2011/09/25  青年教学1級 最後に。

 青年教学1級試験の最初の記事はこちらです。

 以上で、今回の1級試験のテキストは終わります。
 申し訳ありませんが、「日顕宗を破す」のテキストはアップしません。m(_ _)m
 各記事のコメント欄において、予想問題を書き込む予定です。
 あとは細々とした修正はする予定です。

 何はともあれ、来週が試験日です。
 ラストスパートです。(;゚д゚)
 皆さん、一緒に合格いたしましょう。\(^o^)/

2011/09/25  青年教学1級 御義口伝「第廿二自我偈始終の事」

 自受用身無作三身の妙法の当体。

「第廿二自我偈始終の事」
 御義口伝に云く自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍つて自我偈は自受用身なり法界を自身と開き法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし、自受用身とは一念三千なり、伝教云く「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。
 (自我偈の「始終」について)御義口伝に次のように仰せである。
 (自我偈の冒頭に「自我得仏来」とあるように)「自」が(自我偈の)始め(の文字)である。(自我偈末尾に)「速成就仏身」とあるように「身」が(自我偈の)終わり(の文字)である。
 (このように、自我偈の文は)始めと終わりで「自身」となっている。
 (初めと終わりの文字の間にある、自我偈全体の)中の文字は、「受用」を明かしている。
 したがって、自我偈は(全体で)自受用身となるのである。
 法界を「自身」と開き、法界がそのまま「自受用身」であるならば、(法界は)自我偈に非ずということはない。(法界は、ことごとく自我偈となるのである)
 自受用身とは、一念三千である。
 伝教大師は次のように釈している。「一念三千の法を、そのまま体現しているのが自受用身の仏である。また、自受用身とは尊形を超え出た仏である。この出尊形仏とは無作の三身ということである」と。
 今、日蓮及びその門下として南無妙法蓮華経と唱え奉る者は自受用身である、と。

 自我偈全体が「自身」について説いていることを明かされている。
 また、「中の文字は受用なり、仍って自我偈は自受用身なり」と仰せられて、自身が受け用いる功徳や働きについて明かしているのが自我偈の内容であるとされている。
 言い換えると自我偈は自受用身そのものを説いている。
 「自受用身」とは、仏としての境涯を、他からの力によらないで、自ら悟り、その功徳をありのままに働かせる仏身である。南無妙法蓮華経を人法体一の境涯において所持し、その功徳を成就している本有無作三身である。

 「自受用身とは一念三千なり」と仰せになり、「人即法」の法理を示されている。
 自受用身とは、「法の功徳を自ら享受する身(自受法楽の身)」の意で、報身と同義である。
 「自受用身」を「ほしいままにうけもちいるみ」と読み仮名がふられている。

 「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」は「法即人」を表す。
 「自受用身(ほしいままにうけもいちるみ)とは一念三千なり」が「人即法」を表している。
 (あわせて人法一箇となる。)

 また伝教が言う「尊形を出でたる仏」とは、凡夫の身を改めることのない、生命本来のままの仏のことである。
 この根源的な仏こそ無作三身に当たるので「出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」と述べられている。

 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」と仰せのように、凡夫の身のままで、一念三千の当体として自身に無作三身を顕し、即身成仏する道を確立されたのが日蓮大聖人である。

2011/09/25  青年教学1級 御義口伝「第十九毎自作是念の事」

 大慈悲の広宣流布の念。

「第十九毎自作是念の事」
 御義口伝に云く毎とは三世なり自とは別しては釈尊惣じては十界なり、是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念なり、作とは此の作は有作の作に非ず無作本有の作なり云云、広く十界本有に約して云わば自とは万法己己の当体なり、是念とは地獄の呵責の音・其の外一切衆生の念念・皆是れ自受用報身の智なり是を念とは云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり云云
 (寿量品の「毎自作是念〈毎に自ら是の念を作す〉」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
 「毎」とは三世である。
 「自」とは別しては釈尊を指し、総じては十界のことである。
 「是念」とは無作本有の南無妙法蓮華経の一念である。
 「作」とは、この「作」は有作の「作」ではなく、無作本有の「作」である、と。
 (以上は仏の一念に約したが)広く十界本有に約していえば、「自」とは万法それぞれの当体である。
 「是念」とは、地獄の呵責の音や声や、そのほか一切衆生の念々が皆、自受用報身の智である。これを念というのである。
 今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念である、と。

 「御義口伝に云く毎とは三世なり」と。
 「毎」とは、三世常住の義である。
 「自」とは、十界すべての衆生を意味する。
 「作」とは、本来ありのままの「無作本有」の「作」である。
 「是念」とは、念ずるものの究極の南無妙法蓮華経である。

 妙法の当体という立場から広く論ずれば、この文でいう「自」とは「万法己己の当体」となる。
 この「念」のいずれもが「自受用報身の智」のあらわれであるということになる。
 「自受用報身の智」とは、十界の衆生の一念一念の働きは、妙法を自分の境涯なりに受け用いる智慧を表しているので、妙法の力を自在に受用する自受用報身の智慧の一分にあたるのである。

 「御義口伝」では「毎自作是念」の文について、十界全体の立場から釈されていることに特徴がある。

2011/09/25  青年教学1級 御義口伝「第十一自我得仏来の事」

 無作三身の仏と悟る自我得仏来の行者。

「第十一自我得仏来の事」
 御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。
 (寿量品の自我偈の冒頭の「我れは仏を得て自り来」の経文について)御義口伝に次のように仰せである。
 この経文は、この(「自我得仏来」の)一句で三身のことを習得する文である。といわれている。
 すなわち「自」とは九界、「我」とは仏界である。この十界の衆生は本有無作の三身にして来る仏であるというのである。
 この経文は、「自」(九界)も「我」(仏界)も本然的にそなえた仏が来たという意味で、十界本有の明文である。
 「我」は法身、「仏」は報身、「来」は応身である。この三身は無始無終の古仏であり、自ら得たものである。信解品に「無上の宝聚は求めざるに自ら得たり」とある経文を思うべきである。
 したがって、(このような仏を説く)顕本遠寿の説は諸教には絶えて説かれなかったのである。
 今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るのは自我得仏来の行者なのである。

 この「我れは仏を得て自り来」との自我偈冒頭の句を「一句三身の習いの文」と言うと述べられている。「一句三身の習いの文」とは、この一句に法報応の三身が示されているという意味である。
 仏も九界の衆生もともに「本有無作の三身」の現れなのである。

 「我仏来」の三文字をそれぞれ法報応の三身に配され、法報応の三身を一身に具えているのが久遠(無始無終)の仏であり、妙法を受持する者は、この三身即一身の古仏を自得するのであると仰せられている。
 「我」は「法身」。
 真理(法)を体とする仏であり、それがまさに仏の「我」だからである。
 「仏」は「報身」。
 菩薩が誓願と行の報いとして獲得した智慧の身を「報身」と言う。また悟り、智慧を得た人の意を「仏」でもある。
 「来」は「応身」。
 衆生を化導するために衆生の機縁に従って種々の形となって出現する仏身を「応身」と言う。また仏が衆生の機縁に応じて出現する(来る)ことを指すからである。

 「自得」とは他から与えられるのでなく、わが身に自ら得ること。
 妙法を信ずるとき、衆生がわが身に無作の三身如来を開き顕すのである。

 「無上宝聚」すなわち無作三身如来という最高の境涯を一切衆生は自らの生命にもともと具えている。
 それを妙法を自覚し、信受することによって享受できるのである。

 この項の結びとして「然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり」と仰せである。
 これは、以上に示された、我々が本来「無始の古仏」であるという法理は、この寿量品以前にはいかなる経にも説かれていない法門である、との意である。
 「顕本遠寿」とは、妙楽の『法華文句記』の言葉で「本の遠寿を顕す」と読む。
 「本の遠寿」とは、文底の義では久遠元初・無始無終の仏の寿命をいう。
 それ故に「今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり」と仰せられている。
 すなわち、文底独一本門である「南無妙法蓮華経」を唱える大聖人一門こそ、我が身が無作三身の仏と悟る「自我得仏来」の文を行じている者である。

2011/09/25  青年教学1級 御義口伝「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」

 十界本有の凡夫が無作三身の当体蓮華の仏。

「第四如来如実知見三界之相無有生死の事」
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は地獄の有の侭十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云
 (寿量品の「如来は如実に三界の相を知見するに、生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く」の経文について)御義口伝には、次のように仰せである。
 (経文に説かれている)「如来」とは、久遠実成の釈尊だけではなく、さらには三界の衆生である。
 寿量品の眼を開けて、この三界の衆生を見れば、そのまま十界本有の当体である、とありのままに知見できるのである。
 (また、経文にある、如来が知見している)「三界之相」とは、生老病死である。それを本有の生死と見れば、「無有生死(生死が有るということは無い)」なのである。(「無有生死、若退若出」と経文にあるが)生死が無ければ退出も無いのである。ただ生死が無いということではない。
 生死を見て、厭い離れようとすることを迷いといい、始覚というのである。そのままで本有の生死と知見することを悟りといい、本覚というのである。
 今、日蓮及びその門下が南無妙法蓮華経と唱え奉る時、本有の生死、本有の退出と開覚するのである。
 (また「無有生死、若退若出、亦無在世及滅度者〈生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く〉」の文は、次のようにも読むことができるのである)
 「無」も「有」も、「生」も「死」も、「若退」も「若出」も、「在世」も「減後」も、ことごとく皆、本有常住の妙法の振る舞いである、と。
 「無」とは法界同時に妙法蓮華経の振る舞いよりほかには「無い」ということである。「有」とは、地獄ならば地獄の「有りのまま」が十界本有の妙法の全体であるということなのである。
 「生」とは妙法の生であるから随縁である。
 「死」とは寿量の死であるから法界同時に真如である。
 「若退」の故に「滅後」である。
 「若出」の故に「在世」である。
 したがって、(これらを空仮中の三諦に約せば)「無」「死」「退(若退)」「減(減度)」は空諦である。「有」「生」「出(若出)」「在(在世)」は仮諦である。「如来如実」は中道である。
 (また、法報応の三身に約せば)「無」「死」「退(若退)」「減(減度)」は無作の報身である。「有」「生」「出(若出)」「在(在世)」は無作の応身である。「如来如実」は無作の法身である。
 この三身は我が一身である。「一身即三身なるを名づけて秘と為す」とはこのことである。「三身即一身なるを名づけて密と為す」もこの意味である。
 ゆえに無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮の弟子檀那等である。南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故である。


 「如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり」と仰せである。
 大聖人は、この「如来」とは釈尊に限定されるものではなく、一切衆生のことであると最初に強調されている。
 「寿量品の眼」とは、生と死をくり返して永遠の生命を生きる久遠の仏の悟りの眼である。この眼から見るとき、一切衆生は十界の生命すべてを、もともと具足している「十界本有」の存在であり、一切衆生が一念三千の妙法の当体であることが明瞭になるのである。

 「三界之相とは生老病死なり」と、三界すなわち凡夫が現実に生きる世界の相とは、衆生が生老病死の諸相を現す世界であることが示されている。現実の存在は、すべて生老病死を免れない「無常の存在」だからである。
 しかし、この「三界の衆生」を、「寿量品の眼開けて」妙法の当体であると如実に知見すれば、「生」も「死」も、「本有の生死」すなわち生命に本然的にそなわった現象である。つまり、「生死」とは、「本有」の体である妙法が現す変化の相にほかならない。
 また「生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり」とは、悟りの眼から如実知見すれば、「生」と「死」だけでなく、現実世界から去っていく「退」も現実世界に出現してくる「出」もないということである。しかし、「生死」が無いということでもない。

 したがって、「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり」と仰せである。

 生死を厭い(嫌い)、恐れるのは生命の真実に暗い「迷い」の姿である。反対に、自己の生死、一切の生死を「本有の生死」すなわち妙法の生死と知見しているのが仏の「悟り」の境涯なのである。
 寿量品の久遠実成の仏は、成仏してから五百塵点劫という計り知れない長遠の期間、衆生を救済するために裟婆世界で生死をくり返す仏であり、生死を厭わないばかりか、裟婆世界で生死をくり返しながら、戦っていくなかに、仏の本来の在り方があることを示している。

 続いて、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり」と仰せである。
 「退」と「出」は、死と生である。

 「又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり」以下の御文は、「有無」「生死」「退出」「在世滅後」がすべて本有常住の当体である妙法のあらわす「振舞」であることを示されている。

 次に「生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり」の御文は、生と死を随縁と真如に立て分けて示されている。
 「寿量の死なれば」と仰せのように、あくまでも本有常住十界三千の当体である生命が現ずる生死の変化相としての死であるから法界(三千諸法)同時に真如となるのである。

 続いて「若退の故に滅後なり若出の故に在世なり」と仰せである。

 そして「有無」「生死」「退出」「在世滅後」を、空仮中の三締、法報応の三身の視点から位置づけられる。
 「無・死・退・滅」は「空」で「無作の報身」
 「有・生・出・在」は「仮」で「無作の応身」
 「如来如実」は「中諦」で「無作の法身」

 ここで大事なのは、「此の三身は我が一身なり」との仰せである。生死の本体である私たちの一身は、本来、妙法の当体であり、この一身に無作の三身を開くことができるのである。
 大聖人は、「此の三身は我が一身なり」と、「三身」といってもどこまでも私たちの「一身」のことであると強調されている。そして、天台の「一身即三身名為秘」「三身即一身名為密」も、「是なり」「此の意なり」と仰せられているように、あくまで凡夫の「我が一身」の秘密を述べているものとして開示されているのである。
 この秘密を開くのが大聖人の仏法なのである。

 最後に大聖人は、「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子樋那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」と仰せられている。
 この項の冒頭に「如来とは三界の衆生なり」と仰せのように、生死生死とくり返す凡夫自身が、十界本有の生命を持ち、「本有の生死」の当体である。