です。
 試験まで約6週間ですので、ペース配分を考えて学習していきましょう。

 開目抄
 背景(上巻66紙1帖完・身延曾存 下巻日我本・日乾本・本満寺本)
 開目抄は、日蓮大聖人が佐渡流罪中の文永9年(1272年)2月、51歳の御時、四条中務三郎左衛門尉頼基、即ち四条金吾に与えられた書である。
 本抄は、日蓮大聖人こそが末法の御本仏、すなわち「人本尊」であることを明らかにされた「人本尊開顕の書」である(翌文永10年(1273年)4月に著された「観心本尊抄」は「法本尊開顕の書」とされる)。
 大聖人は、文永8年(1271年)9月12日に、竜の口の法難(第38段を参照)にあわれ、それに続いて佐渡に流罪された。
 佐渡は念仏者が多く、大聖人を阿弥陀の敵として、命をつけねらう者も少なくなかった。
 また、鎌倉等の大聖人門下の人たちも、所領没収、追放、罰金などの刑に処され、そのなかで、「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(1224ページ)、「御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(907ページ)とあるように、疑いを起こして退転する者が多く出るありさまであった。
 本抄は、こうした状況の中で、世間や門下からよせられた、「大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ諸天の加護がないのか」等との疑問に対し、法華経の経文通りに正しく実践すれば三類の強敵による迫害が起こるというのが仏説であり、その通りの難にあっている大聖人は真の法華経の行者であることを示されている。そして、そうした大難を覚悟で一切衆生を救うために不惜身命の実践をしている大聖人御自身こそ、主師親の三徳を具備した末法の御本仏であることを宣言されている。
 竜の口の法難の後、大聖人は佐渡に流罪され、門下は激しい弾圧にあっていた。
 門下は疑問に思い、諸宗の学者は言いがかりを付けてきていた。
 ・日蓮大聖人が法華経の行者ならば、なぜ諸天の加護がないのか?
 ・迫害者に、なぜ現罰が現れないのか?
 ・悪を責める折伏行は正しいのか?


 それらの疑問に答えて、経典に基づいて日蓮大聖人こそが「末法の法華経の行者」であり「主師親の三徳」を備えていることを証明しているのが「開目抄」です。

 題号の意義
「日本国の一切衆生は邪宗邪義に執着して、日蓮大聖人が末法の衆生を救う真実の三徳具備の仏であることを知らない。その盲目を開かせよう」との意(日寛上人)
 日蓮大聖人が主師親の三徳具備の御本仏であることを示し、疑い、迷える門下や人々の眼目を開かせる為に書かれた御書になります。

 大意
 開目抄は大きく「標」(第1段)「釈」(第2~49段)「結」(第50段)の3段に分けられる。すなわち、初めに一切衆生の尊敬すべき主師親がテーマであることを「標」し、次に儒家・外道・内道における主師親を「釈」し、最後に日蓮大聖人こそ末法の一切衆生を救う主師親であると「結」ばれている。
 初めに、人々が尊敬すべきものとして主師親の三徳を示され(第1段)、次いで、儒教(第2段)・外道(第3段)・内道(第4段)で三徳を具えた者として尊敬されている人の教えを釈し、諸思想および一代聖教の浅深を判じられ(第5段)、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている一念三千こそが成仏の法であることを示されている。(第6段)(第7段~14段では、一念三千を説く法華経が難信難解であることが述べられている。難信難解には2種類あって、まず二乗作仏の難信難解を説明され第15段からは久遠実成の難信難解を示される。)
 そして、当時の日本の諸宗が、この法華経に背いていることを明かし(第7~19段)、大聖人が一人、法華経の行者として立ち上がり、多くの大難を受けてこられたことを述べられる。(第20~22段)
 本抄の後半では、”大聖人が法華経の行者であれば、どうして諸天善神の加護がないのか“という世間や門下の疑問を取り上げ(第23段)、これに答えられていく。最初は、法華経の内容に即して二乗・菩薩・天人が法華経に大恩があることを示し(第24~34段)、”彼らが守護の働きを現さないのは日蓮が法華経の行者ではないからか“と疑いを強めていかれる。(第34段)そのうえで、宝塔品の六難九易(第36段)、提婆達多品の悪人成仏と女人成仏(第37段)、そして勧持品の三類の強敵等(第38段)を考察しながら、この法華経を末法に弘める法華経の行者が難を受けるのは経文通りであることを論証される。(第39~43段)そして、法華経の行者が難を受けるのは行者自身の宿業のゆえであることや、迫害者に現罰がない理由を明かされている。(第44段)
 そのうえで「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」「我日本の柱とならむ……」と、不惜身命の決意をもって末法の衆生を救済するとの、末法の御本仏としての大誓願を示される(第45段)とともに、末法の法華経の行者の実践に具わる功徳(転重軽受と一生成仏)(第46~47段)と折伏の意義(末法の時に適った慈悲の実践)を教えられて不退転を勧められている。(第48~49段)
 最後に、この慈悲の実践のゆえに、大聖人こそ末法の人々を救済する末法の主師親であると示して、本抄を結ばれている。(第50段)
 テキストの大意からも、開目抄の話の流れが判ります。
 どの段にどの様な趣意があるのかを把握しましょう。
 日蓮大聖人は、開目抄の中で、同じ話を繰り返されています。(例えば15段と31段は、ほぼ同じ内容)
 混乱しないように、じっくりと読み込みましょう。

 次回から、各段を研鑽していきます。