2011/09/15  青年教学1級 開目抄第50段「結勧」

 日蓮大聖人こそ、末法の一切衆生にとっての主師親。

第50段「結勧」
 夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住・故来至此」等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそ・みへたるを法然いたはしとも・おもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。
 日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云、無道心の者生死をはなるる事はなきなり、教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、日蓮が御勘気を・かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざんなり・かつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法は骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし。
 そもそも法華経の宝塔品を拝見すると、釈迦・多宝・十方分身の諸仏が集まられたのは、何のためであろうか。
 「法を久しく存続させるために、ここにやって来た」とある。
 この三仏が未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子たちに与えようとされた御心のうちを推察すると、わが子が大きな苦しみにあっているのを見る父母よりも、何としてでも救わずにはおかないとの思いが強く盛んであったと思われる。
 それなのに、法然は、その切実な思いをいたわしいとも思わないで、末法には法華経の門をかたく閉じて、人を入れさせまいとせき止め、判断の狂った子をだまして宝を捨てさせるように、法華経をなげ捨てさせたのである。この法然の心こそ、恥知らずに思える。
 自身の父母を人が殺そうとしているのに、そのことを父母に教えないでおられようか。悪にそまった子が、酔って狂って父母を殺そうとしているのを、制止しないでおられようか。悪人が寺塔に火を放とうとしているのに、制止しないでおられようか。わが子が重病にかかっているのに、お灸の治療をしないでおられようか。
 日本の禅と念仏者とを見て制止しない者は、このようなものである。
 「慈悲がなくて、いつわって親しくするのは、すなわち、その人にとって敵である」(『涅槃経疏』)と。
 日蓮は日本国の諸の人にとって、主であり、師であり、父母である。
 一切の天台宗の人達はかれらの大怨敵である。
 「かれのために悪を除くのは、すなわち、かれの親である」(「涅槃経疏』)と。
 仏道を求める心がない者は、生死の苦悩を離れることはできない。
 教主釈尊は一切の外道から大悪人とののしられた。天台大師は南三北七の諸宗の人々にそしられ、さらに日本の徳一から「三寸の舌で五尺の仏身を破壊する」とののしられた。伝教大師は南都の人々に「最澄はまだ唐の都を見たことがない」と非難された。
 このように悪口を言われたのは、皆、法華経の故なので、恥ではない。愚かな人に誉められることこそ、第一の恥である。
 日蓮が権力者から処罰を受けたので、天台・真言の法師らは喜ばしく思っているようであるが、まことに恥知らずであり、常軌を逸したことでもある。
 そもそも、法華経のために、釈尊はこの苦悩に満ちた裟婆世界に生まれ、羅什三蔵は中国に入り、伝教大師は中国に渡り、提婆菩薩・師子尊者は法のために身を捨て、薬王菩薩は臂を焼き、聖徳太子は手の皮をはいで経を写し、釈迦菩薩は自らの肉を売って供養し、楽法梵志はわが身の骨を筆としたのである。
 天台大師がいうには、「時に適うのみ」(『法華文句』)と。
 仏法は時によるのである。
 日蓮の流罪は、今世での小さな苦であるから嘆くにあたらない。来世には大きな楽を受けることができるので、大いに喜ばしい。

 全ての仏が願うことは、成仏の法である法華経を永遠に存続させ、未来の全ての人間を救うこと。
 苦しむ子どもを思う父母よりも、大きく深い慈悲なのである。
 ところが、念仏を弘めた法然などは、その心がわからず、正法を破壊している。
 ゆえに日蓮は厳しく責めざるを得ない。
 日蓮こそ、日本の一切衆生の主師親である。
 それが分からない愚か者に批判されようと何も思わない。
 それどころか、愚か者にほめられるのは、第一の恥である。
 日蓮は今、こうして流罪にあっているが、来世には大きな楽を受けるので、大いに喜ばしい。

 『日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり』→日蓮大聖人こそ、一切衆生の主師親であることを明かされた文。(結論)
 第1段の冒頭の文「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」に対応している。

2011/09/15  青年教学1級 開目抄第49段「折伏を行ずる利益」

 摂受も折伏も、時を誤ってはならない。

第49段「折伏を行ずる利益」
 問うて云く摂受の時・折伏を行ずると折伏の時・摂受を行ずると利益あるべしや、答えて云く涅槃経に云く「迦葉菩薩仏に白して言く如来の法身は金剛不壊なり未だ所因を知ること能わず云何、仏の言く迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり、迦葉我護持正法の因縁にて今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり、善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣弓箭を持つべし、是くの如く種種に法を説くも然も故師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず、是くの如き比丘自利し及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩は懈怠懶惰なり能く戒を持ち浄行を守護すと雖も当に知るべし是の人は能く為す所無からん、乃至時に破戒の者有つて是の語を聞き已つて咸共に瞋恚して是の法師を害せん是の説法の者・設い復命終すとも故持戒自利利他と名く」等云云、章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず」等、天台云く「時に適う而已」等云云、譬へば秋の終りに種子を下し田畠をかえさんに稲米をうることかたし、建仁年中に法然・大日の二人・出来して念仏宗・禅宗を興行す、法然云く「法華経は末法に入つては未有一人得者・千中無一」等云云、大日云く「教外別伝」等云云、此の両義・国土に充満せり、天台真言の学者等・念仏・禅の檀那を・へつらいをづる事犬の主にををふり・ねづみの猫ををそるるがごとし、国王・将軍に・みやつかひ破仏法の因縁・破国の因縁を能く説き能くかたるなり、天台・真言の学者等・今生には餓鬼道に堕ち後生には阿鼻を招くべし、設い山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも空閑にして三密の油をこぼさずとも時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき。
問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に・あだまれたる・いかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。
 問うていうには、摂受をなすべき時に折伏を行じた場合や、折伏をなすべき時に摂受を行じる場合に、利益はあるのだろうか。
 答えていうには、涅槃経には、「迦葉菩薩が仏に申しあげて言うには、『如来の法身は金剛のように壊れないものである。しかし、まだそれを成就された因を知ることができません。その因はどのようなものでしょうか』、と。
 仏は答えた。「迦葉よ、よく正法を護持した因縁によって、この金剛の身を成就することができたのである。
 迦葉よ、私は正法を護持した因縁で今のこの常住で壊れない金剛の身を成就することができたのである。
 善男子よ、正法を護持する者は、五戒を受けず、行儀を修めず、刀剣や弓矢を持つべきである。
 このように種々に法を説いても、悪法を打ち破る獅子吼をなさず、法にそむく悪人を降伏させられないような出家僧は、自らを利益することも、衆生を利益することもできない。
 このような輩は、怠け者であると知るべきである。
 戒を持ち、清らかな実践を守っているといっても、この人は何もできていないと知るべきである。
 (中略)ある時、戒を破る者がいて、この人が折伏を行ずる言葉を聞き終わって、皆ともに怒って、この法師を害したとする。
 この説法の者は、たとえそのために死んだとしても、それでもなお戒を持ち、自身をも利益し、他をも利益するものであるというのである』」とある。
 章安が言うには、「(摂受・折伏の)取捨を適切に行い、一方に偏ってはいけない」(『涅槃経疏』)と。
 天台がいうには、「時にかなうのみである」(『法華文句』)と。
 譬えば、秋の終わりに種を蒔いて田畑を耕しても、米の収穂は難しいようなものである。
 建仁年間に、法然と大日能忍の二人が出現して、念仏宗と禅宗を隆盛させた。
 法然は「末法になれば、法華経によっては、いまだ一人として得道した者がなく、千人の中でも一人もいない」と言った。
 大日能忍は「仏の真実の悟りは言葉による教えとは別に伝えられた」と言って法華経を排斥した。
 この二つの教義が、今や日本の国土に充満している。
 天台・真言の学者らが、(これら法華経誹謗の念仏・禅を破折もせず、かえって)念仏や禅を信じている庇護者にへつらい、おそれるさまは、まるで犬が主人に尾をふり、ネズミが猫をおそれるようである。
 そして、彼らは国王・将軍に仕えて、仏法を破壊する因縁、国を破滅させる因縁となる間違った教えを、積極的に説き語っているのである。
 こうした天台・真言の学者らは、今世では餓鬼道に堕ち、来世には阿鼻地獄の苦を招くであろう。
 たとえ(権力者に媚びないで)山林に籠って、一念三千の観法に専心したとしても、人里離れた静かなところで、真言の三密の修行を油をこぼさぬように細心に行じたとしても、時と衆生の機根を知らず、摂受と折伏の二門を弁えなければ、どうして生死の苦しみから離れることができようか。
 問うていうには、念仏者・禅宗等を責めて、かれらに憎まれることに、どのような利益があるのか。
 答えていうには、涅槃経には「もし、善比丘が、法を破る者を見て捨て置いて、呵責(厳しく責めること)し、駈遣(追放)し、挙処(罪を挙げて処断すること)しなければ、この人は仏法の中の敵であると知るべきである。
 もし、よく追放し、厳しく責め、罪を挙げて処断すれば、仏の弟子であり、真の声聞である」等とある。
 また、「仏法を破壊し乱す者は仏法の中の敵である。慈悲がなくていつわって親しくするのは、その人にとって敵である。
 その悪を糾し、退治する人が、法を護る声聞であり、真のわが弟子である。
 その人のために悪を取り除く者は、その人にとっては親である。
 悪を厳しく責める者は私の弟子である。悪を追放しようとしない者は、仏法の中の敵である」(『涅槃経疏』)とある。

 摂受を行うべきときには摂受、折伏を行うべきときには、折伏。
 時と場合によって適切に使い分けるべきで、一方にかたよってはならない。

 <章安の云く「取捨宜きを得て一向にすべからず」等、天台云く「時に適うのみ」>

 ポイントはつまり、いずれも相手を救うための方法であり、その根本は慈悲だということ。
 一切衆生を幸福にする仏法を破壊している者を見たら、それを厳しく責めるべきだ。
 見ていながら悪を責めない人間は、かえって悪に加担しているのと同じ。
 相手に対して厳しい内容でも、それをきちんと言い切っていくことが正義であり、慈悲の振る舞いなのだ。

2011/09/15  青年教学1級 開目抄第48段「適時の弘教を明かす」

 摂受と折伏を適切に使うべし。

第48段「適時の弘教を明かす」
 疑つて云く念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり修羅道にや堕つべかるらむ、又法華経の安楽行品に云く「楽つて人及び経典の過を説かざれ亦諸余の法師を軽慢せざれ」等云云、汝此の経文に相違するゆへに天にすてられたるか、答て云く止観に云く「夫れ仏に両説あり一には摂・二には折・安楽行に不称長短という如き是れ摂の義なり、大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪・途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云、弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし是くの如き等の文並びに是れ破法の人を折伏するなり一切の経論此の二を出でず」等云云、文句に云く「問う大経には国王に親付し弓を持ち箭を帯し悪人を摧伏せよと明す、此の経は豪勢を遠離し謙下慈善せよと剛柔碩いに乖く云何ぞ異ならざらん、答う大経には偏に折伏を論ずれども一子地に住す何ぞ曾て摂受無からん、此の経には偏に摂受を明せども頭破七分と云う折伏無きに非ず各一端を挙げて時に適う而已」等云云、涅槃経の疏に云く「出家在家法を護らんには其の元心の所為を取り事を棄て理を存して匡に大経を弘む故に護持正法と言うは小節に拘わらず故に不修威儀と言うなり、昔の時は平にして法弘まる応に戒を持つべし杖を持つこと勿れ今の時は嶮にして法翳る応に杖を持つべし戒を持つこと勿れ、今昔倶に嶮ならば倶に杖を持つべし今昔倶に平ならば倶に戒を持つべし、取捨宜きを得て一向にす可からず」等云云、汝が不審をば世間の学者・多分・道理とをもう、いかに諌暁すれども日蓮が弟子等も此のをもひをすてず一闡提人の・ごとくなるゆへに先づ天台・妙楽等の釈をいだして・かれが邪難をふせぐ、夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし。
 疑っていうには、念仏者と禅宗等に対して無間地獄に堕ちると言っているのは、争う心がある。修羅道に堕ちることになるであろう。
 また法華経の安楽行品には「好んで人や経典の欠点をあげつらってはいけない。また他の諸々の法師たちを軽んじたりしてはいけない」とあるが、あなたはこの経文に相違しているから諸天に見捨てられたのではないのか、と。
 答えていう。『摩訶止観』には「そもそも仏には二つの説がある。一つには摂受であり、二つには折伏である。法華経安楽行品に『長所・短所をあげつらってはいけない』というのは、摂受の義である。大般涅槃経に『刀杖を執って持ち、また首を斬れ』というのは、折伏の義である。一応、相手の意見に配慮する行き方と、相手の誤りを真っ向から打ち破る行き方ではまったく異なるが、ともにその人を救うためである」等とある。
 『弘決』にはこの文をさらに注釈して「『そもそも仏には二つの説がある』等といううちの『大般涅槃経に刀杖を執って持ち』というのは、涅槃経巻3の金剛身品第2に『正法を護る者は、五戒を受けず、威儀(作法にかなった立ち居振る舞い)を修することがない』等とあり、また以下の文に、大乗経典を誹謗した者を厳しく処断した仙予国王等の文がある。また『新しくきた優れた医師が、旧来の劣った医師の乳薬を禁じて、もしこれからも用いるようなことがあれば、その者の首をはねるべきである、と言った』とある。
 このような文は、すべて破法の人を折伏する行き方を示している。一切の経論は、この摂受・折伏の二つを出ることはない」と述べている。
 また『法華文句』にはこうある。
 「問う。大般涅槃経には、国王に直接に託して、弓を持ち、箭を帯し、悪人を打ち砕き伏させよ、と明かしている。法華経は、権力を用いる行き方を遠ざけ、へりくだって慈善の心をもってせよ、と述べている。この二つは、一方は剛、一方は柔と大いに反している。違いがないなどと、どうしていえよう。
 答える。大般涅槃経には偏に折伏を論じているようだけれども、その一方で一切衆生を我が子のように慈愛する一子地という境地に住すべきことを説いている。どうして摂受がまったくなかったということがあろうか。法華経には偏に摂受を明かしているようだが、陀羅尼品には『頭が七分に破れる』等とあり、折伏がないのではない。それぞれ一端を挙げているのであって、時にかなった行き方をとるよう教えているのである」等と。
 『涅槃経疏』にはこうある。
 「出家であれ在家であれ、法を護ろうとする者は、その根本の精神にかなった行いをすべきで、表面的な事(行動面)である五戒を受けず、本質的な理としての大乗の教えを守って、まさに大乗の教えを弘めるべきである。
 それゆえ、正法を護持するには、枝葉末節にこだわらないのであり、『形や儀式にとらわれない』と言うのである。
 昔の時代は、世の中が平穏で法が順調に広まっていた。それ故、戒を持つべきであり、棒などの武器を持ってはいけない。今の時代は、世の中が険悪であり正しい法が見失われている。まさしく棒などを持つべきである。
 今も昔もともに、険悪である場合は、同じように棒を持つのがよい。逆に、今も昔も。ともに、平穏であれば、同じく戒を持つのがよい。これらの取捨は適切に行って、一つに固執してはならない」と。
 あなたの不審を、世間の学者の多くは道理であると思うにちがいない。どのように諌め、真実を明らかにしても、日蓮の弟子らも、このような思いを捨てていない。あたかも一闡提人のようであるので、まず天台・妙楽等の釈を出して、そのような誤った非難を防いだのである。
 そもそも摂受・折伏・という二つの法門は、水と火のように相容れないものである。火は水を厭い、水は火を憎む。摂受の者は折伏を笑う。折伏の者は摂受を悲しむ。
 無智・悪人が国土に充満している時は、摂受を優先させるのがよい。安楽行品に説かれている通りである。邪智・謗法の者が多い時は、折伏を優先させるべきである。常不軽品に説かれている通りである。
 譬えば、熱い時に冷たい水を用い、寒い時に火を好むようなものである。草木は太陽の眷属で、寒い月に苦をなめる。水は月の所従で、熱い時には本来の性質を失ってしまう。
 末法において、摂受と折伏の両方がある。いわゆる悪国と破法の両方の国があるからである。しかしながら、日本国の今の時代は、悪国か破法の国かをわきまえなければならない。

 日蓮大聖人は邪宗を厳しく非難するけど、そのやり方がまずいんじゃないか、との疑問に答える。
 そもそも仏の教えを弘めるのに、「摂受」と「折伏」の二つの方法がある。
 『摂受』とは、相手の見解を認めつつ、寛容な姿勢で次第に正法に誘引する方法。
 『折伏』とは、邪義や悪心を折り、成仏の直道たる正法に伏せしめていく方法。

 仏法に対し無智悪国の場合は『摂受』であり、邪智謗法の場合は「折伏」である。
 (平たく言えば、摂受とは、善悪を知らないで(無智)、悪い事をしている子どもに、やさしく教えて非をさとらせること。
 折伏とは、悪いと知っていながら、悪いことをしている子どもを、厳しく叱って正しいことを教えてあげること)

 ・大聖人の時代は、邪智謗法であるから、『折伏』が正しい。

2011/09/15  青年教学1級 開目抄第47段「不求自得の大利益」

 諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし。

第47段「不求自得の大利益」
 涅槃経に曰く「譬えば貧女の如し居家救護の者有ること無く加うるに復病苦飢渇に逼められて遊行乞丐す、他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐して去らしむ、其の産して未だ久しからず是の児をケイ抱して他国に至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫毒虫のスい食う所となる、恒河に逕由し児を抱いて渡る其の水漂疾なれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず、文殊師利若し善男子有つて正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ、善男子護法の菩薩も亦是くの如くなるべし、寧ろ身命を捨てよ是くの如きの人解脱を求めずと雖も解脱自ら至ること彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」等云云、此の経文は章安大師・三障をもつて釈し給へり、それをみるべし、貧人とは法財のなきなり女人とは一分の慈ある者なり、客舎とは穢土なり一子とは法華経の信心・了因の子なり舎主駈逐とは流罪せらる其の産して未だ久しからずとはいまだ信じて・ひさしからず、悪風とは流罪の勅宣なり蚊虻等とは諸の無智の人有り悪口罵詈等なり母子共に没すとは終に法華経の信心をやぶらずして頚を刎らるるなり、梵天とは仏界に生るるをいうなり引業と申すは仏界までかはらず、日本・漢土の万国の諸人を殺すとも五逆・謗法なければ無間地獄には堕ちず、余の悪道にして多歳をふべし、色天に生るること万戒を持てども万善を修すれども散善にては生れず、又梵天王となる事・有漏の引業の上に慈悲を加えて生ずべし、今此の貧女が子を念うゆへに梵天に生る常の性相には相違せり、章安の二はあれども詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし、念を一境にする、定に似たり専子を思う又慈悲にも・にたり、かるがゆへに他事なけれども天に生るるか、又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ、此の一念三千も我等一分の慧解もなし、而ども一代経経の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり、余経の理は玉に・にたる黄石なり沙をしぼるに油なし石女に子のなきがごとし、諸経は智者・猶仏にならず此の経は愚人も仏因を種べし不求解脱・解脱自至等と云云、我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。
 涅槃経には次のように説かれている。
 「誓えば、一人の貧しい女性がいる。その人は居るべき家もなく、助けてくれる者もいない。それに加えて病苦や飢え、のどの渇きにせめられながら、さまよい、ものごいをしていた。
 ある時、ゆかりもない宿にとどまって、子どもを産んだが、この宿の主人は、この女性を追い出してしまった。
 出産してまだ日もたっていないこの子を抱いて、他の国に行こうとした。
 ところが、その途中でひどい風雨にあって寒さや苦しみにせめられ、多くの蚊や虻や蜂や刺す虫や毒虫などにくわれた。
 ガンジス川にさしかかって、子を抱いて渡り始めた。その水は急流であったが、子どもを放さなかったため、ついに母子ともに沈んでしまった。
 この女性は、子を慈しみ念った功徳によって、亡くなった後、梵天に生まれた。
 文殊師利よ、もし善男子がいて正法を護ろうとするなら、この貧しい女性がガンジス川で子どもを愛し思うゆえに自らの命を捨てたようにせよ。
 善男子よ、法を護ろうとする菩薩もまた、まさにこの例のようになるであろう。
 むしろ正法を護るためには命を捨てよ。このような人が、悟りの境涯を求めなくても、悟りの境涯が自然と訪れることは、この貧しい女性が梵天に生まれることなどは求めなかったのに、梵天に自然と至ったようなものである」等と。
 この経文については、章安大師が三障に当てはめながら解釈している。それを参照するがよい。
 ここで「貧しい人」というのは、法の宝がないことである。「女人」というのは、一分の慈悲がある人のことである。「宿」というのは、穢土のことである。
 「一人の子」というのは、法華経の信心であり、正了縁の三因仏性のうちの了因仏性という子である。
 「宿の主人が追い出す」というのは、流罪にされることである。
 「子どもを産んで日がたっていない」というのは、まだ信じて日が浅いことである。
 「悪風」というのは、流罪の命令である。「蚊・虻」等というのは「もろもろの無智の人が悪口をいい、ののしる」等のことである。
 「母子もろとも沈んだ」というのは、最後まで法華経の信心を破ることなくして、首をはねられることである。
 「梵天に生ずる」というのは、仏界に生まれることをいうのである。
 次の生の境涯を決める引業というのは、(六道や九界だけでなく)仏界にも当てはまる。
 日本・中国の万国の人々を殺したとしても、五逆罪や謗法がなければ、無間地獄には堕ちない。それ以外の悪道で、多くの歳月を過ごすのである。
 色界の天に生まれることだが、多くの戒を持ち、多くの善業を修めても、散乱した心で行えば、生まれることはできない。また、梵天の王となることは、煩悩のなごりが残っている有漏の禅定の修行を引業として、これに慈悲の行を加えて生まれることができる。
 今、この貧しい女性が子を思う慈悲の心のゆえに梵天に生まれたのは、通常の因果の様相とは違っている。
 それについては、章安大師が二つの理由をあげて解釈しているが、結局は、子を思う慈悲心よりほかに梵天に生じた因はない。
 思いを一つの対象に定めているのは、禅定と同じである。もっぱら子どものことを思うのは、また慈悲に似ている。このような理由で、他に何の善根もないけれども天に生まれたと言えよう。
 また仏に成る道について、華厳宗は唯心法界、三論宗は八不中道、法相宗は唯識、真言宗は五輪観などを立てているが、これらは実際にはかなうとは思えない。
 ただ天台宗の一念三千こそ、仏に成ることができる道であると思われる。
 この一念三千についても、私たちには智慧による理解が一分もない。しかし、釈尊一代の諸経の中で、この法華経だけが一念三千の宝珠をいだいている。
 他の経の法理は、宝玉に似ているがただの黄色い石である。
 涅槃経に「砂をしぼっても油は出ない」「石女に子どもはいない」とあるようなものである。
 諸経は智者ですら仏に成らない。この経は愚かな人でも仏と成る因をうえることができる。
 「解脱(苦しみからの根源的解放)を求めなくても、解脱が自然に訪れる」等とあるのは、このことである。
 私ならびに私の弟子は、諸難があっても、疑う心がなければ、自然に仏界に至ることができる。
 諸天の加護がないからといって、疑ってはいけない。現世が安穏でないことを、嘆いてはいけない。
 私の弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆、信心を捨ててしまったようである。
 つたない者の習性として、約束したことをいざという時には忘れてしまうものである。
 妻子をふびんと思うため、この現世の別れを嘆くのであろう。
 しかし、これまでのきわめて多くの生死流転の中で、なれ親しんだ妻子には、自分から願って離れたであろうか。それとも仏道を成就するために離れたであろうか。いずれにしても必ず別れが待っているのである。
 まず、自分が法華経の信心を破らずに成仏して、霊山浄土へ赴き、そのうえで妻子を導くがよい。

 涅槃経に説かれる「貧女のたとえ」を通して、どれほどの苦難があっても、信心を貫いていけば、自ら求めてもいないのに、想像以上の境涯──すなわち仏界を得ることができることを述べている。