2009/11/01 初級・3級教学試験 「兄弟抄」(下)その1
池田名誉会長 御書講義
背景と大意
本抄で、日蓮大聖人は、池上宗仲・宗長の兄弟に、「難を乗り越える信心」について教えられています。
池上兄弟は、立宗宣言から3年後の建長8年(1256年)ごろ入信したと伝えられる草創からの門下です。しかし、父・康光は念仏の強信者で、極楽寺良観の信奉者でもあり、兄弟の信心に反対し続けました。
良観は、幕府権力に取り入って、大聖人に迫害を加えていた黒幕でした。特に大聖人の身延入山後は、迫害の刃を大聖人の門下に向けていきます。
本抄は、兄弟が入信してはぼ20年となる文永12年(1275年、異説もある)、父 ・ 康光が兄の宗仲を勘当したことを受けて送られた御書です。この勘当の背後にも良観の陰謀があったと考えられます。池上家は幕府の建設・土木関係を担う家柄であり、勘当されれば、こうした地位を引き継ぐ権利が奪われ、生活が根底から脅かされます。
大聖人は、兄よりも、弟・宗長の信心が動揺することを心配され、さまざまな角度から激励されています。
まず、難の本質について、第六天の魔王が取りついた悪知識が引き起こしたものであると述べられています。また、難にあうのは、過去世の謗法の重罪の報いを現世に軽く受けて消滅させるためであるという転重軽受の法門を説かれます。さらに、諸天善神が兄弟に試練を与えているのだ、と難の意義を教えられます。
そして、紛然と競い起こる三障四魔と最後まで戦い抜く信心の大切さを訴えられ、兄弟と夫人たちが、信心の団結で一切を乗り越えていくよう渾身の励ましを送られています。
こうして弟の宗長も、兄とともに信心を貫くことを決意し、兄弟は数年後、見事、父の入信を勝ち取るのです。(背景と大意は大白2005年2月号のものです)
通解
さて、天台大師の摩訶止観という書は、天台の生涯における大事であり、釈尊一代の教えの肝要を述べたものである。(中略)摩訶止観の第五巻に説かれる一念三千の法門は、もう一重深く立ち入った法門である。この法門を説く時には、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらないならば、正法であると知ることができない。
摩訶止観の第五巻には「仏法の修行が進み、その理解が深まれば、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。…だが、この三障四魔に、決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」とある。この摩訶止観の釈は、日蓮の身に当てはまるばかりではなく、わが一門の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたる糧とすべきである。
解説
大聖人は、大難に直面した池上兄弟に対する「兄弟抄」を結ぶにあたって、三障四魔の出現を説く「摩訶止観」の文を通して、断じて魔に破られてはならないと御指導されています。
まず、大聖人は、天台大師の「摩訶止観」第五の巻を取り上げられ、「一念三千の法門」こそ仏教の肝心であることを示されます。
「一念三千」とは、万人成仏を示す法華経の思想の真髄を、観心という生命変革の実践の指標として表現した法理です。
天台大師は「摩訶止観」第五の巻の「正修止観」の章の冒頭で、いよいよ仏法の極理である一念三千法門を説き明かすにあたって、まず、三障四魔を恐れて退転してはならないとの警鐘を鳴らしています。この点に、大聖人は鋭く注目されます。
すなわち「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」と仰せのように、正しい仏法の実践には必ず魔が出来する。その確信と覚悟のもとで敢然と魔を打ち破り、生命変革を勝ち取っていかなければならない。その真剣勝負の指標が、ここに説かれているのです。
まず、「行解既に勤めぬれば」とあります。これは、経典に対する理解が深まり、その理解に基づいての修行が整った時、という意味です。すなわち、いよいよ生命変革のための本格的な修行に入る時だからこそ、三障四魔が競い起こる。
次に、三障四魔は「紛然として競い起る」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意味です。まさしく「紛然として競い起る」とは、三障四魔が入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。三障四魔は、不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせてくる。
この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を、天台大師は明快に2点、挙げています。それが、「随う可らず」、そして「畏る可らず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を畏れれば、正法を修行することの妨げとなってしまう。
結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利への根幹です。魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」。魔を恐れず、魔に断固立ち向かっていく「勇気」。要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。妙法の力用が、「無明」を即「法性」へ転じ、「難来るを以って安楽」(750ページ)と言う境涯を開いていくからです。
三障四魔と戦うことで信心が磨かれるのです。それはあたかも、金山がますます輝き、大海がますます豊かになり、火がますます燃え盛り、求羅がますます大きくなるようなものです。法華経への強盛な信心こそ、変毒為薬の妙用をもたらします。「災い」を変じて「幸い」へと変えるのです。
「法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大難の如し」(1136ページ)、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(1448ページ)と仰せです。大難は、法華経の行者の生命を強くします。大難に雄々しく立ち向かってこそ、仏界の生命は、いやまして光り輝いていくのです。
大聖人は、この「難即成仏」の軌道を示して、池上兄弟に最後まで戦う覚悟を促されていると拝されます。
ありがたいことに、三障四魔と戦い、勝ち切っていく軌道は、師匠であられる御本仏・日蓮大聖人御自身が歩んでこられた道です。まさに「日蓮が身に当る」実践です。
そして、師に続いて同じ栄光の大道を歩めと、池上兄弟に呼びかけられているのです。それが「日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」との仰せです。
また、池上兄弟が実践し、勝利した姿が、後に続く門下たちの未来永遠の手本となります。ゆえに「謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」と仰せられているのです。
どんな人でも難のない人生はありません。三障四魔の難を受けきって乗り越えれば、その難は成仏になります。
だれしも苦難は避けたいものですが避けられません、妙法を根本に勝ち切る要諦がここにあります。
通解
この釈にある「三障」というのは、煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、貪・瞋・痴などによって妨げが現れるのである。業障というのは、妻子らによって妨げが現れるのである。報障というのは、国主や父母らによって妨げが現れるのである。
また、「四魔」のなかで天子魔というのも同様である。今の日本国で、「私も止観を体得した」「私も止観を体得した」と言っている人々のなかで、いったいだれに、三障四魔が競い起こっているであろうか。
解説
続けて大聖人は、池上兄弟のために、三障四魔の具体的な姿を教えておられます。
そして、現実に三障四魔と戦い続ける大聖人と門下だけが、真の正法実践の継承者であることを明かされます。
大聖人は本抄において、業障を「妻子による妨げ」、報障を「国主父母による妨げ」というように、具体的に示されています。これは現実に池上兄弟が直面している事態に即して明瞭に言われたものであると拝されます。
ただし、ここで確認しておかなければならないことは、妻子や国主・父母が信仰の妨害をすることは、あくまで自身の信心を妨げる「悪縁」にすぎません。退転してしまうかどうかは、自分自身の心の問題です。妻子・国主・父母そのものが絶対的な悪の存在だということなどではありません。自身が勝利すれば一切が善知識となります。さらに言えば、自分自身を変革することで、他者の生命を変革していくことも可能になるのです。
経論によって種々の魔が説かれますが、「大智度論」等では、煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔の四魔が挙げられています。「煩悩魔」とは、煩悩が衆生の心を悩乱し智慧の命を奪うことです。「陰魔」とは、五陰(肉体や心)の不調和から心に懊悩(おうのう)が生じて信心を破壊することで、病魔なども含みます。「死魔」は、修行者自身の生命が奪われることと、修行者の死によって周囲の者が信心に疑いを生ずることです。そして「天子魔」は他化自在天子魔、すなわち第六天の魔王による信心の破壊です。
ここで、大聖人は四魔のうち天子魔のみを取り上げられています。これは池上兄弟が現実に直面している課題にかかわる点に絞られたゆえであると拝されます。
ここでは、この三障四魔を起して、打ち破ることができるのは、日蓮大聖人及び大聖人門下しかいないことを強調されていきます。
創価教育学会の第5回総会(昭和17年11月)で、牧口先生は「兄弟抄」のこの一節を引かれ、このように師子吼されました。
「従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい」
「魔が起こらないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか。しからば、魔が起こるか起こらないかで、信者と行者の区別がわかるではないか。
自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起こらない。これに反して、菩薩行という大善生活をやれば、必ず魔が起こる」
「我々は、蓮華が泥中よりぬけ出でて清浄の身をたもつがごとく、小善中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものであれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆえに行者といわれるのである」
一生成仏そして広宣流布という大利益のため、身命を賭して三障四魔との戦いに挑む人こそ、真の「行者」です。そして、わが学会員の皆様こそ、現代における誉れの「行者」なのです。
我々学会員はむしろ難を競い起して行くのです。大変と思うかもしれませんが、そこが大事なのです。臆病な勇者はいません。人生の勇者になりましょう。
背景と大意
本抄で、日蓮大聖人は、池上宗仲・宗長の兄弟に、「難を乗り越える信心」について教えられています。
池上兄弟は、立宗宣言から3年後の建長8年(1256年)ごろ入信したと伝えられる草創からの門下です。しかし、父・康光は念仏の強信者で、極楽寺良観の信奉者でもあり、兄弟の信心に反対し続けました。
良観は、幕府権力に取り入って、大聖人に迫害を加えていた黒幕でした。特に大聖人の身延入山後は、迫害の刃を大聖人の門下に向けていきます。
本抄は、兄弟が入信してはぼ20年となる文永12年(1275年、異説もある)、父 ・ 康光が兄の宗仲を勘当したことを受けて送られた御書です。この勘当の背後にも良観の陰謀があったと考えられます。池上家は幕府の建設・土木関係を担う家柄であり、勘当されれば、こうした地位を引き継ぐ権利が奪われ、生活が根底から脅かされます。
大聖人は、兄よりも、弟・宗長の信心が動揺することを心配され、さまざまな角度から激励されています。
まず、難の本質について、第六天の魔王が取りついた悪知識が引き起こしたものであると述べられています。また、難にあうのは、過去世の謗法の重罪の報いを現世に軽く受けて消滅させるためであるという転重軽受の法門を説かれます。さらに、諸天善神が兄弟に試練を与えているのだ、と難の意義を教えられます。
そして、紛然と競い起こる三障四魔と最後まで戦い抜く信心の大切さを訴えられ、兄弟と夫人たちが、信心の団結で一切を乗り越えていくよう渾身の励ましを送られています。
こうして弟の宗長も、兄とともに信心を貫くことを決意し、兄弟は数年後、見事、父の入信を勝ち取るのです。(背景と大意は大白2005年2月号のものです)
本文
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし(中略)其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。
通解
さて、天台大師の摩訶止観という書は、天台の生涯における大事であり、釈尊一代の教えの肝要を述べたものである。(中略)摩訶止観の第五巻に説かれる一念三千の法門は、もう一重深く立ち入った法門である。この法門を説く時には、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらないならば、正法であると知ることができない。
摩訶止観の第五巻には「仏法の修行が進み、その理解が深まれば、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。…だが、この三障四魔に、決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」とある。この摩訶止観の釈は、日蓮の身に当てはまるばかりではなく、わが一門の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたる糧とすべきである。
解説
大聖人は、大難に直面した池上兄弟に対する「兄弟抄」を結ぶにあたって、三障四魔の出現を説く「摩訶止観」の文を通して、断じて魔に破られてはならないと御指導されています。
まず、大聖人は、天台大師の「摩訶止観」第五の巻を取り上げられ、「一念三千の法門」こそ仏教の肝心であることを示されます。
「一念三千」とは、万人成仏を示す法華経の思想の真髄を、観心という生命変革の実践の指標として表現した法理です。
天台大師は「摩訶止観」第五の巻の「正修止観」の章の冒頭で、いよいよ仏法の極理である一念三千法門を説き明かすにあたって、まず、三障四魔を恐れて退転してはならないとの警鐘を鳴らしています。この点に、大聖人は鋭く注目されます。
すなわち「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」と仰せのように、正しい仏法の実践には必ず魔が出来する。その確信と覚悟のもとで敢然と魔を打ち破り、生命変革を勝ち取っていかなければならない。その真剣勝負の指標が、ここに説かれているのです。
まず、「行解既に勤めぬれば」とあります。これは、経典に対する理解が深まり、その理解に基づいての修行が整った時、という意味です。すなわち、いよいよ生命変革のための本格的な修行に入る時だからこそ、三障四魔が競い起こる。
次に、三障四魔は「紛然として競い起る」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意味です。まさしく「紛然として競い起る」とは、三障四魔が入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。三障四魔は、不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせてくる。
この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を、天台大師は明快に2点、挙げています。それが、「随う可らず」、そして「畏る可らず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を畏れれば、正法を修行することの妨げとなってしまう。
結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利への根幹です。魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」。魔を恐れず、魔に断固立ち向かっていく「勇気」。要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。妙法の力用が、「無明」を即「法性」へ転じ、「難来るを以って安楽」(750ページ)と言う境涯を開いていくからです。
三障四魔と戦うことで信心が磨かれるのです。それはあたかも、金山がますます輝き、大海がますます豊かになり、火がますます燃え盛り、求羅がますます大きくなるようなものです。法華経への強盛な信心こそ、変毒為薬の妙用をもたらします。「災い」を変じて「幸い」へと変えるのです。
「法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大難の如し」(1136ページ)、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(1448ページ)と仰せです。大難は、法華経の行者の生命を強くします。大難に雄々しく立ち向かってこそ、仏界の生命は、いやまして光り輝いていくのです。
大聖人は、この「難即成仏」の軌道を示して、池上兄弟に最後まで戦う覚悟を促されていると拝されます。
ありがたいことに、三障四魔と戦い、勝ち切っていく軌道は、師匠であられる御本仏・日蓮大聖人御自身が歩んでこられた道です。まさに「日蓮が身に当る」実践です。
そして、師に続いて同じ栄光の大道を歩めと、池上兄弟に呼びかけられているのです。それが「日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり」との仰せです。
また、池上兄弟が実践し、勝利した姿が、後に続く門下たちの未来永遠の手本となります。ゆえに「謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」と仰せられているのです。
どんな人でも難のない人生はありません。三障四魔の難を受けきって乗り越えれば、その難は成仏になります。
だれしも苦難は避けたいものですが避けられません、妙法を根本に勝ち切る要諦がここにあります。
本文
此の釈に三障と申すは煩悩障業障報障なり、煩悩障と申すは貪瞋癡等によりて障礙出来すべし、業障と申すは妻子等によりて障礙出来すべし、報障と申すは国主父母等によりて障礙出来すべし、又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し今日本国に我も止観を得たり我も止観を得たりと云う人人誰か三障四魔競へる人あるや
通解
この釈にある「三障」というのは、煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、貪・瞋・痴などによって妨げが現れるのである。業障というのは、妻子らによって妨げが現れるのである。報障というのは、国主や父母らによって妨げが現れるのである。
また、「四魔」のなかで天子魔というのも同様である。今の日本国で、「私も止観を体得した」「私も止観を体得した」と言っている人々のなかで、いったいだれに、三障四魔が競い起こっているであろうか。
解説
続けて大聖人は、池上兄弟のために、三障四魔の具体的な姿を教えておられます。
そして、現実に三障四魔と戦い続ける大聖人と門下だけが、真の正法実践の継承者であることを明かされます。
大聖人は本抄において、業障を「妻子による妨げ」、報障を「国主父母による妨げ」というように、具体的に示されています。これは現実に池上兄弟が直面している事態に即して明瞭に言われたものであると拝されます。
ただし、ここで確認しておかなければならないことは、妻子や国主・父母が信仰の妨害をすることは、あくまで自身の信心を妨げる「悪縁」にすぎません。退転してしまうかどうかは、自分自身の心の問題です。妻子・国主・父母そのものが絶対的な悪の存在だということなどではありません。自身が勝利すれば一切が善知識となります。さらに言えば、自分自身を変革することで、他者の生命を変革していくことも可能になるのです。
経論によって種々の魔が説かれますが、「大智度論」等では、煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔の四魔が挙げられています。「煩悩魔」とは、煩悩が衆生の心を悩乱し智慧の命を奪うことです。「陰魔」とは、五陰(肉体や心)の不調和から心に懊悩(おうのう)が生じて信心を破壊することで、病魔なども含みます。「死魔」は、修行者自身の生命が奪われることと、修行者の死によって周囲の者が信心に疑いを生ずることです。そして「天子魔」は他化自在天子魔、すなわち第六天の魔王による信心の破壊です。
ここで、大聖人は四魔のうち天子魔のみを取り上げられています。これは池上兄弟が現実に直面している課題にかかわる点に絞られたゆえであると拝されます。
ここでは、この三障四魔を起して、打ち破ることができるのは、日蓮大聖人及び大聖人門下しかいないことを強調されていきます。
創価教育学会の第5回総会(昭和17年11月)で、牧口先生は「兄弟抄」のこの一節を引かれ、このように師子吼されました。
「従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい」
「魔が起こらないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか。しからば、魔が起こるか起こらないかで、信者と行者の区別がわかるではないか。
自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起こらない。これに反して、菩薩行という大善生活をやれば、必ず魔が起こる」
「我々は、蓮華が泥中よりぬけ出でて清浄の身をたもつがごとく、小善中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているようなものであれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆえに行者といわれるのである」
一生成仏そして広宣流布という大利益のため、身命を賭して三障四魔との戦いに挑む人こそ、真の「行者」です。そして、わが学会員の皆様こそ、現代における誉れの「行者」なのです。
我々学会員はむしろ難を競い起して行くのです。大変と思うかもしれませんが、そこが大事なのです。臆病な勇者はいません。人生の勇者になりましょう。