2011/09/14  青年教学1級 開目抄第46段「転重軽受を明かす」

 転重軽受とはなにか?

第46段「転重軽受を明かす」
 疑つて云くいかにとして汝が流罪・死罪等を過去の宿習としらむ、答えて云く銅鏡は色形を顕わす秦王・験偽の鏡は現在の罪を顕わす仏法の鏡は過去の業因を現ず、般泥オン経に云く「善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業を作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ・或は形状醜陋・衣服足らず・飲食ソ疎・財を求むるに利あらず・貧賎の家邪見の家に生れ・或は王難に遭い・及び余の種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり」云云、此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん、或被軽易等云云、法華経に云く「軽賎憎嫉」等云云・二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋・又云く衣服不足は予が身なり飲食ソ疎は予が身なり求財不利は予が身なり生貧賎家は予が身なり、或遭王難等・此の経文疑うべしや、法華経に云く「数数擯出せられん」此の経文に云く「種種」等云云、斯由護法功徳力故等とは摩訶止観の第五に云く「散善微弱なるは動せしむること能わず今止観を修して健病虧ざれば生死の輪を動ず」等云云、又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云云我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を刎こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木をもつて急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ。
 疑って言うには、どうしてあなたの流罪や死罪などが、過去世からの宿業によると分かるのか、と。
 答えて言うには、銅の鏡は、姿や形をはっきりと映し出す。
 中国・秦の始皇帝の用いたという験偽の鏡は、今世の罪を映し出したという。
 仏法の鏡は、過去世の業因を映し出す。
 般泥オン経には、「善男子よ。過去世に数え切れないほどの諸罪、種々の悪業を作った場合、この諸々の罪の報いとして、人に軽んじられ、あるいは姿や顔かたちが醜く、衣服が不足したり、飲食物が粗末で不自由したり、財宝をいくら求めても利益がなく、貧しく賎しい身分の家や邪教を信じる家に生まれたり、あるいは権力者による難にあったり、その他の種々の人間としての苦しみの報いを受けるであろう。これらの報いを現世で軽く受けるのは、仏法を護る功徳の力による故である」と説かれている。
 この経文は、日蓮の身にあたかも割り符を合わすように一致している。これによって、なぜ難にあうのかという疑いがとけた。千万の疑難も、もはや、何でもないことである。一々の句を我が身に引き合わせてみよう。
 「あるいは人に軽んじられ」等、また、法華経譬喩品にも「軽んじられ、賎しまれ、憎まれ、ねたまれる」等と説かれているように、私は20年余りの間、軽んじられ、あなどられてきた。
 「あるいは姿や顔かたちが醜い」、また「衣服が不足する」というのは、私の身の上である。
 「飲食物が粗末で不自由する」とは、私の身の上である。
 「財宝をいくら求めても利益がない」というのは、私の身の上である。
 「貧しく、賎しい家に生まれる」というのは、私の身の上である。
 「あるいは国主による難にあう」等というのも、今まさにその通りで、この経文を疑うことができようか。
 法華経勧持品には、「しばしば所を追われるだろう」とあり、般泥オン経には「そのほか種々の苦の報いを受ける」等と説かれている。
 「これは仏法を護る功徳の力によるのである」とあるのは、『摩訶止観』第5巻に「散乱した心で行う微弱な善の修行では、宿業を揺り動かすことはできないが、今、止観を修行すれば、健康と病の状態の両方の状態を欠けずに観察し把握するので、生死を繰り返す輪廻の輪が動くのである」と。
 また、『摩訶止観』に「(修行に励み仏法を理解しようと努力を重ねたなら)三障四魔が紛然と競い起こる」と説かれている。
 私は無始の昔から今に至るまで、悪王と生まれて、法華経の行者の衣服や食べ物、田畑などを奪い取ってきたことは数知れない。それは、今の世の日本国の諸々の人が、法華経の寺々を破壊しているのと同じである。また、法華経の行者の首をはねたことは、数知れないほどである。
 これらの重罪の中には、すでに報いを受けて終わったものもあれば、まだ終わっていないものもあるだろう。
 一応、報いは受けたけれども、その残滓がまだ尽きていないものもある。
 生死の迷苦を離れて成仏する時には、必ずこの重罪を消し切って、苦しみの境涯から離れていくのである。
 これまで積んできた功徳は浅く軽い。これらの罪は深く重い。権経を修行していた時には、この重罪の報いは起こってこなかった。
 たとえば、鉄を焼く時、強く鍛えないと、その中の傷は隠れたままで見えない。たびたび強く責めて鍛えると、傷が現れてくるようなものである。
 また、麻の種子をしぼる時、強く責めてしぼらないと、取れる油が少ないようなものである。
 今、日蓮は、強盛に日本国中の謗法を責めたので、この大難が起こってきたのであり、これは過去世につくった重罪が、今世の護法の実践で招きだされてきたものであろう。
 鉄は火にあわなければ黒いままである。火とあえば赤くなる。木をもって急流をかけば、波が山のようにおこる。眠っている獅子に手をつければ、大いに吠える。これらと同じ原理なのである。

 法華経弘通のゆえに難にあえば、自分自身の無始以来の罪障を消滅することができる。
 受けなければならない『重い』宿業を『軽く』受けることができる。
 それが『転重軽受』。