2011/09/06  青年教学1級 開目抄第34段「菩薩等守護無き疑いを結す」

 疑いの結論を書き、自身の身にあててみる。

第34段「菩薩等守護無き疑いを結す」
 されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なり給へり、釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由を・をし計るに華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等・守護し給らん疑あるべからず、但し大日経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし、例せば孝子・慈父の王敵となれば父をすてて王にまいる孝の至りなり、仏法も又かくのごとし、法華経の諸仏・菩薩・十羅刹・日蓮を守護し給う上・浄土宗の六方の諸仏・二十五の菩薩・真言宗の千二百等・七宗の諸尊・守護の善神・日蓮を守護し給うべし、例せば七宗の守護神・伝教大師をまほり給いしが如しと・をもう、日蓮案じて云く法華経の二処・三会の座にましましし、日月等の諸天は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく須臾に来つて行者に代り仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候にいままで日蓮をとぶらひ給はぬは日蓮・法華経の行者にあらざるか、されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし。
 以上のことから、諸経に説かれている諸仏や菩薩や人界・天界などの衆生は、それぞれの経において仏に成ったようであるが、実際には法華経によって真の悟りを得たのである。
 釈迦仏や諸仏が立てた、すべての衆生を苦しみから救おうとする誓願は、すべて法華経において成就したのである。法華経方便品の「今、ついに満足した」との経文はこのことである。
 私がこうしたいきさつから考えると、華厳経や観無量寿経や大日経などを読み修行する人を、それぞれの経に説かれている仏や菩薩や諸天などが守護することは疑いない。ただし、大日経や観無量寿経などを読む行者が、法華経の行者に敵対したならば、仏菩薩たちはそれらの行者を捨てて法華経の行者を守護するはずである。例えば孝行な子は、慈父が王の敵となった場合に、その父を捨てて王につくのである。それが本当の孝である。仏法もまた同じである。
 法華経で説かれている諸仏や菩薩や十羅刹女が日蓮を守護するうえ、浄土宗の六方(東西南北と上下)の諸仏や二十五の菩薩、真言宗の千二百あまりの仏・菩薩、七宗のすべての仏・菩薩や守護の善神が日蓮を守護するはずである。例を挙げれば、かつて七宗(南都六宗と真言宗)の守護神が伝教大師を守ったのと同様であると、このように考えるのである。
 日蓮はこう思う。法華経の二処三会の場にいた日天・月天などの諸天は、法華経の行者が現れたならば、磁石が鉄を吸い寄せるように、月が水面に身を移すように、すぐにやって来て、行者に代わって難を受け、守護する。という仏前での誓いを果たすはずであると思っていたが、今まで日蓮を訪ねてこないのは、日蓮は法華経の行者ではないということか。それならば、重ねて経文を検討して我が身に引き当てて、自身の誤りを知ろうと思う。

 法華経の行者に、仏菩薩の守護があるのは間違いない。
 では、なぜ日蓮を守らないのか?
 日蓮は法華経の行者ではないからか?
 日蓮自身の誤りで、守護がないのか検証してみる。


2011/09/06  青年教学1級 開目抄第33段「本尊への迷妄を呵責し正しく下種の父を明かす」

 諸宗は、父を知らない才能ある畜生。

第33段「本尊への迷妄を呵責し正しく下種の父を明かす」
 而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり、倶舎・成実・律宗は三十四心・断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子・我が父は侍と・をもうがごとし、華厳宗・真言宗は釈尊を下げて盧舎那の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるに・つけり、浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賎の者・一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し、寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり、故に妙楽云く「一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」等云云、妙楽大師は唐の末・天宝年中の者なり三論・華厳・法相・真言等の諸宗・並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、徒謂才能とは華厳宗の法蔵・澄観・乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師なれども子の父を知らざるがごとし、伝教大師は日本顕密の元祖・秀句に云く「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義を闕く、天台法華宗は厳愛の義を具す一切の賢聖・学・無学及び菩薩心を発せる者の父なり」等云云、真言・華厳等の経経には種熟脱の三義・名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし。
 宗宗・互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり天台の一念三千これなり、華厳経・乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子・皆一念三千なり天台智者大師・一人此の法門を得給えり
 ところが、天台宗以外の諸宗は皆、本尊に迷っている。
 倶舎宗・成実宗・律宗は、34種の心で見思惑を断じて成道したとされる小乗の釈尊を本尊としている。これは天尊の太子が迷って、わが身は民の子であると思っているようなものである。
 華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗などの4宗は大乗教の宗派である。
 このうち法相宗・三論宗は、勝応身に似た仏を本尊としている。これは、天王の太子が、わが父は天子に仕える侍であると思っているようなものである。
 華厳宗・真言宗は、釈尊をさげすんで慮舎那仏、大日如来などを本尊と定めている。これは天子である父をさげすみ、素性も知れないものが法王のように見せかけているのに、つきしたがっているようなものである。
 浄土宗は、釈尊の分身である阿弥陀仏を自らの有縁の仏であると思って、教主釈尊を捨ててしまった。
 禅宗は、下賎の者が自分に一分の徳があるからといって、それをもって父母をさげすんでいるようなもので、仏と経を見下している。
 これらの各宗は皆、本尊に迷っている。たとえば、中国古代の三皇時代以前には、人々は自らの父親を知らず、鳥や獣と同じだったようなものである。
 寿量品を知らない諸宗の者は、これらの獣と同じで、不知恩の者である。
 それゆえ、妙楽大師は「釈尊一代の仏教のうち、寿量品までの経は、いまだかって仏の久遠の寿命を明らかにしていない。子としては父母の寿命を知らないでいて良いわけはない。もし父の寿命が長遠であることを知らなければ、父の統治する国に迷うのである。いたずらに才能があるといっても空しく、これでは全く人の子ではない」(『五百問論』)と述べている。
 妙楽大師は、唐の末期、天宝年間の人である。三論宗・華厳宗・法相宗・真言宗などの諸宗、ならびにその依経を深く見、広く考えたうえで、「寿量品の仏を知らない者は父の統治する国に迷っている、才能ある畜生である」と書かれたのである。
 「いたずらに才能があるという」とは、華厳宗の法蔵・澄観、および真言宗の善無畏らのことで、彼らは才能ある人師であるけれども、父を知らない子のようなものである。
 伝教大師は日本における顕教・密教の祖である。その伝教の著した『法華秀句』で、「他宗が依り処としている経には、仏の母としての性質が一分は有るといえるが、ただ母の徳たる衆生をあわれむ愛だけがあって、父の徳たる(法を正しく教えて成仏へと導く)厳の義を欠いている。天台法華宗は、厳と愛の義をともに具備している。だから、一切の賢人・聖人、学ぶべきことのある声聞・もはや学ぶべきものがない声聞、および菩薩の心を起こした人すべての父である」等と述べている。
 真言宗・華厳宗などが依り所としている経々には、仏に成るための下種・調熟・得脱の三つの義について、その名称すらない。まして、その実義があるわけがない。
 したがって、華厳宗や真言宗などの経でも、「この一生のうちに初地にはいって、この身のままで成仏する」などといっているが、これらの経は権経であって、仏の久遠の過去を明かしていない。
 下種を知らない得脱なので、それはあたかも、中国・秦代の反逆者・趙高が皇帝の位にのぼろうとし、奈良時代の僧・道鏡が天皇の位につこうとしたのと同じである。
 各宗派が互いに成仏の種は自宗にあると争い合っている。私はこれについては争わない。ただ経文に任すのである。
 法華経に説かれている成仏の種にもとづいて、天親菩薩は法華経の種子が無上であると述べたのである。天台大師の一念三千がその種子である。
 華厳経はじめ諸々の大乗経、また大日経などの諸尊が成仏した種子は皆、一念三千なのである。天台智者大師だけが、この法門を得られたのである。

 久遠実成の釈尊こそ一切衆生の主師親であることが明らかなのに、天台宗以外の諸宗は本尊に惑っている。
 それらの人々は、本当の立派な父を知らずに、もっと低い者を自分の父と思っているようなもので、恩知らずである。
 才能ある畜生である。
 そもそも爾前経には、久遠を明かしてない故に、成仏の種子がないのだ。
 諸仏が成仏した「種子」とは「一念三千」であり、天台大師だけが、この法門を得られた。

2011/09/06  青年教学1級 開目抄第32段「脱益の三徳を明かす」

 久遠実成の釈尊こそ、一切衆生の主師親。

第32段「脱益の三徳を明かす」
 此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる、仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり、一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとくして・あるべきを華厳・真言等の権宗の智者とをぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往・権宗の人人・且は自の依経を讃歎せんために或は云く「華厳経の教主は報身・法華経は応身」と・或は云く「法華寿量品の仏は無明の辺域・大日経の仏は明の分位」等云云、雲は月をかくし讒臣は賢人をかくす・人讃すれば黄石も玉とみへ諛臣も賢人かとをぼゆ、今濁世の学者等・彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず、又天台宗の人人もたぼらかされて金石・一同のをもひを・なせる人人もあり、仏・久成に・ましまさずば所化の少かるべき事を弁うべきなり、月は影を慳ざれども水なくば・うつるべからず、仏・衆生を化せんと・をぼせども結縁うすければ八相を現ぜず、例せば諸の声聞が初地・初住には・のぼれども爾前にして自調自度なりしかば未来の八相をごするなるべし、しかれば教主釈尊始成ならば今此の世界の梵帝・日月・四天等は劫初より此の土を領すれども四十余年の仏弟子なり、霊山・八年の法華結縁の衆今まいりの主君にをもひつかず久住の者にへだてらるるがごとし、今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師如来の日光・月光・西方阿弥陀如来の観音勢至・乃至十方世界の諸仏の御弟子・大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩・猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏・釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の劫初より・このかたの日月・衆星等・教主釈尊の御弟子にあらずや。
 このように過去常(釈尊が久遠の過去に成仏して以来、仏として婆婆世界に常住してきたこと)が明らかにされた時、諸仏は皆、釈尊の分身であ ることになった。
 爾前経や法華経迹門の時は、諸仏は釈尊と肩を並べた対等の仏で、おのおのの修行をして悟りを得た仏であった。そのため、諸仏を本尊とする者は釈尊ら他の仏を見下していた。
 ところが寿量品が説かれた今は、華厳経に説かれる台上の慮舎那仏も、方等経・般若経・大日経等に説かれる諸仏も皆、釈尊の春属であるということになったのである。
 釈尊は、30歳で成道された時に、大梵天王と第六天の魔王らが所有し治めていた裟婆世界を奪い取り、釈尊の国土とされた。
 しかし今は、爾前経や迹門において、十方の世界を浄土と名づけ、この裟婆世界を穢土と説かれていたのを打ち返して、この裟婆世界こそが釈尊の本国土であり、十方の浄土は垂迹の穢土となったのである。
 寿量品の釈尊は久遠の仏なので、迹化・他方の大菩薩も、教主釈尊の弟子である。
 一切の経の中に、この寿量品がなければ、天に太陽と月がなく、国に大王がなく、山河に宝珠がなく、人に魂がないようなものである。
 それなのに、華厳宗や真言宗などの権教の智者と思われている澄観・嘉祥・慈恩・弘法らの、一往の権教に基づく宗の人々は、自らの依り所とする経を讃嘆するために、次のように言っている。
 すなわち華厳宗では、「華厳経の教主が報身であるのに対して、法華経の教主は応身仏で劣っている」と言っている。
 あるいは真言宗では「法華経寿量品の仏はまだ無明惑を断ち切っていない境涯であり、大日経の仏は明の分位(悟りを得た境地)である」などと言っている。
 雲は月を隠し、讒言をする臣下は賢人を隠してしまう。人がほめれば、ただの黄色の石も宝玉と見え、こびへつらう臣下も賢人かと思われるものである。
 今、末法濁世の学者らは、澄観らの正法誹誇の邪義に惑わされて、寿量品の宝珠を見失い、それを愛玩することがない。
 また、法華経を依経とする天台宗の人々の中にも、彼らにたぶらかされて、黄金とただの石を同じだと思いこんでしまっている人々がいる。
 仏が久遠実成の仏でないならば、その仏から化導を受ける弟子も少ないはずであることをわきまえるべきである。
 月はその影を映すことを惜しまないが、水がなければ映ることができない。それと同じく、仏が衆生を化導しようと思っても、結縁がうすければ、仏は八相(下天・託胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入涅槃)を現じて化導することができない。
 たとえば、もろもろの声聞は、修行して初地・初住の位までのぼっても、爾前経の時に自分の悟りを得るためだけの修行をしていたので、彼ら自身が八相を現ずるのは未来世を待つしかなかった。
 よって、教主釈尊が始成正覚の仏であるならば、今、この裟婆世界の梵天や帝釈天、日天、月天、四天王らは、この世界の成り立った初めからこの世界を治めているけれども、わずか40余年間の仏弟子であるにすぎない。
 まして、霊鷲山での8年間で法華経に結縁した衆生などは、新参者が主君になじまず、古くからいる者によって隔てられているようなものであろう。
 今、久遠実成が顕されたので、東方世界の仏である薬師如来の脇士である日光菩薩・月光菩薩、西方世界の仏である阿弥陀如来の脇士である観音菩薩・勢至菩薩、あるいは十方世界の諸仏の弟子、大日経・金剛頂経などの金剛・胎蔵両部の大日如来の弟子である諸大菩薩なども、すべて教主釈尊の弟子となったのである。
 諸仏が釈迦如来の分身である以上は、この諸仏により化導された弟子も釈迦如来の弟子であることはいうまでもない。
 ましてや、この裟婆世界が成り立った最初から住んでいる日月、多くの星などが、教主釈尊の弟子であることはいうまでもないことである。

 寿量品によって、釈尊が久遠の過去に成仏して以来、ずっと仏として、この裟婆世界で説法教化してきたことが明らかになった。
 それまでは、ほかの仏たちは釈尊と肩を並べていたが、「今」寿量品が説かれたことによって、釈尊の立場が、ぐ-んと飛び抜けて、他の仏たちは釈尊の家来みたいな立場になったのだ。
 そういう意味で、一切経のなかで、寿量品こそ魂の存在なのです。